2
「総監がそのような調子ですから、天使どもになめられるのです!!」
ニタバーニ・ゼネラックは、目前の厚いドアをノックしようと軽く作った拳を上げて直後、ドアの向こうから漏れるマルトリック・ゲイザーの捨て台詞のような退室の言葉に糸目を丸くした。
荒々しくドアを開けて出てきたマルトリックはニタバーニよりも十歳以上年下である。が、ノンキャリアでありながら若くして「警部」の階級に伸し上がったという彼の眼光にはニタバーニの持ち得ない猛々しい輝きが備わっていた。
歳は三十代後半。白髪交じりのダークグレーの短髪を後ろに流している。最近益々腹周りの肉と共に眉間や目尻の皺の数も増えてきた。
「…………失礼」
一言、押し殺した声で吐くと、彼はダルマのような――といっても百六十五センチの鍛え抜かれた筋肉ダルマだが――太い身体を怒り任せに動かして廊下を奥へずんずんと進んでいく。
どこかコミカルに映る彼の後姿を見送りながら「やれやれ」と溜息をついて。改めてニタバーニはドアに向き直った。
短い返事を耳にした後、室内に入る。
ニタバーニを迎えたのは、明るい照明。上質な絨毯。壁に掛けられている、繊細な細工の施された額縁の中の歴代警視総監達。それから、扉の前のニタバーニの対面に位置する一際上等な机と椅子。そこに腰をかけた、どことなく気品溢れる男が自分を眺めている。
ダニエル・クイロ。容姿端麗。頭脳明晰。冷静沈着と謳われたかつての同期総代も今年で五十歳だ。
短い白髪に黒ぶちの眼鏡。中肉高背で切れ長の金の瞳を持つ自分と同い歳のキャリアはとうとう警視総監という位置まで上り詰めてしまった。これは人界中の警察組織を取り締まる国際警視庁の長に与えられる、人界の警察機関では最高位の階級である。
「少しいいだろうか。警視総監殿」
ニタバーニは大仰な素振りで恭しく尋ねる。くだけた口調に、しかしダニエルは僅かに歪めた眉目を返した。
「……トランのことか」
おまえもか。とでも言いたげな様子。机の上に両肘をつき、組んだ手を口元に持ってきて唸る。その声色には幾許か疲労も滲んでいた。
「いやいや。仕事に関連した事柄ではない。久しぶりにな。まぁ、世間話と言うヤツをさせてもらいに来た。忙しいだろうか。都合が悪ければ出直そう」
「……構わない。しかし、貴様が盗み聞きなんて趣味の悪い事をするとは……変わったな。ニタバーニ」
「たまたまだよ」
僅かな非難と小さな侮辱を含む陰気な視線を受け流し、笑みを崩さずあっけらかんと答えてやる。
切れ長の金の目を少しだけ見開いたダニエルは僅かに表情を緩めた後、ニタバーニに室内中央の応接セットのソファにかけるよう勧めた。
「いや、結構。見たところ警視総監殿はゲイザー警部の尋問で相当疲労が溜まっておられる様子。手短に済ますよ」
皮肉を込めた言葉を返してやるとダニエルは再び眉間に刻まれた皺を深くする。
「彼の……仕事に対する姿勢や、情熱については評価する。だが……上官に対しあそこまで啖呵を切るとは」
「元々、中央は個性豊かな人材が多い。取り分けゲイザーは現場……しかも叩き上げで有能な人材だと評判を聞きつけた人事部がわざわざ地方から招きいれた程の男だからな。そいつらのトップに立ち手綱を握り続けねばならない警視総監殿の気苦労は相当なものなのだろう。心中は察してやる」
「ありがたい」
溜息交じりに言葉を吐くと、大袈裟に肩を竦めてみせる。
(歳をとると人間、柔らかくなると言うが……)
昔と比べると随分ソフトな印象を見せるダニエルに密かに目を剥きながらも、彼に付き合い一頻りカラカラと笑ってみせた。ようやく場の空気が和んだかのように思われた、その直後。
「まぁ。そんな訳だからして、ダニエル。早速"世間話"に移りたいのだが」
ニタバーニの目つきが一転。険しいものとなった。
こうなると彫りの深さが際立ち、普段の彼が纏っている気さくで砕けた印象が鳴りを潜めてしまう。
対し、ダニエルは先程の柔和な雰囲気を纏ったまま瞳の奥の光だけを鋭くニタバーニに向ける。
「先日マスコミに公表した内容だが、総て上からの指示だというのは本当か」
「……"世間話"と称した割には。ゲイザー警部と切り口が同じだな」
組んだ手で半分隠れてしまっているが、恐らく苦虫を噛み潰したような顔をしている事だろう。整った眉目の皺を益々深くしたダニエルの呟きには無言を決め込んで、ニタバーニは辛抱強く彼の答えを待つ。
