五
荒屋から歩行いて程ない許に丘陵が在る。大神岳や伯耆富士の異名をもつ*大山の舌端に据り、近所では一寸法師の銘を綽名として頂戴く、雛の如き霊山である。山裾には*少彦名神を祀って居る神社が在るが、参った記憶はない。一寸法師には登るのに佳い捷径が在り、そこを通行れば神社へ當ることなく、頂上へ往ける。殆ど*獣道に類似い*轍を踏貫かねばならないが、そう丈くはない距離を搔分けると、砂礫を冠った*桟道めいた葛折へ拓ける。その前途からは街を視めることも可き、中頃には手狭ながらも少憩の間を拵えて居る。遠見と云えば、ここであった。
夜半ともなれば*隠沼宛らの蒼然さで怯懦を掻立てるであろう。*生半な理由であれば真面ならざる沙汰と判断えたに相違ない。ただ、今宵に劃って、恰度月の引力に引導かれるが如く、歩脚は無理なく曳かれた。
しかし、それで可かった。御散歩とはそういうものであって、そうあるべきなのだ。
山へ到る途中、近所の住宅に生茂る、*鈴生りの草花を見た。寂寥と置いて在る常夜灯は、必ずしもその万てを照出した次第ではなかったものの、*白菊や紫苑の*旁午たる庭園や彼処で銀に揺れる芒の野面等が仰山視えた。時節を差引いて尚、余ある疾風であったが、些少も障らない。
漸に減る常夜灯の数と土塊を踏んだときに響く砕けるような跫音の様子から、麓に到いたのだと判った。私は蟲を可恐て懐中電灯を点けることが不可かった。所為が無いので、微と射込む月明を恃みに進むことにした。
足許の泥濘は薄らと煮染み、寂寞と謐る隘路に*訪を点滅させた。夙く遠見へ躍出たい一心で、気の焦く儘にこの穏な坂を歩行いた。吻は心悸のためにさぞ蚯蚓ばって視えたことだろう。貌に張る膏はさぞ青苔めいたことだろう。
こうして顔面の*一顰一笑に、自然を模倣した比喩は、吾ながら聊か滑稽かった。それは月が私を見て居ると云う聯関と、私が自然を見て居ると云う聯関とが、鼓釦の如き照応を視せていた。
もうそろそろか知らん、と思った。
*大山…鳥取県西部にある複式火山
*少彦名神…日本神話に登場する神の一柱。体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当たり、医薬禁厭などの法を創めたという、
*獣道…鹿などの通行で自然につけられた道。
*轍…車がとって道に残した輪の跡。
*桟道…切り立った崖などに棚のように設けた道。
*隠沼…草木などに隠れて見えない沼。
*生半…中途半端。
*鈴生り…多く群がって房をなすこと。
*白菊や紫苑…芒…いずれも秋の草花
*旁午…往来の激しい様。
*訪…ひびき。けはい。
*一顰一笑…顔に現れる感情の動き。