第百二十話 名前も知らない誰か
『陛下…私は貴族位を捨てたいと考えております』
暗い顔をして琥珀の王の前に立った男が静かに告げる。王は動揺した様子で『なぜだ?』と問うたけれど、男は何も言わずに首を振った。
『どうか、遠方の地で静かに暮らす事をお許しください』
理由も告げずに去ろうとする男を引き止めるために王は考えるが、男を止める方法が見つからない。結局、王は男に田舎奥の屋敷を与えた。
王の元を去る時、男は振り向き、最後の言葉を紡いだ。
『王よ、姫を…家族を、大事になさってください』
王は男を信用していたけれど、結局、その言葉が届く事はなかった。
───
「─い…─さん!…──!姫さん!!」
「っ!?」
肩を掴まれ強く揺さぶられる。驚いて咄嗟に浮上した意識に従うままに目を開ければ、目の前にはヨルがいた。
「ヨ…ル…?」
「そうだ。どうした姫さん、一人で居眠りなんて珍しいじゃねぇか」
「え…あぁ、頭が痛くて…」
「薬は?」
「飲んでないです…」
どうしていきなり起こしたのか、そう聞きたかったけど、なぜか息を切らして小さな動揺を見せるヨルを見ると質問に答えるしかできなかった。呼吸が整えば、ヨルは「爺さんと嬢ちゃんに怒られるな…」と頭を掻きながら呟く。
ヨルの視線の先は私ではなく絨毯に向いていて、同じように視線を落とせばヨルの泥だらけの足が見えた。
「どうしたんですか。その靴」
「………」
怒られる前の子供みたいな顔をするヨルに首を傾げ、それからヨルが指差した場所を見る。すると、そこには窓があって、なぜか大きく開いていた。
「まさか…」
「廊下走るわけにはいかねぇだろ?」
確かに!確かにそうだけど!
「そもそも壁のぼる人はいないですからね…って、そういえばなんでヨルはここにいるんですか?屋敷にいたはずなんじゃ…」
「あ?あー…暇だったんでな…」
つまり抜け出してきたと…。ははっ、まぁヨルの行動を制限するつもりはないから良いけどね。ヨルの事だから、ここの近くを通った時に私の気配に気づいたのだろう。それで周りに誰もいないから不思議に思った…とかかな?
こうやって息を切らして走ってきてくれるなんて、意外と私はヨルと仲が良くなれてるのかもしれない。
「それより、体調は大丈夫なのか?」
顔を覗き込んできたヨルに驚きながらも、「だいぶ良くなりました」と答える。最近は矢継ぎ早に色々な事が起こっていたから、疲れでも溜まったか。まぁ、今日ゆっくりお風呂に入ってぐっすり眠れば疲れなんて取れるだろう。なんたって14歳だからね、アステアは。若い体って素晴らしい。
「そうか、それなら…」
「?」
ぴくっとヨルの耳が反応する。エスターのようにわかりやすくはないけど、確かに動いた耳に首を傾げれば、扉の方へ視線を移したヨルの横顔が見えた。眉間に皺が寄っているけど本当に綺麗で、「尊いかよっ」と心の中で叫んでしまう。推しのふとした時の表情の威力はスゴいよね。
「ヨル?どうしたんですか?」
「…いや、入っては来なかったなと思っただけだ。頭痛が治ったんなら早めにエスターの嬢ちゃんを呼べよ?」
「はい、そうします」
扉の前に誰かいたのか?入って来なかったって事は、もしかして気を遣わせちゃったとか?
心の中で名前も知らない誰かに申し訳ないなと思いつつ、私の体調が回復したのを確認したヨルがまた窓から出て行こうとする。さすがにそれはダメだと制止しようとしたら、窓へ向かうヨルの後ろ姿が誰かと重なって見えた。
なんで太ってないんだ…?
「……?」
いや、ヨルが太ってるわけないだろ。何考えてんだ私。
「???」
パッと浮かんで消えてしまった何かに顔を顰める。ん〜と唸りながら腕を組めば、私の異変に気づいたヨルが振り返った。
「伯爵……?」
あぁ、そうだ。振り向いてアーロンに最後の言葉を告げた人。さっきまで見てた夢…?
「え?んぅ…?」
「どうかしたのか?」
「あ、いや、なんでもないです…」
もしかして、また変な夢を見たのか。サーレが蹲って泣いている夢の次はアーロンと名前も知らない男の夢って…。っていうか、本当に誰だ、あの男。確か「貴族位」とか言ってたからアルバの貴族か?リリアに会ったから何か影響されたとか…考えすぎ?
「姫さん」
「え?」
顔を掴まれグイッと上を向かされる。顎クイなんて可愛いものじゃなくて、ジッとヨルが私の目を見据えていた。
「また疲れる事考えてんだろ。ちょっとは休め」
「あの…」
「決めたぞ。俺は姫さんが休むのを見届けるまでここにいるからな」
そう言うやいなや私の顔から手を離し、ヨルは私の目の前の椅子にドカッと座り込んだ。
「休め」
そう言い放ったヨルは腕を組んでしまった。おそらく今のヨルには何を言っても無駄だろう。私はどうして良いのかわからなかったので、とりあえず目を瞑った。
たぶん寝ろって意味…だよな?
椅子で寝て疲れがどれだけ取れるかわからないけど、私はヨルの手によって起こされた意識を、またヨルの手によって手放したのだった。
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