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私は*眇目(すがめ)眼脂(めやに)(はら)った。まだ(なお)りきって居ないのか、茫乎(ぼんやり)とした(うずき)揺籠(ゆりかご)の如く隠顕(みえかくれ)し、酩酊(めいてい)(かいこ)脳裡(のうり)に記憶の(まゆ)を張りつつあるのを感じた。蒲団(ふとん)から身を(おこ)すと、*蠕動(ぜんどう)めいた咳気(せき)捕囚(とらわ)れた。幼少より*気管支カタルを罹患(かずら)わせる私は、肉体から(ゆるやか)に*勁健(けいけん)さを差引(さしひ)き、*蒲柳(ほりゅう)ならしめたのは、この(かいこ)所為(せい)ではないかと咳嗽(しわぶ)都度(たび)(おも)うのである。何度己の*華奢(きゃしゃ)呪詛(のろ)い、何度己に飼う(かいこ)呪詛(のろ)ったか想起に堪えない。

もっとも、(およ)冷水(おひや)でも一杯(いっぱい)*(あお)れば幾らか落着(おちつ)くものなので、寝具(しんぐ)雑然(おざなり)放置(ほう)って*(くりや)()くことにした。閨房(ふしど)開戸(とびら)()ける手に(こも)膂力(ちから)のなさと()ったら、譬喩(たとし)えようもなく憐憫(みじめ)であった。

*勝手口(かってぐち)へはこの(まま)廊下(ろうか)を進むこと*三丈(さんじょう)程、突当(つきあたり)()るやや急な(かいだん)を降り、差当(さしあ)たる一階の廊下(ろうか)(むかい)へ出れば()いのだが、(かいだん)までの(みちのり)が、(はなは)だ*間遠(まどお)に感じられた。*焦茶(こげちゃ)(くす)んだ把手(とって)や*象牙(ぞうげ)色に塗られた*盲壁(めくらかべ)(あるい)は*柾目(まさめ)整頓(ととの)った廊下(ろうか)()ったもの(すべ)てが()んだ沈黙の(うち)(しずま)り、*(にぶら)せた鋼鉄(はがね)の如き(からだ)の灼熱を引立(ひきた)てた。

ふとした着想(おもいつき)から、(かいだん)(のぼ)(ばな)にある*(かわや)へ*手水(ちょうず)のために立寄(たちよ)った。蛇口から溢れる冷水(ひやみず)を両の手で(すく)()げ、殴附(なぐりつ)けるように顔面(おもて)へ当てると、(こころよ)(ふる)えた。幾分(すこし)(ばか)り明晰さが帰途(かえ)ってきた気がする。心持(こころもち)()いたようであり、(くりや)()く必要は無いように思われたが、多少の意地が*手前(てまえ)の悪さを持出(もちだ)し、()いて()かせた。

(よなか)口煩(くちうるさ)い、やや偏執病めいた言動(ことば)繰出(くりだ)すのが得意な乳母(ばあや)斟酌(おもい)みて、貴重な*屏風(びょうぶ)でも執成(とりな)すかのような、(いささ)盗賊(とうぞく)めいた*風体(とりなり)歩行(ある)かねばならなかった。そうして這入(はい)る*勝手(かって)は、(うっす)らと月影を()かし、(わずか)ながら荘厳(そうごん)引締(ひきし)まって()える。

食器棚から湯呑(ゆのみ)丁寧(ていねい)取出(とりだ)し、蛇口を(ひね)り、水音のたたぬように*心許(こころばか)りの(つつしみ)を配した所作(ふるまい)で、()たし、(あお)った。硝子(ガラス)寒気(つめた)さが(くちびる)()し、跡追(あとおい)御冷(おひや)海嘯(つなみ)の如く、口腔(こうくう)()(おど)った。(からだ)(うち)から()めてゆく気味(かんじ)は云うに及ばず*重畳(ちょうじょう)であった。

(ちょっと)だけ残し食卓の(もと)腰掛(こしか)けると、(どっ)草臥(つかれ)押寄(おしよ)せる。私は湯呑(ゆのみ)から(たなそこ)(はな)し、それを髪際(ひたい)へあてがった。(りん)()めた(たなそこ)微熱(のぼせ)地肌(じはだ)に触れ、峻烈に痺れた。それは禁厭(まじない)にでも()けられたかのようにじーんとした。

