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二十六

*射場丈(はわたり)*五寸半の兇器は(いっさい)の誘惑を掻分(かきわ)飛込(とびこ)んだ。刃は私の肉体から溢出(はみで)て、多層に(たたな)わる肉の毛布を(とお)り、その彼岸(むこう)にある心臓を砕くことに(すべ)てを(かたむ)け、(つい)にそれを確信した。

私は女から刃を抜いた。血で一面(べったり)となった千枚通(せんまいどおし)はもう無辜な光を保っては居られず、まるで処女の花を(ちら)したかのようである。女の面相(おもて)は光に取縋(とりすが)盲人(めくら)のようで、放恣(だらしな)弛緩(かんまん)して居た。(ぽっかり)穿(あけ)られたはずの死の穴は奇妙(ふしぎ)にもその(かお)からは(ちっと)も確認されなかった。

女が胸に手を当てると(あか)く濡れ、そこに苦悶(くもん)の鏡を視たのであろうか。女は(はじ)めて(もが)きを視せた。服装(みなり)黒々(くろぐろ)(かわ)ると(へたり)座込(すわりこ)んだ。

大層痛むと視え、爪先(つまさき)(りき)ませ、両の脚は(つよ)引締(ひきし)まり、肩は小刻(こきざみ)に震え、(ちゅう)ぶらりんの視線(めつき)は必死に光を(とら)えようと苦痛は細部へ(わた)って濃艶(のうえん)立顕(たちあらわ)れたが、全貌は釣られた魚のように「痛い、痛いよ」と滑稽(ばか)みたいであった。漸次(しだい)に座って居ることも困難になったのか、女は重心に屈し横臥(よこたわ)った。私は初めて女を瞰下(みおろ)した。

私は女の(うち)から血が(するり)と抜けてゆく光景に、かつての(さなぎ)の死を描き、(どろり)()れる体液を錯視した。呼吸(いき)も相当荒く、不可視(みえな)螟蛉(あおむし)(けむり)のように蠕動(ぜんどう)して居るかのようである。

横臥(よこたわ)ったことで、出血の方向(ながれ)(かわ)り、地面(じべた)を目指すときに乳房(ちぶさ)通過(とお)ると云う道を選んだ血に対して私は(にわ)かに昂奮(たけり)を覚えた。

地面(じべた)へ到達した鮮血は落溜(おちた)まるに()れ円になって(ひろが)った。

*暗澹(あんたん)石畳(いしだたみ)(わずか)の血で(あから)覗込(のぞきこ)まれた。(つや)んで円満(まんまる)な闇は姿見(すがたみ)のようで(うっす)らと鏡像が視えた。今は腰の(あたり)までしか視せないが、やがて融けた樹脂(じゅし)のように荏苒(じわじわ)と上り、(しり)(むね)(うつ)すことも間もなかった。水面(みのも)の裡の女体は現実味を際限なく*希釈(きしゃく)させ、観念としての*涅槃像(ねはんぞう)(うか)(あが)らせ、中途(とちゅう)まで彫出(えりだ)された女体はミロのヴィナス像を*髣髴(ほうふつ)とさせた。

なおも血は容赦なく流れつづけ、首筋(くびすじ)(せま)り、やがて女の美貌をもそこに抽出(みいだ)すことだろう。と云うのも、この鏡では醜い煩悶(はんもん)すら鏡写しにされ全く(さかさ)晃々(きらきら)しい美貌が(あらわ)れる、そんな予感がしてならなかったのである。

射場丈…的を射ることができる距離

五寸半…一寸はおおよそ三センチメートル。よって五寸半は約十六から十七センチメートル

暗澹…うす暗く、ものすごいさま

希釈…溶液にさらに溶媒を加えてうすめること

涅槃像…釈尊入滅の姿を、絵図や彫刻として作ったもの

髣髴…ありありと思い浮かぶさま

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