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ご褒美

作者: 桃園沙里

 早朝のオフィス街、空高く登ろうとする太陽がジリジリとアスファルトを焦がし始める。

 灼熱の日差しも届かぬビルの陰、ほんの一間ほどの隙間に古い小さなやしろ。色あせた朱色の力無く垂れた「稲荷大明神」の幟。わずかな地面に植えられた榊の緑も、コンクリートに囲まれては何とも頼りない。

 午前八時過ぎ、その前で手を合わせて拝む男、一人。男の名は吉田勇吉。通勤途中にあるこの社に毎朝必ず手を合わせる。吉田の勤める会社は、この社から五十メートルほど行った所にある。吉田は勤勉実直を自負する、毎朝誰よりも早く出勤するのを誇りに思う男であった。

 その朝も、吉田は手を合わせて拝んでいた。

「どうか、今日も私や私の家族が平穏無事に暮らせますように」

 毎朝同じ事を祈る。いつもはこれでお終いである。しかし、その日は何の仕業か、続けて呟いた。

「これまで人生五十二年間、これといって良い事もしませんでしたが、悪い事もせず、真面目に一生懸命まじめに働いてきました。それなのに、会社では勤続三十年の記念品を今年から廃止するというんです。賞状一枚だけで済まそうってんです。去年は夫婦で温泉旅行だったのに、何だってよりによって今年から……。三十年間、上司の言う事を聞き、部下の不平を聞き、会社の事を考え一生懸命働いてきて、私だって何か褒美って物をいただいてもいいんじゃないか。どうか、神様、会社が何もくれないのなら、せめて何かご褒美を賜りますようお願いします」

 その時、さぁっとビル風が起こり、乾いた土埃を巻き上げた。吉田は思わず目をつむった。と、同時に人の声がした。

「その願い、聞き届けたり」

 驚いて目を開けるが、辺りには何者もいない。気のせいかと、その場を立ち去ろうとする吉田の耳にまたしても人の声。凛とした高い声は女のようで、男のようで。

「して、そなたは何が欲しいのじゃ」

 恐る恐る振り返り、声がした社の方を見てみるが、やはり誰もいない。

「姿など見えぬわ。なぜ、人間は姿形にこだわる。わしはこの社の主」

 声は社の奥から聞こえてくるようである。

「感心にもお前は毎日のようにここに来る。ここ二百年ほどはそんな者はいなかった。なかなか見どころのある奴じゃて、今日でお参りもちょうど五千回目、お前の願いを叶えてやろうと思ってな。して、何が望みじゃ。言ってみ」

 吉田は仰天した。これは何かのいたずらか、はたまた、夢の中か。もしかしたら、隠しカメラがあるのかもしれぬ。吉田は辺りを窺った。

「何をきょろきょろしている。早くせんと気が変わってしまうぞ。何でもいいから言ってみ」

 ええい、ままよ、と吉田は騙されてみる気で言った。

「では、そうだ、宝くじ。明日発表の宝くじ、これを何とか当てることはできないでしょうか」

「よし、その願い聞き届けた。お前の今までの所行に応じて幾らか当たるようにしてやろう、それでよいな」

「ははぁ、ありがとうございます」

 吉田はうやうやしく手を合わせ、深々と一礼した。


 その日の吉田、一日中気持ちの落ち着かないこと。テレビ番組の『どっきりカメラ』の類だったらどうしよう。数日後に自分の間抜けな姿がテレビ画面に映し出されるかもしれない。それとも、子供のいたずらか、新しいおもちゃでも取り付けたのか。

 吉田は努めて冷静に考えようとした。心の奥底に秘めた期待が裏切られたとしても、ショックを受けないように自ら予防線を張っていたのである。しかし一方では、明日を待ち遠しく思う気持ちもあった。


 翌朝、吉田は普段通りに起き、普段通りに朝食を食べると、新聞を開いた。妻の小夜子に気取られないよう、いつもと変わらぬ朝を演出していた。新聞とこっそり隠し持った宝くじを手に、普段通りトイレに向かう。後ろで小夜子の声が追いかける。

