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4

 時刻は七時半を廻っていた。

 男性教師のお誘いを丁重にお断りして、それでも「家まで送っていく」と引っ付いて離れない彼から半ば逃げる形で席を立ったグレープは、芳しい香りが充満する広い店内の一角にリタルの小さな背を見つけた。十二月の太陽はせっかちで、窓から覗く冬空にはもう闇が降りていた。一緒に帰宅しようと少女に声をかけたのだが、返って来た言葉は「この後用事があるから」とあまりに素っ気なかった。仕方なくグレープはそのまま店を出ると一人で帰路に着いた。

 闇に沈んだ街はひっそりと静まり返って、行き交う人の姿も無い。グレープは一人、冷たくなった掌を口に添えて白い息を吐く。少しは温まったような気がしたが、それだけだった。

 身体の芯まで凍える寒さ。容赦なく吹きつける北風に蒼い髪が揺れる。三週間前にリタルに切ってもらった髪は、いつものように後ろで一つにしばっている。あの日以来急激に伸びるような事もなく、周りの人間のソレと同じように少しずつ長さが伸びているようだった。肩にかかる位――そうリタルに伝え、いつもの長さに整えてもらったはずの髪は、三週間経った今では鎖骨にかかるまでに伸びている。

 もう気のせいなんかじゃない。本当に、ちゃんと伸びている。みんなと同じように。

 ……しかし。

 胸元に持ってきていた片手を力なく下げ、曲げていた指先を外気に曝す。俯き加減で歩を進めると、夜風はどこまでも厳しくグレープを吹き飛ばさんとばかりに意固地に向かってきた。幾度も。幾度も。細面にかかっていた前髪が強風に煽られ、白い額が露になる。表情は――どこまでも無であった。

 ふと、少女の顔が過ぎる。

 ――あんたが『自分は普通じゃない』なんて。そんな事気にして、それで今まであたしたちに遠慮とかしてたんだとしたら、あたしはあんたを笑ってやるわよ――

「……違うんです。リタルさん」

 そうじゃない。

 自分はきっと。


 先日、成り行きでリタルとリチウムの話を耳にしてしまった時。

 自分グレープは魔石のような存在である。

 リタルの言葉に、立ちすくんだグレープが衝撃を受ける――事はなかった。

 むしろ、変に納得してしまった。

 リタルには告げなかったが、物心ついた時から自分は爪さえ伸びた事がない。総ての石化製品を暴走させてしまう点といい、リタルの言葉を肯定付ける特徴は幾つもある。周りがそう見るように、自分でも自身を変だと思っていた。だからあの時――リタルが口にした言葉は自分でも驚く程すんなりと受け止める事の出来るものだった。それどころか、不安の種が理解できて逆にすっきりした位だ。

 自分は人間ではない。

 その事実を受け入れてしまった今の方が、苦悩していた昔よりも楽だった。

 やっぱり、自分は"変"だった。

 ……だけど。今は、それでもいいと思っている。すんなり受け入れられる。

 だって。そんな事でくよくよ悩んでいたって、仲間に笑われるだけなのだから。

 そう。自分には仲間が居る。

 リチウム、リタル、トラン、クレープ。

 今の自分には楽しい毎日がある。

 だから、不安なんて感じない。

 感じる隙間さえない。

 だって。楽しい。

 だって。楽しい。

 だって――なんで。それなのに。

 ……こんなにも、心細い。

 宣告するリタルの凛とした声を耳にしてから、一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。リチウム達の居た、三号室の明かりが消えた時。ふと、我に返った。

 訪れた暗闇。夜の匂いに包まれた身体は、ずっと冷え切っていて。グレープはようやく自身が凍えている事を実感した。

 ふと、背後に温かな気配を感じる。

 ずっと自分の背後に立っていてくれたトランに気づいて、戻ろうと、そう声をかけた。

 彼に振り返った、あの時の自分は、一体どんな表情かおをしていただろう。ちゃんと笑えていただろうか。今も笑えているだろうか。自信がない。

 トランには訊けない。夜の闇に包まれて……それでも自分に笑んでくれた優しい彼に、これ以上困った顔をさせたくはなかった。

 そして。その件以上に、彼女を苛む変化が二つある。

 三週間前、グレープは魔族の手に落ち魔界に連れていかれた。その時からだと思う。以前と比べ、身体が異様に軽くなった。それまでの自分は、知らぬ内に数キロの不可視の錘を両手両足に装着したまま生活していたのではないか――思わずそんな事を疑ってしまう程であった。