「……確かに。三週間前の魔族侵入事件で、魔族を倒し街の平和を護ったのは、勇敢なる警察官トラン・クイロ警部ただ一人の功績だと世間に発表する様指示してきたのはWSPだ」
「トランが持つ天石について、わざわざ公言したのも……」
「ああ。おまえが察している通り、連中の指示の内だ。というか。天石の話を持ち出さねば幾らなんでも世間は納得しまい。人間がたった一人で複数の魔族を相手に勝利を掴み街を護ったなんて、それこそヒロイック染みた児童劇だろう」
「ダニエル。トランが天石を所持していた事。養父であるおまえは今回の事件が起こる以前から既に気づいていたんじゃないか?」
「…………」
無言を肯定と受け取ったニタバーニは、さらに"世間話"と称する詰問を進める。
「フォルツェンド一味の元にトランが身を寄せていた事も知っていたのか」
「…………ああ」
「いつからだ」
「君に権限はないはずだが」
「俺は仕事の一環として上司に尋ねているのではなく、トランの友人として、かつての同期に訊いているのだが」
「…………」
「天石を所持していたトランを傍観していた上、フォルツェンド一味の本拠地を知っていたおまえが今日に至るまで一味を見逃していたのは何故か。ゲイザーがおまえに食って掛かった件はこの二点についてだろうと俺は睨んでいるが。間違っているか?」
「…………」
「単純で直球型の彼とトランは似ている。動と静、真逆に位置しているに過ぎない。余談だが、俺はどうもその手の奴等の扱いが上手いらしい。ゲイザーが何に怒り、上官であるおまえに反論したか。立ち聞きせずとも少し考えれば解る。彼等は『妥協』を知らないからな。納得出来ない事柄に対し一人で悩みに悩みぬいてそれでもどうやったって許せずに、最後には爆発する。現代において彼等は憐れな程に不器用だ。若さゆえ、と言うヤツかもしれんが。だが。まぁ……俺がおまえに訊きたいのはそんな『表層的な事』ではない」
ニタバーニの細目の奥――ダークブラウンの瞳が鋭く光る。
「少し昔の話をしよう。知っての通り俺は六年前、ウィリデ地方の警察署に勤めていた。六年前といえば、あの地方で発生した大規模な山火事はまだ記憶に新しいだろう。俺はあれを肉眼で確認した。赤い灼熱の地で炎火はのたうち、あるいは天高く吹き上がる。竜巻のように渦を巻く炎の中を幾度も火の竜が空を目指して昇ったのを見た。強風に煽られさらに燃え広がり、炎の波は一瞬の内に民家を呑む。そうして、撒き散らされた圧倒的な恐怖の後に残るのは焼け野原と化した大地や死した街――絶望だ。公式発表では乾燥した空気と熱風による自然災害などと称していたが……現場に居合わせた俺にはとてもそうは思えん。それほど悪意的な何かを伴う凄まじい地獄だった。壊滅的な被害をこうむった街――スマラグドに俺は駆り出された。スマラグドは既に六十人を越える死者を出していたが……そんな地獄絵図の中、俺は奇跡的に、当時十四歳だった奴を助けた。……そう。『奇跡的に』な」
直視し続けるその先の――硬い面持ちは変わらない。冷酷な金の目が語り続ける自分を見続けている。何を問おうとしているのかとっくの昔に読めている、と言った風だ。
昔からそうだ。総代であったこの男を自分はライバル視すると同時に尊敬していたし、密かに慕ってもいた。しかし計算高いこの男が時折みせる、この妙な余裕だけはどうにも鼻持ちならなかった。
ならば言ってやろうとニタバーニは思った。それでなくてもこの件に関してこの男を問い詰めるには聊か遅過ぎた体がある。しかし、一体誰が予想できただろうか。この急過ぎる事態を。
「本人に直接聞いたところ、奴の家族はその六十人の中に入っていたようだ。俺は身寄りの無い奴をウィリデの教会――孤児院に預け、その後もちょくちょく様子を見に行っていた。が、しばらく経って、何を考えての事か奴は国際試験なんぞを受けて合格し、晴れて中央署勤務が決まったと俺に報告してきた。旅立ちの日には共に孤児院を出て……奴とはそれっきりだ。おまえが奴を引き取った事を知ったのは、十五で成人した奴が警中に入った時期だ。研修中の奴と署内でばったり顔を合わせた」
「その話は、前に息子から」
「正直。俺は疑問だった。何故おまえが奴を引き取ったのか」
「…………」
「プリムスから遠く離れたウィリデの教会だ。縁でもなければあんな山奥、立ち寄る事もないだろう。……さて。都会育ちであったおまえとあの田舎に、一体どんな縁があったというのか」
「…………」