「お父さん、トイレに新聞を持って行くのは止めてって……」

 小夜子の声が終わらないうちに、吉田はトイレの戸を閉めた。


「宝くじ、当たったぞ」

 吉田はトイレから出るなり、小夜子に言った。

「千円?」

「十万円だ」

 吉田は誇らしげである。

「まあ、すごい。洋服買って貰おうかしら」

「分け前は半々だ。五万円づつだ」

「子供たちには」

「あいつ等は自分で稼いでるんだからいい」

 小夜子に内緒で独り占めしてしまえばいいものを、正直に言ってしまうところが吉田の性格である。もっともこんな吉田だからこそ、大明神も願いを聞く気になったのであろう。昨日の疑心はどこへやら、吉田の心は感謝の気持ちでいっぱいになった。


 吉田は出勤途中に社にお参りし、いつものように家族の無事を祈ると同時に、手を合わせてお礼を言った。そんな吉田の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、社の中は静まりかえったままだった。


 その日の昼前、吉田がパソコンに向かって気分良く仕事をしていると、プチンプチンと音がする。音のする方向には、机の上に新聞を広げ、手指の爪切りをする新井部長の姿。

「また始まった……」

 吉田は心の中で呟いた。

 この新井という人物、日頃から仕事中に私用をするのは当然のこと、責任感が無く、上の人間には媚びへつらい、下の者には権威を振りかざす、自分のミスは他人のせいにし、部下の手柄は自分のもの、厚かましいことこの上ない人物である。以前、吉田も新井の下に就いていたが、噂以上の人物だった。至急の書類をいつまでも自分の机に置いたまま、稟議書には目を通さず判を押し、後から文句を言う。当然、部下達には厭われ、関わらないよう避けられていた。吉田も、なぜこのような男が部長になれたのかわからないと思っていた。

 いつもの吉田なら新井のこの行為を苦々しく思うところだが、今日は誰が何をしても気にならない。何しろ、大明神様から日頃の行いを誉められ、ご褒美をいただいたのだ。

 しかし、その幸せな気分も次の瞬間に打ち砕かれた。

「おお、当たった、当たったよ」

 大声を出す新井に、室内の者が一斉に顔を上げる。が、一瞬後には、皆、机上に視線を戻した。誰も新井に訊こうとしない。そんな皆の態度に気付いていないのか、新井は立ち上がると、一番近くにいた石井課長の肩を叩いた。

「ほら、宝くじ当たっちゃったよ」

「はぁ」

「いくらだと思う」

「いくらですか」

「なんと、百万だ、百万円」

 皆の肩がぴくりと揺れる。しかし、何事もないように、そのまま仕事を続ける態度。そんな中、吉田だけがマウスを持つ手を震えさせていた。

「いやあ、俺って運がいいなぁ」

 新井は上機嫌で部屋を出て行った。

 新井が戻って来ないのを確認すると、皆、口々に言い出した。

「なんで、ああいう人に限って、当たるの」

「あれって、ただ自慢しただけ?おごってくれるとか、そういうのないの」

「ないない、今まで部長がおごってくれた事一回でもあった?」

「普通さ、あんなに大騒ぎしたら、今日はみんな出前取るぞ、とか」

「普通の人ならね」

「そりゃそうだ」

「それにしても納得行かないよね、なんであんな奴に百万円当たるかな」

「今頃、家が燃えてたりして」

「ひどいこと言う」

「いやいや、君の気持ちを代弁しただけで」

「なぁんか、一気に仕事やる気なくしたな」

 他の者以上に吉田の気持ちは収まりつかなかった。なぜ、新井が百万円で自分は十万なのだ。自分は新井より下なのか。

 憤る気持ちをこらえて、帰宅する吉田。今すぐにでも大明神に文句を言いたいところだったが、神様にお参りするのは日が出ている間だけと昔から決まっている。腹を立てていても、そういった礼儀だけは忘れない吉田であった。