 現在、徐々にではあるが、日常生活を営んでいく内にこの違和感にも慣れてきた。

 伴って、髪が伸び、爪が伸び。これまで幾ら試しても暴走、もしくは破壊を繰り返してきた石化製品をもこの手で難なく扱えるようになった。

 まるで、出来損ないが「人」になっていくような、そんな感覚。戸惑いはあるものの、少し嬉しくもある。

 だが、身体的変化以外にも妙な違和感を覚えるようになった。やはり三週間前から、グレープの記憶は非常にあやふやなものになっていた。

 そうは言っても、別に記憶を喪失したという訳ではない。物心ついてからこれまでの十数年間。どんな細かな事でも思い出せと言われればそれについて述べる事が出来る。だが、それは何故かどれもこれも実感の伴わない覚え(もの)ばかりだ。

 例えるなら、クレープが身体の所有権を握っている間の感覚に等しい。クレープが体内に居た時の光景を思い起こしてみると、記憶であるはずのそれは異様に薄っぺらい。読書などで得た知識ものと非常によく似ていた。脳裏に自身のものとして映し出されるのは、間接的な……まるで現実味を帯びない記憶きろくだった。

 そういった「実感が湧かない記憶」というものは、僅かな……ほんの一握りの量だけだった。当然である。クレープは必要以上にグレープの身体を求めないし、入ったりもしないのだから。

 だが。今はどうだ。

 三週間前を境にして。それ以前に起こった総ての出来事。事柄。日常。世界。思い出。嬉しかったり、哀しかったりそういった感情を齎した感触総てが、確かに映像は残っていながらも、実感がまるで無い。

 まるで。それらが総て、夢の中の出来事だったかのような。

 日を追う毎に、その感覚は強くなってゆく気がする。というのも、この三週間が異様にリアルで、実感の伴わない十数年の記憶がさらに霞んできたのだ。

 記憶の中の自分は、果たして本当に自分であったか。強大に成長した違和感はいつしか、そんな事を思案するようになるまでにこの身を支配していた。

 そう。現在グレープは、不安で堪らなかった。

 果たして。楽しい彼らの中で笑っていた自分は、本当に自身だったのだろうか。

 もしかしたら。自分ではなく、クレープではなかったか。

 そんなはずはないと頭では解っていながらも、幾度も幾度も、ふと過ぎる。

 だって、そうでなければ、説明がつかないではないか。

 常に心の中に在る、この大きな空洞を――

「…………!?」

 唐突に、背後から頭をわしっと掴まれた。

「でさ。そこで直立されてっと。俺様いつまで経っても中に入れねぇんだけど」

 聞き覚えのあるバリトンが響く。

「? ……リチウムさん?」

 どうしてこんな道端でこれほど声が反響するのか。

 なんでこんな所にリチウムがいるのか。

 疑問の回答は、自身の視界にあった。

 目の前には1101号室と書かれたドアが一つ君臨している。

「……はれ?」

 グレープは、いつの間にかホームに帰って来ていたらしかった。

 恐らく、自力で歩いてここまで来たのだろうが、覚えていない。

 ……いや。改めて思い返せば、薄っすらとエレベータに乗った記憶があるようなないような……。

 未だ呆けていると大きな溜息をついた背後の男に、手に提げていた帰宅途中に寄ったスーパーのビニール袋を取り上げられてしまう。持ち手のビニールが相当食い込んでいたらしく、途端に指先がじんじんと痛み出した。

 頭を掴む手にグイっと後方へ引っ張られると、入れ替わりに前に出たリチウムがノブを握る。

 ロックの石が解除され、ドアが開いた。

 暗闇の室内に廊下の明かりが差し込んでゆく。

「ぼさっとしてんな」

 一言呟くように口にしてから、長い影を先頭にリチウムが室内へ入ってゆく。

 その数秒後。錆付いたドアの音で完全に我に返ったグレープは閉まりかけたドアノブを慌てて掴んだ。




 リビングのソファに腰掛けたリチウムは腹が減っていたらしく、グレープが買ってきた弁当に早速がっついている。茶を飲む合間にリモコンに手を伸ばすと、毎週この時間帯に放送されているバラエティ番組がけたたましい笑い声を室内に響かせた。番組司会者の早口を耳にした時。未だぼうっとしている自分にグレープはようやく気づいた。

