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十五

云うに(およば)ず、読者諸兄は(おそら)嗤飛(わらいと)ばすことであろうが、私は(いまだ)にこの(ことば)の真偽を(あきらか)不可能(できず)に居る。(つね)に笑って(ばか)り居た母が、この時に(かぎ)り*余処行(よそゆき)(めつき)をして居り、私を(すか)して、*陽炎(かげろう)の如く揺々(ゆらゆら)となる*影法師(かげぼうし)でも視て居たのではなかったのか知らん、と当今(いま)も念う次第(わけ)であり、取りも直さず、稚児(こども)にとって*行間を読むと云うことは(いささ)難儀(なんぎ)(すぎ)た。

と云うのも、市井の辺鄙(はずれ)に川があり、それは普請(ふしん)萌芽(きざし)(すこし)(みら)れない砂州(さす)(ひろが)りをもつ。(さび)(まばら)に撒いた鉄の梁、雑然(ごたごた)(たたな)わる襤褸(ぼろ)(いえ)、官能を刺す腐臭、(みずぎわ)には廃材や汚物の(うずたか)く募らせた浮萍(こじき)栖処(すみか)も在っただろう。塵芥(あくた)は必ず(わだかま)り、川辺(かわべ)を這う赤黒い*疥癬(ひぜん)眩暈(めまい)(はこ)び、糜爛(ただれ)景色(けしき)が光に(ただ)されることは一度もなかった。

私の眼瞼(まぶた)焼附(やきつ)き、心裡(こころうち)に通う川とはこういうものであった。

母は往々(たびたび)ここが私の起源(ルーツ)だと揶揄(からか)ったために(さき)(のべ)たことになった。

稚児(こども)には*奔馬(ほんば)(しずめ)るための*轡頭(くつわ)もなければ、手綱(たづな)もない。物事を(ただ)しく吐出(はきだ)すことを不識(しらな)い幼少の(みぎり)では、如何(いか)なる形相(かたち)であっても、それを咀嚼(かみくだ)き、(まげ)吞下(のみくだ)すことを恐懼(おそれ)(あまり)、血を流してでも自分の心の鋳型を(ゆが)ませる。これが幼い私の外交術であった。やがて、そうした姑息めいた俄作(にわかづく)りは*扶植(ふしょく)土塊(どだい)(もと)め、心に深い根を(おろ)し、私の場合、今では(おさえ)(きか)ず、好勝手(すきかって)に悪の芽を吹かせている。

悪の芽から、私は死骸(しがい)より(うま)れたのだと(さと)った。多病で薄弱な肉身(からだ)(なお)のこと裏打(うらう)ちを成した。生身(いきみ)血肉(ちにく)()けた容器(うつわ)と云うよりも、神降(かみおろ)しで誕生(でき)た死の宿主(やどりぬし)と云う心地(きもち)(まさ)った。これは隘路の(はて)に得た(きよらか)情念(おもい)である。

太陽よりも月に(したしみ)を憶え、清寧な(ねむり)や美しい夢の縷々(かずかず)の*醇乎(じゅんこ)とした想いに(みた)されるのも(すべ)て自然に甘受され、却って活々(いきいき)冴返(さえかえ)動悸(ときめき)すら憶えた。詩人が吟を詠み、楽士(がくし)音曲(おんぎょく)()くのとなんら(かわ)らない。生者が生を模写(なぞ)るように、私は死を模写(なぞ)った。

夢の陶酔や睡眠(ねむり)(やしき)に胸を踊らせ、月に心を捧げる。私は日増(ひまし)に死の系譜を辿ることに(よろこ)びを抽出(みいだ)した。或るときは夢の影像を修辞で綴り、或るときは眠りの舞台へ*集注し、また或るときは月華(げっか)に群がる星々の観察に傾倒したこともあった。

私の御執心(おきにいり)はふたご座であった。弟*ポリュデウケースと違い、不死ではなかったために戦争で死んでしまったものの、その後ゼウスによって弟とと(とも)にふたご座へ歓迎(むかえ)られた*カストールに対し、私は惹かれた。今の季節の星座でないと云うことが残念でならない。

余処行…特に改まった言葉遣いや態度

陽炎… 春のうららかな日に、野原などにちらちらと立ちのぼる気

影法師…光が当たって障子や地上などにうつった人の影

行間を読む…ここでは真意を汲み取ることの意

疥癬…ダニ等の寄生によって生じる伝染性皮膚病

奔馬…勢いよく走る馬。激しく走るもののたとえ

轡頭…乗馬具の一つ

扶植…うえつけること

醇乎…まじりけのないさま

集注…精神をひとこころに集めそそぐこと

ポリュデウケース…ギリシャ神話に登場する英雄

カストール…ギリシャ神話に登場する英雄。ポリュデウケースの兄でもある

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