 吉田が帰宅すると、食卓には出前の寿司が並んでいた。普段は夕食を共にすることが少ない娘と息子も揃っている。

「なんだこりゃ」

「うふふ、いいじゃない、たまには」

「それに、何だ、お前等。いつも夜遅くまで遊んでるくせに」

「お母さんがメールくれて、今日は早く帰って来いって」

「ご相伴にあずからせていただいてますよ」

「何言ってんだ。小夜子も小夜子だ。一億当たったんじゃないんだぞ。たかが十万円くらいで大袈裟な」

「だってこういう機会でもなければ特上寿司なんて食べれないでしょ」

「そんな無駄遣いしていると十万なんてあっという間になくなっちまうんだぞ」

「いいじゃない。そういうお金はぱあっと使っちゃう方がいいのよ。元々ないお金なんだから」

 長女がしたり顔で言う。

「これ、大トロだよ。お父さん」

 息子はマイペースで食べている。

「海老だって生よ。蒸し海老じゃないわよ」

「お父さんも早く食べなよ。いつものよか全然おいしいよ」

 家族の嬉しそうな顔を見ているうち、吉田の気が少しずつ治まってきた。

「まぁ、いいかな。こういうのも」

 吉田は箸を取り、はまちを口に運んだ。

「うまいっ」

「でしょ。いつもの店だけど、あそこでもこんな上等なお寿司、できるのね」

「これから月イチくらい、これ食べてみる?」

「調子に乗るな。また宝くじ当たったらな」


 翌朝、吉田は稲荷大明神に手を合わせるなり言った。

「昨日も申し上げた通り、十万円いただいたことは、大変感謝しております。御礼を申し上げます」

 そう言って深々とお辞儀をした。

「しかしね、なぜ、あの新井部長が百万円で、私が十万円なんですか。あの人は本当にいい加減な人で、みんなに迷惑掛けてばかりいる人なんですよ。なんであの人のほうが上なんですか」

 言葉に出すうちに気持ちが高揚し出し、だんだんと責める口調になる吉田。

 その時、またしても風が巻き上がり、社の奥から声がした。

「何が不満か」

 と、声の主。

「この度、お前一人にだけ宝くじを当てたのでは不公平だと思い直してな、宝くじを買った人間全部にそれ相応の金額を振り分けたんじゃ」

「それが、なぜ、新井部長が百万になったんですか」

「お前が今まで五十二年間で殺した虫は二百八十九匹、平均して年間約五、六匹。一方、あの者は年間約三、七匹。依って、より殺生の数が少ないあの者にお前より多くの金額を振り分けたのじゃ。これでよいか」

「そんな……。殺した虫の数で決められちゃ困ります。もっと大事なものがあるでしょう。もっと、仕事をきちんとしたかとか、そういうところを見て下さい。確かに新井部長は虫を殺さなかったかもしれないけど、仕事はいい加減だし、人に迷惑掛けてばかりいるんですよ。こう言っては何ですが、どうも納得がいかない」

「ほほう。まあ、正直者のお前が言うのだから、その通りなのだろう。よし、ではもう一度、やり直してやる。来週のロトとやらでそなたに褒美を進ぜよう。待つがいい」

「ありがとうございます。よろしくお願い致します」

 吉田は丁寧に頭を下げた。


 週末の午後、吉田は妻の小夜子と新宿のデパートに出掛けた。都会の夏は、車と機械の放射熱、アスファルトの照り返し、まるで蒸し風呂。真上に登った太陽が、路面に濃い陰を作り出す。たった五分歩いただけで、吉田のYシャツの背中は汗びっしょりである。小夜子は吉田の後を遅れること、二、三歩。右手に白い木綿の日傘、タオル地のハンカチを持った左手をショルダーバッグに添える。

「地下から行けばよかったな」

 吉田は思わずそう呟いた。


「はぁ、涼しい」

 デパートに入るなり、二人は声を揃えて言った。

「ああ、生き返った」

「今日は一番の暑さね」

「日本は年々暑くなってる気がするよ」

 二人はまず、紳士服売り場へ行くことにした。デパートの中は、どこもかしこも夏物のバーゲンの札が賑やかしい。吉田はそこで、シャツを二枚買った。吉田は自分の買い物をそそくさと済ませた後、小夜子を婦人服売り場へ促した。普段、小夜子の買い物に付き合うのを嫌がる吉田であるが、小夜子の目に映る今日の吉田はご機嫌であった。小夜子が二枚のスカートを試着し、どちらにするか迷っているとすかさず言った。