 時計は八時を廻っている。

「…………」

 家仕事がたくさん残っている。

 例えば、今日の昼、リチウムが散らかしたであろう、食器洗い。

 風呂を沸かして、少し掃除もしておきたい。……だが。

 室内には壁にかけられた薄型テレビの音だけが響いていた。

 リタルの帰りが遅くなる事を報告して、以後二人の間に会話は無かった。

 画面に流れているのは、リチウムが毎週楽しみにしているバラエティ番組だ。リチウムはもごもごと口を動かしながら番組に集中していた。

 見上げれば、青い瞳は子どものそれのように画面に釘付けられている。普段と変わらぬリチウムの様子に、どこかホッとしたグレープはようやく口を開いた。

 話題は今日の球技大会について――と、思ったが。ふと、トランの顔が頭に過ぎった。忙しいはずの彼は、それでも仕事の合間をぬってリタルの様子の見に来てくれたのだ。

「トランさん。今日もお仕事で帰れないそうですね。最近は特に忙しそうです」

「まぁな」

「いつか……またのんびり出来るようになったら、わたしも野球を教わりたいです。トランさん教え方すごく上手ですし、ドン臭いわたしでももしかしたら……」

「……聞いてなかったのか?」

 リチウムは意外だと言わんばかりに目を丸くしてグレープを見た。

「トランチャン。近々ここを出て行くらしいぜ。なんでも、昇進? したみてぇだ。奴。天界あっちの寮に住むんだと」

 初耳のグレープは、先程のリチウム同様、瞳を大きく見開く。

「そうなんですか!?」

「三週間前に魔族が何体か、グノーシスに姿を見せたじゃねぇか。それ、ニュースで世界中に流れたらしくてさ。世間が関心を寄せて……なのに。事はいつの間にか幕を下ろしていた。魔族はいなくなって、グノーシスも無事。で。結局魔族の手からグノーシスを救ったのはどこの誰なんだって流れに当然なって、だな。さすがにそこで『魔石泥棒とうぞく』で知られる俺様や、増してや子供リタルの名前を世間に公表する訳にはいかんかったんだろう。警察にも面子ってもんがあるだろーしな。結果、トランが『炎帝』使って魔族を一人で倒したって事になった」

 言葉の合間に弁当を掻き込むリチウム。ウグウグと口を動かしながらテーブルの上の朝刊を顎で指す。

「ニュースでも盛んにやってたんだが……気づかなかったのか?」

 トランの困ったような笑顔が掲載された新聞を手に取り、一面をマジマジと眺めるグレープ。

 成程。そこには感謝状を受け取るトランの写真を初めとして、炎帝の写真。その横に魔石専門家の解説。当時の目撃証言が多数掲載されており、「天に昇る火柱を見た」だの「空が一瞬明るくなった」だの「あの夜、奇跡の赤光が降臨した」だの。様々な記事があった。

 ふと、グレープが表情を曇らせた。

「……あのでも、これって」

 グレープの顔色に気づいたリチウムが、頬についた飯粒を摘み口に運びながら付け加える。

刑事トラン禁術封石えんてい持ってる事をンな大々的に披露しちまって大丈夫だったのか……だろ? おまえが訊きたいのは。心配いらねぇよ。『炎帝』は確かに禁術封石だが……ありゃそもそも『天石』っつう代物だったらしい」

「天……石……?」

「ああ。俺様も最近知った事なんだが……魔族じゃなしに、天使の結晶なんだと。だから特別にお咎めはナシって事になったそうだ。そんなこんなで必然的に奴の昇進が決まって。なんでも、今日からWSP勤務になったらしい。今日は……なんか一日がかりで、色々と説明があるんだと」

「そう、なんですか……すごいですね」

 グレープはあんぐりと口を開けて、それから、少し寂しそうに俯いた。

「言ってくだされば、お祝いできましたのに」

「おまえに話していない所を見ると、奴にしてみれば相当不服だったんじゃねぇ?」

「え?」

 ボソッと吐かれたリチウムの言葉に、グレープが顔を上げた。

 確かにトランにしてみれば、今回の昇進は不服以外の何物でもないだろう。

 トランは生真面目な男である。加えて彼は、あの事件の後。自分一人だけが何も出来なかったと悔やんでいた。

 夕焼けの赤い世界。彼が悲痛な面持ちで自分に向かって頭を下げた事を思い出す。懺悔にも似たあの姿は、普段は穏やかな彼の、表に決して漏らす事のない暗い影。搾り出すように上げた言葉に、グレープはどこか悲鳴にも似た響きを感じた。あんなにまで自身を責め抜いていた彼が、真相を語る事も出来ず、況してや世間に偽った形で昇進するというのだ。彼の苦悩は推し量れない。

