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十七

少時(しばし)の間、読者諸兄の皆さんには(ふたたび)私の過去に附合(つきあ)ってもらいたい。そう(ながなが)(しる)算段(つもり)はない。

年月(とし)を遡ること幾年(いくとせ)(ばか)り、私は十と(ちょっと)であった。

当主(じい)当時(そのかみ)矍鑠(げんき)で、自ら振舞(たちある)くことも簡単(たやす)く、鳳凰(おおとり)のように(かっ)と怒らせる双眸(ひとみ)誰彼(だれかれ)構わず総毛立(けばだた)せる眼力(めぢから)が在った。

()出来事(できごと)は私を(はげ)しく*親炙(しんしゃ)させたので、()く覚えて居る。桜は(すっかり)落了(おちき)り、春は(とっく)片附(かたづ)けられ、沈痛な陽射(ひざし)が色濃く照附(てりつ)けて居た。夏の底は日毎に増す灼熱によって(おり)のように醗酵させた(にお)いを(はこ)んだ。前日に降った驟雨(ゆうだち)のために、落葉(おちば)裏面(うら)には幼虫が(びっしり)()んでいそうな程湿(じめり)としていた。暦の上では鼻先まで秋が差迫(さしせま)って居ると云うのに、(すこし)もその萌芽(きざし)はなかった。

撫子(なでしこ)杜若(かきつばた)青桐(あおぎり)木斛(もっこく)紫陽花(あじさい)(おうち)柘榴(ざくろ)(いずれ)も喪服のように分厚く(へだ)たれ、汗を流すように(つゆ)(こぼ)れた。

以前(まえまえ)から(うち)の白壁を這う雨樋(あまどい)下枝(しずえ)(さなぎ)を張って居るのを見附(みつけ)て居た私は乳母(ばあや)に、最早(もうすぐ)胡蝶(ちょう)へ変貌するはずだから、これを*剪定することなく見戍(みまも)ってくれるよう頼んだ。やはり彼是(ぶつくさ)と*叱言(こごと)を頂戴したが、(しっかり)と約束を(まも)ってくれた。俄雨(にわかあめ)通過(すぎ)翌日(あくるひ)、私は朝夙(あさはや)覚醒(めざめ)雨樋(あまどい)を視に()った。すると(さなぎ)は*挫骨(ざこつ)したように(ぼてっ)と地面に(ころが)り、(はじめ)酸素(くうき)(つぶさ)に喘ぐようだったが、漸次(しだい)打上(うちあ)げられた溺死体に見えてきた。永いこと、無心で視て居たようであったが、昇るに()れて(せなか)から射展(さしの)べられる太陽に、水の薄い衣を()た蛹は燦然(きらり)(ひか)った。

美しくは在ったが、甚だ残念に想った。何故ならば私が視て居る美しさは動的(ダイナミック)なものではなく、静的(スタティック)(それ)であったからだ。(さなぎ)胡蝶(ちょう)(かわ)るその瞬間を(もと)めて居たのに、(あた)えられたのは未完成のまま永遠に硬直した存在であった。

どうせなら、崩折(くずお)れるその瞬間を視たかった。

その刹那のことである。天が木洩(こも)()に戯れて居たために手放した残虐さが私の(ところ)摺落(ずりお)ちてきたのであろう。

私は(さなぎ)を解剖してやろうと云う心地(きもち)(ふっ)(おき)たのだ。

(さなぎ)(うち)には人類からは決して視られない見事な奇跡が(ねむ)って居るに違いない、人目を(はばか)られるのは、そこに唯美の結晶を成して居るからに相違(ちがい)ない、そう想った。

元来として胡蝶(ちょう)には報知(しらせ)がきて居るのだ。(ほんとう)はもう何時(いつ)その(から)(やぶ)るべきかを()って居るのだ。けれども、この蛹は(わか)らないのだろう。途迷(とまど)っているのだろう。今は忘却(わすれ)ていようとも、光芒が(ちら)射込(さしこ)むだけで飛翔(とびた)たねばならないことを追憶(おもいだ)すだろう。

(ただ)しい因果(いんが)(もど)してやらねばならぬ。

親炙…親しくその人に接して感化を受けること

剪定…果樹などの生育や結実を均一にし、樹形を整えるため、枝の一部を切り取ること

叱言…ぶつぶつ言う不平や文句

挫骨…骨をくじくこと

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