(しばらく)の間、私は取留(とりとめ)のない空想に(ふけ)って居た。湯呑(ゆのみ)(うち)に*点綴(てんてい)される水滴(すいてき)を*糠星(ぬかぼし)仮定(みた)て、(いつわり)の夜空を(たのし)んでみたり、胡桃(くるみ)材の食卓の、宛ら(ほのお)めく木目(もくめ)油然(ゆらり)(さか)る幻を看做(みな)したり、月光(ひかり)の流れる(へや)を霊妙の水槽(すいそう)(なぞら)えてみたり、(いずれ)も*詮無(せんな)いものであった。(しまい)に私は、御散歩(おひろい)でもしようか知らん、と想った。

今夜ほど月が明瞭に打出(うちだ)された日もあるまい、と随意(きまま)理由(わけ)(こしら)えると、(あし)は*(そぞろ)とした。湯呑(ゆのみ)(うち)残滓(のこり)は捨てた。

玄関は(くりや)を出てすぐ左方(ひだり)である。暗闇(くらやみ)鬱蒼(こんもり)(しげ)り、沓脱(くつぬぎ)(あや)しく(かく)して居た。靴を履こうとして素足(すあし)が*踏込(ふみこみ)へ触れると(たちま)ち月の倒影(とうえい)脳裡(のうり)を貫いた。*凛烈(りんれつ)とした存在は、(はだ)(とお)り肉へ()みるときに、(ことごと)く月へ還元されたのである。*皎々(こうこう)たる満月(のみ)ならず、*九天(くてん)(うか)ぶ星々から、(おお)きく隆起した(がけ)で*超然と(たけ)白銀(しろがね)(おおかみ)まで、(ふくら)んだ空想の絵画(えすがた)歴々(ありあり)(おも)()られた。こうした*借景(しゃっけい)は、(きま)って入口へ戻るように、冷然(ひんやり)とした沓脱石(くつふぎいし)へ還っていった。

このようにして、万事につけて無智(むち)であった少年は、感性が()ける綺麗(きらきら)しい粉飾(せかい)自慰(なぐさ)めを欣求(もとめ)ることで自己を点検するのである。

*眇目…瞳を片方へ寄せて物を見ること。

*蠕動…かすかに動くこと。

*気管支カタル…気管支炎のこと。

*勁健…つよくすこやかなこと。

*蒲柳…体質の弱いこと。

*華奢…姿がほっそりして上品なさま。ここでは単に弱々しいの意味。

*呷る…酒などをぐいぐいと勢いよく飲むこと。

*厨…台所。

*勝手口…台所へ通じる入口。

*三丈…丈は長さの単位で、およそ三メートル、三丈は約九メートル。

*間遠…時間的に間隔が空いて居ること。ここでは単に長いという意味。

*焦茶…黒みがかった濃い茶色。

*象牙色…淡黄白色。

*盲壁…窓のあいていない壁。

*柾目…幹の中心を通って縦断した面。

*淬す…にらぐこと。鉄を鍛える時、赤熱して水に入れてねること。

*厠…大小便するところ

*手水…厠へ行くこと。ここでは単に洗面という意味。

*手前…他人や世間に対する体裁。

*屏風…室内に立てて風をよけ、また仕切り、装飾として用いる具。

*風体…ここではなりふりの意味。

*勝手…台所のこと。

*心許り…ほんの気持ちだけを示すしるし。

*重畳…この上もなく満足であること。

*点綴…あちこちにほどよく散らばってまとまりをなしていること。

*糠星…晴夜の大空に見える多くの小さい星。

*詮無い…無益であること。

*漫…なんとなく心のすすむさま。

*踏込…家の玄関などで履物を脱いでおくところ。

*凛洌…寒気のきびしいさま。

*皓々…月の光などの明るいさま。

*九天…きわめて高いところ。

*超然…かけはなれているさま。ここでは幻めいていること。

*借景…庭園外の遠山や樹木をその庭のものであるかのように利用すること。ここでは心裡に風景を描くこと。

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