 しかし。先程のリチウムの言葉はどこか引っ掛る物言いだった。

 ひょっとして、トランが自分に謝罪していた場面をリチウムは見ていたのだろうか。

 もしかして、リタルとの話を自分達が立ち聞きしていた事も――

 自分を映す双青を見つめながら相手の言葉を待つと……。

「ま、あれだ。祝いなんて先になろうが後になろうが、どんな形でも有難み変わんねぇだろ。特にトランの野郎はンな事気にする類の男じゃねぇしな。それはおまえも知ってンだろ?」

 特に他意を匂わせる様子もなく。後頭部をポリポリ掻きながらリチウムが付け加えた。――少し、安堵する。

「……そう、ですね。はい」

 独り言のように呟くと、グレープは小さく微笑んだ。

「今度お会いした時に、おめでとうって伝える事にします。だって魔族さんとの事が無くったって、トランさんは今まで頑張ってこられたのですから」

「伝えてやれ伝えてやれ。奴もそりゃあ喜ぶだろうよ。それこそ天にも昇ってみせるだろうよ」

 言って、投げやりに片手をふる。弁当を食べ終えたリチウムはそのままテレビの世界へと戻ってしまった。

 その様子に笑んでから、グレープは後片付けを始めようと彼の前にある空の容器に手を伸ばす。

 何気に顔を上げると、目前にリチウムの首筋があった。

 誘われるように、見上げる。

 息を呑む程、それは、ひどく疲れた横顔だった。

 この一瞬だけ、彼は気を解いたのかもしれない。先程までの様子からは微塵にも感じられなかった――感じさせなかった疲労の色をグレープはこの時知った。

 そういえば最近一号室でリチウムの姿を見かける事は少なくなった。辛うじて夕飯の際、リタルとともに姿をみせるものの、昼間は三号室に篭ったっきり出てこないのである。

 ……寝て、いないのか。

「…………」

 思い起こしてみる。トランとリタルもあまり寝ていないようだった。普段なら、夕飯後は深夜まで爆睡しているリタルはしかし、最近どこか表情が冴えない。トランだって似たようなものだ。

 クレープといえば最近出かけている事が多い。……というか、三週間前からロクに彼女と話をしていない気がする。あんな半透明な身体で一体どこへ行っているというのだろう。

 そしてこの男も。

 自分は、この三週間。自身の事ばかり悩んでいた。

 変わりゆく日常に焦り、不安を感じ、なんとか守ろうと必死だった。でもそれは……。

 気づかせてくれたのは少女の、あの言葉だった。

 ――あんたが、それで今まであたしたちに遠慮とかしてたんだとしたら――

 ……違う。

 遠慮していた、訳ではないのだ。

 それは決してこの三週間の事だけではない。自分はこれまで、自身の傷にこそ過敏になっていたのだ。

 怖がって、怯えて。

 もうあの目をもう見たくなくて。

 自分が近くに居る事でもう、他の誰にも嫌な思いをさせたくはないと、楽しい空気に水を差したくないと、自ら距離を置こうと、人を遠ざけようとしていた。

 しかし、それは……詭弁ではなかったか。

 これまで出逢った人は大勢居る。きっとその中にも、あの目を持たない……リチウム達のような存在だって居たはずなのに。

 痛いから。怖かったから。誰かに不快な思いをさせてしまうのは、もう嫌だから。……だから、離れた?

 どう言い繕おうと自分のその行動は、逃げではないか。

 自分こそ、周りの人を信用していなかったのだ。

 今も、そうではないか? 変わっていないのではないか。大事だと言う、彼等の事でさえもおまえはどこか信頼しきれていないのではないのか。そう言われても否定出来ないんじゃないのか。

 違うと否定したかった。

 リタルの言葉に違和感を覚えてから何度も、頭の中で自問自答して――でも。実際、そうではないか。

 誰かを支えたいなんて尤もらしい事を願っておいて、実際はどうだ。

 現状に不安を感じ、なんとか守ろうと必死だった、だって?

 結局自分のことだけしか、考えていなかったではないか。

「…………っ」

 顔が赤くなる。

 なんて自分勝手なんだろう。グレープは、すごく恥ずかしくなった。

 じわりと悔し涙が滲む。しかし、目をギュッと瞑ってクビをぶんぶんと振った。

 自身を責める前に、不安に思う前に。

 自分を考えるよりも、何よりも。

 自分は自分に出来る事をしよう。

 変わりゆく日常。変わりゆく彼等。例えばそこに自分の居場所が無くなってしまったとしても、それはきっと自然の流れ。自分がどんなに嫌がっても震えても泣いても。それは止まってはくれないのだろう。