「奴が警官を目指し警中に入った後で目に止まり、養子にもらったってンならまだ解る。だが、おまえが奴を引き取ったのはその前だ。奴はおまえのコネで警中に入ったようなものだからな」
「…………」
「天石を所持していたトランを、養子にもらったのは偶然か」
「…………」
「その後間も無くおまえがこの位置についたのも、偶然か」
ニタバーニの言葉が止むと間も無く、重厚な静寂が室内を支配した。
流れる厳格な空気は、両者がそれぞれに重ねてきた長い年月を緻密に表した物か。
沈黙を守っていた男はようやく、組んでいた手を外す。
露になった口元は――笑っていた。
眉を潜めるニタバーニの前で、笑みを浮かべたまま男は眼鏡の蔓を押し上げる。
「おまえはどう考える。ニタバーニ」
「はじめからだ」
眼鏡の奥に宿る不気味な光にしかし臆する事なく真っ直ぐに見つめてニタバーニは口を開く。
「ダニエル。おまえは……思えば、はじめから総てを知っていたように感じる。トランがリチウム・フォルツェンドの元に身を寄せる事も。奴がこうして、本人の意思とは無関係に不自然な地位に押し上げられる事も。魔族が人界に押し寄せる事も。……そう。なにもかもだ。知っていて片棒を担いだ。トランに警部という階級を与え、万一奴が警察官を辞職する事の無い様、奴にとっては"恩人"である俺の下に就かせた。それに確か……奴にリチウム一味の件を任せたのはおまえの命ではなかったか」
「さすがは『直感と洞察力に優れた副総代』……と言ったところか」
ダニエルが満足げに口角を上げた。
浮かべたのは、かつてお互いを讃えあっていた頃自分に見せた表情では決してなく、どこまでも冷酷な微笑だった。
同期で在りながら密かに憧れて止まなかった存在の影に隠されていた混沌に、ようやく辿り着いた男は小さく喉を鳴らす。
そんな様子を見据えながら、ダニエルは上質な革製の座席に背を預け、悠然と構える。
「ニタバーニ。"対"という存在を知っているか」
「……つい?」
「私は数年前にその存在を知った。生命と対。その二つが螺旋を描く事で世界は成り立っている。この『本来在り得ない世界』が、な」
「意味が解らない」
「解らんだろうさ。この私でさえ当時は理解に苦しんだ。それも当然だったのだ。我々は世界を把握するだけの真実を未だ知り得てはいないのだから」
「真実……だと?」
訝しげに復唱するニタバーニを、ダニエルは落ち着ききった面持ちで見上げている。
「ニタバーニ。我々警察は本来、人界の治安――人界を護る為の組織だ」
「これまでの行動を、おまえは……そんな常套句で正当化しようと言うのか?」
「勿論だ」
非難めいた視線を、しかしダニエルは真っ向から受け止める。
「災害も空間も。時も未来も。我々生命の一つ一つでさえも。総てはたった一人の子どもじみた幻想の内で良い様に転がされているだけに過ぎない」
「……なんだって?」
「我等警察は、人界を護らねばならない。例え神が倒れようとも。常識が破壊されようとも。人界を担う我等警察が、倒れる訳にはいかんのだ」
ゆったりとした座席から背を離すと、立ち上がったダニエルは後ろを振り返った。壁一面に設置された巨大な窓ガラスの前に立ち、ダニエルは外界を眺める。人界を担う一人の男の双肩はしかし、巨大パノラマの前に異様に小さく映った。人界一の高さを誇る国際警視庁の最上階――五十六階から眺める絶景は如何なるものか。男の部下でしかないニタバーニには想像も及ばぬ領域である事は確かだった。
背を向け眼下に広がる世界を見下ろしたまま、独り言のようにダニエルが呟いた。
「トランは最も重要な鍵だ」
「……鍵?」
ニタバーニが問うも、それには取り次ごうともしない。
いや。ダニエルはもはや、ニタバーニの存在を意識してはいなかった。
「…………」
かつては競い合った間柄だった。
遥かなる過去の幾場面かを薄く振り返っては俄かに生じる寂寥の思い。いつから。
きっともう随分前から、この男は自分など視界に入れてはいなかったのだろう。
大きく立ちはだかっていた目の前の背中が、今はこんなに遠く感じる。
長い年月を経て、決して変わる事は無いと感じていた距離は今や遠く離れた。
ニタバーニは考える。
恐らくは五年前――ダニエルがトランを養子にした時には、既に。
「鍵を通して初めて我等はこの世界で奴等と対等に在る。このまま枠内に閉じこもり支配下に居続けるか。それとも、人界の繁栄する未来を勝ち取るか。六年前。我々は、ようやく模索可能な位置に立ったのだ」