「両方買ったらどうだ」

「でもお父さん、予算オーバーなのよ」

「けちくさい事言うなよ。じゃ、一枚は俺が買ってやろう」

「ええ、お父さん、どうしちゃったの」

「いいじゃないか。お前もいつもいろいろ頑張ってるし、たまにはご褒美だ」

 稲荷大明神が聞いたら笑い出すであろう、この言葉。もちろん、こんな吉田の剛気ぶりも来週のロトくじ当選を見込んでの事。そうとも知らぬ小夜子の、気味悪がりながらも喜ぶ姿のいじらしさ。


 翌週も吉田は、朝の通勤途中に稲荷神社へのお参りを欠かさず行った。

 そうこうしているうちに、ロトくじの発表日。吉田はまたしても新聞を片手にトイレに駆け込む。

「当たった」

 四等である。金額にして三万数千円。たいした額ではないが、今まで末等しか当てたことのない吉田にしては大変なことだった。吉田は気分良く家を出、稲荷神社に寄り、礼を言った。


 その日、新井は得意先に出掛け、会社にいなかった。今回こそは新井も当たらなかったろうと吉田はほくそ笑んでいた。

「吉田課長、大木商事からお電話です」

 大木商事と言えば、朝から新井が出掛けていた会社だ。

「はい。いつもお世話になっております」

「先程、新井さんがお見えになったんですが、詳しい納期の件は吉田課長に伺うようにとのことでして」

 吉田は言葉に詰まった。新井からは一言もそんなことは聞いていない。

「はぁ、その件でしたら、新井の方に確認することがございまして、誠に恐れ入りますが、新井が戻り次第折り返しご連絡差し上げようと思っておるのですが、よろしいでしょうか」

「ええ、うちは今日中にご連絡いただければ」

「なるべく早くにご連絡致します」

「それにしても、新井さん、相変わらず面白い方ですな」

「また何か粗相をやらかしましたか」

「いやね、ロトシックスが当たったとかで、終始その話でね、いやぁ、私なんぞも何度か買ったことがあるのですが、一度も当たったことがないですからね。当てるコツをご伝授いただきたいものですな」

 吉田は、自分の顔が紅潮してくるのを感じた。

「はあ、いや、それは失礼致しました」

 電話を切った後、呆然とする吉田の姿。

「またしても、新井が……」

 いくら当たったのだろう。まさか自分より高額ではあるまいな。得意先に行ってぺらぺら喋るくらいだ、末等ではなかろう。

「また新井部長ですか」

 そんな吉田の様子に、正面に座る木村次長が声を掛けた。

「あ、いや、大した事じゃありませんから。いつものことですよ」

「まったく新井さんも、もうちょっとしっかりしてくれんとねぇ」

 吉田は、木村の言葉も上の空だ。


 やがて、午後になり新井が外から戻ってきた。肉付きのいい身体に汗で張り付いたYシャツが、外の炎暑を室内へ持ち込む。

「ふぅ。暑いなぁ。たまらんよ」

 その新井に息吐かせる暇も与えずに、歩み寄る吉田。

「新井部長、大木商事の佐藤様からお電話ありまして」

「何だって」

「納期の件、連絡欲しいとのことで」

「ああ、あそこはいつも納期、納期ってうるさいんだよな。適当に言っといてくれよ」

「適当と言われましても」

「めんどくさいな。じゃ、今月中でいいや。吉田君、電話しといてくれよ」

「……わかりました」

 吉田はそこで意を決して訊いた。本当は訊くのは癪だが、気になって仕方がない。

「そう言えば、部長、ロトシックス当たったんですってね。佐藤さんから聞きましたよ、いくら当たったんですか」

「なんだい、佐藤さんもお喋りだな」

 お喋りは新井の方である。

「三万ちょいよ。これっぽっちで大騒ぎされちゃ、たまんないな」

 新井自身が大騒ぎしているのである。

「今度、当てるコツをご伝授願いたいとおっしゃってましたよ」

 愛想笑いを引きつらせ、新井の席を離れる吉田の胸中は複雑であった。自分と同じ金額であることに安堵すると同時に、納得の行かない気持ちがあった。また大明神に問うてみなければ。


