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二十七

この予感は半ば当たり、半ば外れた。と云うのも、そこへ現れたのは月であった。

水面(みなも)の月が洋盃(グラス)充満(なみなみ)(そそが)れた白葡萄酒のように堂々(どうどう)と顕れた。女の醜い相貌(すがた)は光に霧散した。(かわり)首廻(くびまわ)りへ滑脱(するり)宛行(あてが)われた月は劫初(はじめ)からその席を用意されて居たかのように*駘蕩(たいとう)とした。私は打微笑(うちほほえ)んだ。(おさま)るべき処へ(おさま)った(はれやか)心地(きもち)した。女の呼吸(いき)がそのまま(さざなみ)(かわ)り、紅涙(なみだ)が赤ら顔を(つた)って水面に動揺(とよめ)きを(おこ)すと、女は往生した。

極楽浄土(ごくらくじょうど)で*(はす)(うてな)(ねむ)る女を月の水面(みのも)に視て居る。このことは私を(しあわ)せにした。眼瞼(まぶた)の裏には死の瞬間がなお歴々(ありあり)と昇った。刃をずぶりと突刺(つきさ)してから女の事切れる刹那(せつな)まで、この光景ほど心に描くことの容易(たやす)いものはなかった。

しかし、私は未だ(ただ)一点暗雲(あんうん)()れぬ肉体の(もつ)れを感じて居た。そのとき率然(ふっと)した光明を視た。それは(さなぎ)から覚醒(めざめ)る蝶のように命の停滞は打開され、贅肉(ぜいにく)剥落(ほぐ)れ、*法性(ほっしょう)覚月(かくげつ)行届(ゆきとど)く限り甘受するものであった。

と云うのは、私は自分の罪というものを点検しようと思った。今作り上げた悪の華は未だ(きざ)しただけに過ぎず、(さなぎ)のように今や遅しと孵化(ふか)沙汰(さた)を待つ繊細(かぼそ)い芽である。私はまだ華を獲得しては居なかった。私はこの純潔を守ったまま、華をみたかった。もしかしたら、現世(このよ)ではその華を視るのは不可能かもしれない。罪を誰も手の届かない処へ押上(おしあ)げて仕舞ったのならば、それを視るためには自らそこへ()かねばならないのではなかろうか。私はこの観念をすぐに行動に(ただ)そうと思った。

(さいわ)いにして私を罪と認知する者は誰も居らず、私が死ぬと云うことは何ら弁明に役立ちそうになかった。何故なら永遠に発見されない罪は永遠に主観であり、永遠に純潔だからである。

結果が一緒(おなじ)ならば、形式だけを替えればよかった。畢竟(つまり)絶対の美のために女が死んだのならば、私は死ぬ理由が全く無いために死ねばよい。

私は大急ぎで山岨(やまそば)桟道(さんどう)駆下(かけお)りた。星の運河を通行(とお)る月の舟のような心地であった。頰の(あからみ)が微熱を帯びて眼瞼(まぶた)閃々(ちりちり)と焦がすのが(わか)る。酒に()た空気を呑下(のみくだ)し、私は(ふもと)辿着(たどりつ)いた。夜涼(よびえ)()んだ帰途(かえり)()(はら)んだように*鷹揚(おうよう)とした。

月に背中を(かえ)在家(わがや)脱出(ぬけだ)したときに(くら)べると、やや*渺々(びょうびょう)に増して視え、それが却って背徳を引き立てた。

私は前栽(せざい)千枚通(せんまいどおし)抛擲(ほう)って(はち)から(はさみ)掘返(ほりかえ)した。(とう)の昔に処女を(うしな)った剪刀(せんとう)でなければ、私の死の立会人にはなってくれまい。長いこと感傷から遠去(とおざ)けられ、色めきに対して不能でなければ私の(ほのお)は視えない。

何故と云うに精神的誤解も肉体的誤解もなく、道徳の枷から見棄(みす)てられた兇器ほど安全なものはないのだから。

さて、傍聴席は満員となっただろう。あとは激烈に振下(ふりお)ろされる鉄血の(つち)だけだ……

駘蕩…のどかなさま

蓮の台…極楽浄土に往生した者のすわるという蓮華の座

法性の覚月…涅槃のさとり

鷹揚…ゆったりと落ち着いていること

渺々…広くて果てしのないさま

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