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二十九

しかし未遂で(しま)う。もしもそんなことが可能(ありう)るのならば、斯様(これほど)残酷なことはあるまい。肉体は形骸化し、結氷(けっぴょう)した水面(みのも)(つつ)海豹(あざらし)のように、或いは神経が肉体の皮袋から一歩も出ることが不可能(できない)ままにその牢獄のなかに幽閉(とじこ)められる魂のように*不調法(ぶちょうほう)朽果(くちは)てる他ない。呪詛(のろい)溜込(ためこ)んだまま、(ぴったり)と皮膚に貼付(はりつ)いて湿気(ふやけ)た状態の(まなぐさ)い心地を想像した。

精神の醗酵は(あたか)(くら)隠沼(こもりぬ)(じっ)(わだかま)って居るかのように、甚だ(いと)うものがあり、目を背けるほど総毛立(そうけだ)(おもい)がした。体中を徘徊(たもとお)る神経の節々まで、上枝(ほつえ)(めぐ)って下枝(しずえ)に尽きるその一端(いったん)まで毒のような倦怠感に蹂躙(じゅうりん)されることだろう。

肉体の中で魂だけが老いて朽ちること、これだけはたまらなく(いや)であった。己の内側から腐蝕(ふしょく)され、雑菌は培養(ばいよう)され、絶えず恥辱(はずかしめ)に晒される形相(すがた)懊悩(おうのう)(こやし)以外の何者でもない。ならば絶筆(ぜっぴつ)飛翔(ひしょう)する血潮がいつか灯明(とうみょう)を点ず蝋のように凝固(ぎょうこ)し、その結果(とき)流転(るてん)苔生(こけむ)すことになっても、彼岸(ひがん)真紅(まっか)に咲く曼珠沙華(ひがんばな)花弁(はなびら)翹望(あこが)れつづけるほうが幾分(いくら)(まし)と云うものであろう。


こうして(じぶん)の死について観察日記のような叙述の(なか)で、私は自分の死がやはり空虚(からっぽ)であることを嗅当(かぎあ)て安心した。私は死ぬ理由が行動の推敲(すいこう)(とも)咀嚼(そしゃく)ともつかぬ、俗に云う客観視の裡に発見されるのではないかと惧れたが、それすら(おわ)った今、私は茫乎(ぼんやり)とした浮草(うきくさ)のような寄辺(よるべ)のない境涯(きもち)であった。私が辿着(たどりつ)いた結末(むすび)は理由のない死であり、劇的な死からは最も乖離(かけはな)れていた。女の予言が果たされることには違いないが、それでも形式は変えられ観念は肉体を伝播することなく完結した一回性を獲得し、孤絶した死が表出することだろう。女は死を花弁に視たが、それは私によって忽ち蝶へ変えられたのだ。

私は蟠屈していたすべてのものが吹き抜ける思いがした。恬とした(さわやか)さに充足(みちた)りた心地である。

死ぬ理由がないまま死ねたら、きっと誰も届かない、最も高いところへ行けるではなかろうか。



さて、末尾まで読了された*疑城(ぎじょう)の読者諸兄はおそらくこう思っているであろう。

何だこれは。真赤(まっか)な嘘じゃないか。韜晦(とうかい)許りで諧謔(かいぎゃく)なんて欠片(かけら)見当(みあた)らない。狂人日記の間違いだろう。

しかし、私はそれでもいい。自分の死に縛られ、死後もなお弁解をつづけ、同情を乞うのは御免だ。そのためには生前と死後は裁断されなければならなかった。しかしその無益さを鋳造(ちゅうぞう)するためには有益の屍を累積(つみかさ)ねなければならず、却って無益無意味さを極限まで遠ざけなければならなかった。してみれば、私もまた誤解の魔に取憑(とりつ)かれてしまったわけだ。だが私が諸君の反駁を聴くことはあるまい。何故と云うに、これが読まれて居る頃には私は(とう)に冷たくなっているからだ。

では諸君、さらばだ。


後註…この手記はさる聚落の若者が記したもので、著者はある伝からこれを入手し、多少手を加えたものだが、原本を回してくれた彼によると、この手記が記された日、聚落で死体が一つ見つかったと云う。

*不調法…手際の行き届かないこと

*疑城…極楽浄土の辺地

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