九
私の精神は前倒りになっており、こうした感情を確認すると、佳人を目前に晒された童貞の無力さのようなものを思い知り、忽ち悚然した。と云うのも、女の色香と呼ぶべきものは肉体を超越え、直に私の心臓を握り、私はその肉体から無数の手が唐突に伸びてきて、己を隈なく侵す幻影を視たのである。女には支配的な弱さと云うものが有り、これこそが無力さを出産しており、それを認識した瞬間、女の髪、貌、頸、肩、胸、臍、尻、手脚、そして血までも、肉体を代表する凡てが女と云う色へ塗替えられる。肉体は本来の役割を*放擲し、観念の奴隷へ渝ってしまい、やがて観念としての芸術の、*無辜な何者かへ昇華する。吾々はそこに月の面影を見る。
月は決して肉体を持たないが、観念としては必ずそこにある。観念が恒に無辜であっても、肉体は無辜とは無縁であるように、月もまた無辜であり、肉体の辛酸に染ることは決してなかった。もし月のような無辜に肉体が具れば忽ち苦渋に錆附くはずであり、そう在らねばならないのだ。
しかし、たった一個、女という存在だけはその絶対法則から免れて居た!
私は女の肉体と無辜との共存するさまから、どうしても目を逸すことが不可かった。女に於ける肉体と無辜とは恰度差異う表情を持つ双子のようなもので、僅許りの影を翳すだけで、二個に相渉る幾多の*懊悩を一跳で徹り抜ることが可る。そのためか、私は女の虚を衝くような所作に圧倒され、巧と心の屋敷へ招入れてしまったのだ。
*放擲…ほうりなげること
*無辜…罪のないこと
*懊悩…なやみもだえること




