三
私は*眇目で眼脂を掃った。まだ治りきって居ないのか、茫乎とした疼が揺籠の如く隠顕し、酩酊の蚕が脳裡に記憶の繭を張りつつあるのを感じた。蒲団から身を起すと、*蠕動めいた咳気に捕囚れた。幼少より*気管支カタルを罹患わせる私は、肉体から緩に*勁健さを差引き、*蒲柳ならしめたのは、この蚕の所為ではないかと咳嗽く都度に念うのである。何度己の*華奢を呪詛い、何度己に飼う蚕を呪詛ったか想起に堪えない。
もっとも、汎そ冷水でも一杯*呷れば幾らか落着くものなので、寝具を雑然に放置って*厨へ赴くことにした。閨房の開戸に掛ける手に篭る膂力のなさと謂ったら、譬喩えようもなく憐憫であった。
*勝手口へはこの儘、廊下を進むこと*三丈程、突当に在るやや急な階を降り、差当たる一階の廊下の向へ出れば可いのだが、階までの途が、甚だ*間遠に感じられた。*焦茶に錆んだ把手や*象牙色に塗られた*盲壁、或は*柾目の整頓った廊下と謂ったもの万てが澄んだ沈黙の裡に謐り、*淬せた鋼鉄の如き躰の灼熱を引立てた。
ふとした着想から、階の昇り端にある*厠へ*手水のために立寄った。蛇口から溢れる冷水を両の手で掬い上げ、殴附けるように顔面へ当てると、快く震えた。幾分許り明晰さが帰途ってきた気がする。心持透いたようであり、厨へ赴く必要は無いように思われたが、多少の意地が*手前の悪さを持出し、強いて往かせた。
宵は口煩い、やや偏執病めいた言動を繰出すのが得意な乳母を斟酌みて、貴重な*屏風でも執成すかのような、聊か盗賊めいた*風体で歩行かねばならなかった。そうして這入る*勝手は、薄らと月影を透かし、僅ながら荘厳に引締まって視える。
食器棚から湯呑を丁寧に取出し、蛇口を拈り、水音のたたぬように*心許りの謹を配した所作で、充たし、呷った。硝子の寒気さが吻を棘し、跡追に御冷が海嘯の如く、口腔へ湧き踊った。躰の裡から醒めてゆく気味は云うに及ばず*重畳であった。
些だけ残し食卓の許へ腰掛けると、濤と草臥が押寄せる。私は湯呑から掌を放し、それを髪際へあてがった。凛と褪めた掌は微熱た地肌に触れ、峻烈に痺れた。それは禁厭にでも懸けられたかのようにじーんとした。
暫の間、私は取留のない空想に耽って居た。湯呑の裡に*点綴される水滴を*糠星に仮定て、詐の夜空を愉んでみたり、胡桃材の食卓の、宛ら焔めく木目に油然と旺る幻を看做したり、月光の流れる室を霊妙の水槽に准えてみたり、孰も*詮無いものであった。終に私は、御散歩でもしようか知らん、と想った。
今夜ほど月が明瞭に打出された日もあるまい、と随意な理由を拵えると、脚は*漫とした。湯呑の裡の残滓は捨てた。
玄関は厨を出てすぐ左方である。暗闇が鬱蒼と繁り、沓脱を妖しく劃して居た。靴を履こうとして素足が*踏込へ触れると忽ち月の倒影が脳裡を貫いた。*凛烈とした存在は、肌を徹り肉へ沁みるときに、悉く月へ還元されたのである。*皎々たる満月唯ならず、*九天に泛ぶ星々から、巨きく隆起した岨で*超然と哮る白銀の狼まで、膨んだ空想の絵画は歴々と想い遣られた。こうした*借景は、極って入口へ戻るように、冷然とした沓脱石へ還っていった。
このようにして、万事につけて無智であった少年は、感性が活ける綺麗しい粉飾へ自慰めを欣求ることで自己を点検するのである。
*眇目…瞳を片方へ寄せて物を見ること。
*蠕動…かすかに動くこと。
*気管支カタル…気管支炎のこと。
*勁健…つよくすこやかなこと。
*蒲柳…体質の弱いこと。
*華奢…姿がほっそりして上品なさま。ここでは単に弱々しいの意味。
*呷る…酒などをぐいぐいと勢いよく飲むこと。
*厨…台所。
*勝手口…台所へ通じる入口。
*三丈…丈は長さの単位で、およそ三メートル、三丈は約九メートル。
*間遠…時間的に間隔が空いて居ること。ここでは単に長いという意味。
*焦茶…黒みがかった濃い茶色。
*象牙色…淡黄白色。
*盲壁…窓のあいていない壁。
*柾目…幹の中心を通って縦断した面。
*淬す…にらぐこと。鉄を鍛える時、赤熱して水に入れてねること。
*厠…大小便するところ
*手水…厠へ行くこと。ここでは単に洗面という意味。
*手前…他人や世間に対する体裁。
*屏風…室内に立てて風をよけ、また仕切り、装飾として用いる具。
*風体…ここではなりふりの意味。
*勝手…台所のこと。
*心許り…ほんの気持ちだけを示すしるし。
*重畳…この上もなく満足であること。
*点綴…あちこちにほどよく散らばってまとまりをなしていること。
*糠星…晴夜の大空に見える多くの小さい星。
*詮無い…無益であること。
*漫…なんとなく心のすすむさま。
*踏込…家の玄関などで履物を脱いでおくところ。
*凛洌…寒気のきびしいさま。
*皓々…月の光などの明るいさま。
*九天…きわめて高いところ。
*超然…かけはなれているさま。ここでは幻めいていること。
*借景…庭園外の遠山や樹木をその庭のものであるかのように利用すること。ここでは心裡に風景を描くこと。