十
女はマキナと名告った。姓名か渾名か、将又源氏名かを闡明にすることは疎か、その孰かと糾すことすら憚られた。マキナの魔性の所為か、もしくは私の怯ず怯ずとした心持の所為か。
憶えば、私は女と云うものを余識らずに生立った。唯ならず、他人と昵懇ろに附合うこともなく、当今まで棲してきたのである。友情や恋愛は総て間遠であった。永遠の如き光彩は、青春の屏風絵を冠った仕切の*衝立によって疎に透き、私はそれらに絶えず憧憬れながらも、終ぞ彼岸へ跳超えようとはしなかかった。それはまるで*痘痕の刺繍を佩いた*緞子が*塵芥に濁ってゆくかのようではなかろうか。
或いは*手遊、或いは*読書尚友、孤独に寄添ったのは悉くが屍人であり、孰かを憂慮えるときの物差は極まって、生きて居るかどうか、ではなく、死んで居るかどうか、であった。
私は随所から観念としての死を抽出することが可た。しかしそれを特別な才能と云うような処へは還元しなかった。そう呼倣わすには余にも心の中核を成して居り、*天稟の範疇を超えて居たからである。筋骨に沁る許りの悲哀は、手鞠、積木、絵描、折鶴と謂った、黒烟に似た孤独を足併せることによって唯、屡々粉飾された。
翻って、四辺は見廻す極、淋とした*濡色に染り、尽きぬ微風が歔欷に化粧し、彼方に争える*甍も、此方に泛べる天涯も均く*錦めいた無垢に押黙って居る。寂寞と暮れる宵にマキナの容貌は夢の残余を蝟集た孔雀の荘厳に似て居たことだろう。
最初、私が殊に惹かれたのは這般外貌許りではなかった。汎、次の一言を端緒とする*懸河の弁も調和ったことだろう。
大変長いものであったので、万てが符って居る次第ではないが、始はこうであった。
「貴郎はもうすぐ死んでしまいますの」
*衝立…屏障具のひとつ。一枚の襖障子またが板障子に、移動しやすいように台をつけたもの
*痘痕…痘瘡が治った後に残る跡
*緞子…紋織物の一種
*塵芥…ごみのこと
*手遊…手に持って遊ぶこと
*読書尚友…書物を読むことによって古の賢人を友とすること
*天稟…才能のこと
*濡色…水に濡れた色
*甍…屋根の背
*錦…紋様の美しいものをたとえていう古語
*懸河の弁…早瀬の水の奔流のように、勢いよくよどみない弁舌




