第百六話 百歩譲って良いと思うよ
もしかしたら女性に叩かれた事なんて初めてなのかもしれない。チヤホヤされて逆に女嫌いになったような奴だから。
「何するんだよ!」
声を荒げるクリフィードは本当に驚いているような顔をして、叩かれた頬に手を添えている。出会ってから耳を抓ったり首締めたり色々とやってきた自覚はあるけど、今ほどクリフィードが驚いている様子を見た事はないと思う。それはきっと、クリフィードが私の気持ちを薄々は感じ取っているからなのだろう。
でも、だったら、なんであんな事言ったんだ。
「言って良い事と悪い事の区別もつかないわけ?」
リンクは望んでるんだよ、自分の才能を生かせる場所を。
先生と慕っているのは、まぁ百歩譲って良いと思うよ。他人の気持ちにまで介入する気はない。けど、それはクリフィードだって同じはずだ。リンクがどれだけ悩んだのか私だってわからないけど、決意した時のリンクの目は確かに本気だった。それだけで、リンクの覚悟がわかった。
「あんたがそこまで酷いとは思わなかった」
私の口から出た言葉を最後に、その場に沈黙が広がる。時計を見ればブラッドフォードや王様が国民の前へ出る時間が迫っていて、頭の隅で私とクリフィードが出席しないのはまずいだろうなぁ、と他人事のように思ってしまった。
「酷いって…なんだよ…お前の方がよっぽど酷いだろうが…」
やっと紡ぎ出された声は弱々しく、自分自身を庇っているようにも聞こえる。慕ってる人の知らない一面を、しかも悪いところをいきなり突きつけられて動揺してるのはわかってるよ。だけど、それ以上にさっきの言葉が許せなかったんだ。
「先生は、俺と兄上の、大事な人…なんだよ…。大事なものを守るための術を教えてくれた人で、だから、兄上も戦場で生きていられてるんだ」
ポツリポツリと落とされていく言葉達を聞きながら、頷いては「そうなんだ」と返事をする。リディア伯爵がクリフィードにとって先生である事は変わらない事実だから、それを否定しても無駄だ。
「人の先生、勝手に悪く言うなよ…暴力女」
一番言いたかったんだろう事が呟かれ、クリフィードが近くのソファに体を預けた。力が抜けたのか項垂れるように座る姿は声と同じくらい弱々しく見えた。けど、それに同情して優しくするほど私はクリフィードの事を大事にはしていない。
「それでも、事実は受け入れなきゃいけないと思うよ」
静かに、ただ現実を突きつけるためだけに言葉を吐けば、クリフィードは目を強く閉じて、「そうだな」と答えた。
「リディア伯爵は、結局子供二人の事をどっちもちゃんと見てないんだ。自分がリアンを騎士にしたいからリンクを当主にする。騎士にしたいって思いも、当主にするって思いも、自分だけの感情で、それを周りに押し付けてる。あの人は尊敬できる部分があるかもしれないけど、自分の家族を押し潰そうとしてる人なんだよ」
淡々と続く私の声を聞き続け、クリフィードはやっぱり「そうだな」と答えた。何度も何度も噛み砕いて、噛み潰して、やっと飲み込めそうになっても、どこかで拒否反応でも起こしているのか。クリフィードは私を見ようとはしない。
「………先生の事は、好きにしろ」
「!」
「けど、俺は関わらない。もし先生が間違ってないって思ったら先生側に付く」
頑張って見つけた答えがそれなら仕方ない。
私は頷いて「わかった」と返事をした。
「あ、でも姉様の事は協力してよ?」
「お前…もう少し気を遣うとかないのかよ…」
「ないね。姉様の事とは別問題です」
ふんっと鼻を鳴らしてやれば、クリフィードは多少声を張り上げて「脅しさえなければ!」なんて言い放ちやがった。
───
「なんとなくまとまりました」
「そうか」
一応部屋の前で待機してもらっていたヨルに報告。ヨルは「がっつり殴らなかったんだな」と冗談まじりに言いながら笑っていた。
「伯爵より大事な恋愛ごとには協力してくれんだろ?」
「はい。脅しがあるから協力せざるを得ないんだ!って文句言ってましたけど」
「脅し?」
首を傾げるヨルの仕草がちょっと可愛くて、私はきゅっと口を結んだ。
「フィニーティスの王子を脅せるネタなんてあんのか」
「……くだらない事ですよ」
きっと王様なら笑って許してくれるだろうに、クリフィードはそれをわかっていないのだ。たぶん怒るのは王妃様の方だと思うけど、それだって説教一時間くらいで終わると思う。それくらい本当にくだらない事。
私が一つ溜息をつけば、ヨルはそのくだらない事が気になったのか「教えてくれねぇのか?」と聞いてきた。
「耳貸してください」
「おう」
クリフィードの弱味でも握れると思ったのか、それとも単純に楽しんでいるのかわからないけど、ヨルは笑顔で私の口元に耳を近づける。私は一つ息を吸ってから、小さな小さな小声で教えてやったのだ。
「国宝の壺を小さい頃に割っちゃったんですよ」
ただ、本当にそれだけ。そんな小さな事を気にし続ける馬鹿なのだ、クリフィードは。私はまた溜息をついてから、もうとっくに王様の頭からは忘れ去られているだろう脅しを怖がるクリフィードに呆れてしまっているヨルを連れて会場へ戻った。
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