弐
白辺依子には悩みと疑念があって、それはお隣さんのコトである。
白辺依子が住む、貧相な風体のボロアパート。その左隣の一室に、上高地浩平が引っ越してきたのは今年の春のコトだ。それまでその部屋は空き部屋だった。
上高地浩平自身は、それほどイケメンでもないし、爽やかではないのを除けば、それなりに地味で真面目そうな好青年であり、彼自体に問題はない。
いや、『問題はなかった』というべきなのか。
白辺の通勤時間と、浩平の通学時間は丁度被っているからか、毎朝のように彼とは顔を合わせて、挨拶くらいはするのだが、その彼の顔がどんどん暗くくすんでいくのである。
この前会った時なんて、目の下に明らかに隈があった。
何かが彼に極度のストレスを与えているらしかった。
それに加えて、彼女は浩平がペットでも飼い始めたのではないか、と疑っている。
ハムスターなどの小動物はともかく、犬や猫を飼い始めたとしたら、アパートの契約違反ではあるけれど、しかし、白辺が心配しているのはそこではない。その飼っている『何か』が、浩平に良くない影響を与えているのではないかと、心配なのだ。
時折、喋っている声が聞こえる。
ペットに向かって喋っているのか……時にその声は、朝、顔を合わす彼の印象から大きく逸脱して、荒れた怒声になる時もある。
それに対して反応はない……ないはずなのだが。しかし気配がある。『何か』の気配がある。
無口な恋人でも連れ込んで、一方的に怒りをぶつけてでもいるのだろうか? 彼にはそんな裏の一面が? と考えたコトもなくはなかった。しかし、どうにも印象としては、彼の方が相手に追い詰められているようだ。
しかも、彼が誰か女の子と連れ立って外に出て来たところを見たコトがない。大学生の恋人だとしたら、同じ大学の大学生なのではないだろうか? それに、彼がいない隣の部屋はしんと静まり返っている。人がいるのに、まったく人の気配がないというのは、壁が薄く、音どころか存在感まで突き抜けるようなこのアパートではありえない。
(……まさか、幽霊でもいるというのだろうか?)
それこそまさかという話だ。
今度、挨拶がてら最近の調子でも尋ねてみるか。
それで少し元気づけるために、食事にでも誘ってもいいかもしれない。
いや、それが必要とされるくらいに、消耗しているように見えるから。
影がある彼というのも悪くはないけれど、私はあくまで隣人のよしみとして、彼には明るく笑っていて欲しいのだった。