 翌朝、吉田は前回と同様、なぜ仕事にいい加減な新井と同額なのか、大明神に説明を迫った。

「またお前か。お前がそんなに理屈っぽい男だとは知らなかったぞ。では説明してやろう。仕事ができるできないは、曖昧過ぎて比較し難い。だから、わしなりに判断させてもらった。お前が今まで五十二年間で使ったボールペンの数、平均して年間約五、三本。一方、あの者は年間約五、二本。しかもここ五年ではあの者の方がはるかに数が多い。依って、あの者とお前を同等の金額にしたのじゃ」

「大明神様。貴方は最近の事情に疎すぎます。ここ数年、業務のほとんどはコンピューターでしているんですよ、ボールペンで手書きすることなど殆どないんです。新井部長はパソコンを使いこなせなくて、未だ手で書いているのですよ。会社からはパソコンを勉強するようにと通達が出ているのに、つまり、職務怠慢なのです。私なんかも歳を取ってから物覚えが悪いのに関わらず、一生懸命勉強しました。それを……」

「もういい。お前が努力しているのはわかった。仕方がない、もう一度、やり直してやろう。しかし、また後で文句を言われたのでは割に合わんでな、今度はお前が条件を決めるがよい」

「ありがとうございます。では、どちらがいい人か、ということで」

「これはお前とあの男だけの比較ではないぞ。それに、いい人などと曖昧な言い方ではわからん」

「では……」

 吉田は少しの間考えた。

「では善行を行った数、これではいかがでしょう」

「ううむ、わかりづらいが、まあよかろう。今度こそ文句を言うなよ。これが最後じゃぞ」

「はいっ、よろしくお願いします」


 そうして吉田は、再びロトくじの発売を待った。今回ばかりは吉田には自信があった。新井は人に迷惑を掛けこそしているが、善行はしていないだろう。吉田も善行らしい善行はしていないが、あの新井にだけは負けないはずだ。今度こそと意気込む吉田、気合いを入れてロトくじを買い、発表を待つ。いらいら、そわそわ、落ち着かない様子の吉田を、妻の小夜子は不審がる。そうして、待ちに待った発表の朝。

 吉田にとって最早、金額は問題ではなかった。善行を行った数が少ないのは自覚している。しかし、あの新井よりは確実に多いはずである。今回ばかりは新井も当たらないだろう。吉田は、当初の気持ちを忘れ、新井に勝ちたい一心になっている自分に気付かなかった。

 新聞を広げた吉田からため息が漏れる。

「千円か……」

 末等の千円である。

「たいした善行もしていないし、当然と言えば当然だな。ま、ゼロでなかっただけ、いいか。新井さんみたいに当たらない人間もいるんだし」

 吉田は穏やかな気持ちで出社した。特に善行を積んでいないが、たとえ末等でも認められたのである。これ以上望んでは、分不相応というもの。自身が一番わかっている。

「新井さんには悪いことしちゃったかな。俺も 大人気ない」

 新井が朝からおとなしくしているところを見ると、恐らく末等も当たらなかったのであろう。何やら机に向かって一心不乱にペンを走らせている新井の姿を見、吉田は少々同情の念を覚えた。

 三時のお茶の時間のことである。新井が席の後方にあるホワイトボードを引っ張り出し、何枚か紙を磁石で留めた。数字の表である。

「諸君、これを見てくれ。これからロトを当てるコツを説明しよう」

 室内の皆は、カップを持ったまま、口に寄せるのを忘れた。一体何が始まるのか、唖然とした表情である。吉田だけが唇を震わせていた事には、誰も気付かなかった。新井は周囲の反応を気にも留めず、喋り出した。

「連続してロトを当てた私が、君達みんなにも幸せを分けてあげたい、と思って、この度特別にワザを伝授しよう」

「部長、いくら当てたんですか」

 一人の社員が声を掛ける。

「一回目は約三万二千円、今回七万だ」

 部屋のあちこちからプッと吹き出す声。しかし、一人、吉田の真剣な顔。

「出目論でいくと、だ」

 新井の得意そうに語る姿に、吉田は堪えきれず席を立つ。周囲の者は、そんな吉田に特に気に留めなかった。吉田が笑いを堪えきれずに、或いは、呆れて部屋を出たのだろうと。

 しかし、吉田は皆の想像のつかぬ行動をしていた。会社を飛び出した吉田、半ば走るように稲荷大明神の元へ。お参りをするのは毎朝出社前としているが、もう明日まで待てぬ。

 稲荷大明神の辿り着くと、社の貧弱な賽銭箱に手を掛け、吉田は血相を変えて言った。流れる汗を拭いもせず、乱れた呼吸もそのままに。

「大明神様!なぜです。なぜ、新井部長が七万で私が千円なんですか」

 社はしんとしていた。

「大明神様、説明して下さいっ」

 吉田は、姿の見えぬ相手を無遠慮に責め立てた。すると、ようやく社の奥から面倒くさそうな声が聞こえてきた。

「昼寝の邪魔をするのは、お前か」

「申し訳ありませんっ。しかし、どうしてもお訊きしたくて」

「お前の言う条件でやったのだ。文句は言わないはずではなかったか」

「そうですが、文句ではなくて、質問です。私は今まで、一生懸命仕事して、お客様にお礼を言われた事もある、上司や部下にも感謝された事も何度かあり、そりゃあ、大した善行はしていません。しかし、新井部長よりはましだと思うのですが、なぜ、このような結果なのですか」

「いいや、これは当然だろう。今まで行った善行を数えた結果じゃ。まず、乗り物内で老人や子供連れに席を譲った回数、新井は二回、お前は一回だな」

 吉田ははっとした。自分が席を譲った事がないのに、新井がそんな事をするとは思いも寄らなかったのである。

「それから、道に落ちていた空き缶を片づけた回数、新井は三回、お前はなし」

 吉田の頭がだんだんと下がっていった。

 今まで新井のことを、人に迷惑を掛けるだけで良い事をするなど到底ない人間だと思っていた。新井よりは自分の方が社会の役に立っていると自負していた。しかし、実際はその新井よりも自分の方が劣っていたのである。自分は、実は自分のことしか考えず、本当に人の役に立つ事をしてこなかったのではないか。

 吉田はいたたまれなくなった。

「それから、車で人を送ってやった回数が」

「もう、結構です」

 吉田は、か細い声で大明神の言葉を遮った。

「もうわかりました。大明神様のおっしゃる通りです。私は何も善行など致しておりません」

 肩を落とし、うつむく吉田。賽銭箱にしたたり落ちるのは汗か、はたまた涙か。

「まあまあ、そう、自分を責めるでない。何もわしは責めているのではないのだ。今、こうしてお前は反省している。それがお前の良い所じゃ。素直に反省する、その気持ちがあればよい。この度はお前が本来の気持ちを忘れ、妙な欲に取り憑かれたようで、ちょっとお灸を据えただけじゃ」

 吉田は俯いたまま答えた。

「申し訳ございませんでした」

「それに、お前が先程申したように、お前は客や取引先に礼を言われ、上司には信頼され、部下には慕われている。それで充分ではないのか。一方、新井は、取引先からは信頼されず、上司や部下には嫌われかわいそうではないか。せめて、宝くじでも当ててやらんことには。しかし、お前は違う。宝くじを当てなくとも、周囲の人々に好かれ、幸せに暮らせる」

 吉田は顔を挙げた。そう言われるとそうかもしれぬ。顔も知らぬ客に感謝された時、何と幸せな気分になることか。

「お前は良い男じゃ。たかだか十万円の金など、自分の小遣いにしてしまえばいいものを、妻に半分分けてやる。またお前の妻も良い女じゃ。その金で家族全員においしい食事を振る舞う。皆で幸せを分かち合う。これこそ何よりの幸福。その気持ち、いつまでも忘れるでないぞ」

「ははぁ、ありがとうございます。肝に銘じましてございます」

「では、さらばじゃ」

 吉田の身体の回りにつむじ風が起こった。乾いた土埃が舞い上がる。吉田は思わず目をつむった。吉田が再び目を開けた時、そこには、何の気配もない、ひんやりとした社の、微かに秋の到来を予感させる涼やかな空気があるだけだった。


 それから数年後、吉田が会社を定年退職するにあたって、部下や取引先から持ちきれないほどの花束、プレゼントを貰うことになる。(了)

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