 ならばせめて、自分は何か、彼らの手助けがしたい。

 そう。変わってしまうからこそ。無くなるかもしれないからこそ。それが出来るのは、確かにここに居る今、この時しかないのだから。

 頷くと、グレープは身を乗り出した。

「リチウムさん……っ」

「んぁ?」

 こちらを振り返ったリチウムは、そこでようやく近くに居るグレープに気づいたのか少し驚いたように瞳を見開いた。

「あの……っ」

 リチウムの青に自分が映っている。

 それが解る程、自分がこの男の至近距離に居た事に、ここで初めてグレープは気づいた。

「…………そのっ」

 ……なんだろう。なにやら。先ほどとは違う感じで。

 異様に気恥ずかしい。

「…………どうした」

「……え、えと」

「…………?」

 困惑の色を滲ませたあおの中に、さらに困惑して真っ赤に染まった細面がある。

 だが、再びふるふると首を振ると。意を決してグレープが開口する。

「あ、あの! 今日は、その…………リ、リチウムさんの好きな、入浴剤にします!!」

「…………は?」

 両手を胸の前でぐっと握ったグレープの意気込みに、リチウムはポカンと口を開けた。

「ですからあのっ 今日は、お風呂にゆっくり浸かっていただきまして! とにかくゆっくりっ寝ていただいて! それで、明日もまた、一日元気に頑張りましょー……っです!」

 完熟トマトのように染まった顔で懸命に捲くし立てると、グレープはとどめに「えいえいおー」と元気よく拳を振り上げた。

「…………」

 ――しばらくの間。テレビの音がやけに大音量に響いた。

 目の前の男が動く気配はない。驚くような呆れかえったような表情で片手を上げたままの己を見ているだけだ。

 …………な、なにか、変な事を口走ってしまっただろうか……。

 訪れた重い沈黙に全身から大量の汗を流しながら、グレープが薄い眉をへの字に寄せる。その時だった。

 唐突に。大きな手が自分に向かって伸ばされた。

 思わず目を瞑って身を竦ませる。と、その手は自身の頭上に乗せられる。

 ぽんぽんと軽く叩かれたかと思えば、次の瞬間。リチウムの手は乱暴に頭を撫で回した。

「…………!? あ、あの……」

 されるがまま、目をシロクロさせるグレープ。

「……あのな」

 しばらくして、至極面倒臭そうな声が降ると、撫でる動きが止まり、

「言っただろ。これから忙しくなるって」

 聞き覚えのある言葉に、グレープの焦点が合う。

 床から、徐々に視線だけを上げていくと、力強い腕に遮られてしまって、その顔を見る事は出来ない。

 それでも、言葉は降る。

「連中もそうだ。いつもサボり気味だったのが災いして余裕無くしたって、ただそれだけのことだ。クレープも遊び疲れたらいずれ戻ってくるだろうし。トランの野郎だって、ここ出て行くっつっても、どうせ休みの日にゃ顔出すだろ。必ず。間違いなくな。……だから別に。これまでと、なにも変わらん」

「…………」

 頭上の太い腕を両手で掴んで、恐る恐るどかしてみる。

 拘束した腕。抵抗は無い。されるがまま、それは容易にグレープの物となる。

 今度こそ。見上げたそこには。

 いつもよりも疲れた顔をした男が「仕方ねぇな」なんて顔で自分を見ていた。

「変わんねーよ。これから先もずっとだ。ここに居る。……だから、な。あのな。おまえは…………ンな色々、心配しなくてもいい」

 不器用な言葉。

 胸元の――自身に身を預けてくれている腕の、力強さと。

 『ここに居る』

 温かさに。

「…………はい」

 グレープが微笑んだ。

「……てかよ。おまえ頭。爆発してる。コントかよ」

「え? えぇ……だってこれはリチウムさんが……っ」

「大丈夫だ。なにしろ"オレ様"は超絶美形だから何をやっても許されるらしい」

「? な、なんですかそれ……?」




 窓の外で、室内の光景を眺める赤い瞳があった。

 暖かな室内から漏れる光が、その人物の一部を浮かび上がらせる。

 長く緩やかな金髪。細い顎。ルビーのような赤い瞳は、どこか冷めた色でその光景を見ている。

「…………」

 室内で笑う、自分と同じ顔をした蒼い髪の少女は、未だ『彼女』に護られていた。

 しかし。恐らく、もう手の内は知られている。

 蒼い髪の少女が魔界から戻って来てから、三週間が経過していた。

 そろそろ、定着する頃だ。

「……きっと。動き出すのは、もう間も無く。でも――」

 寒空の下。痛むほど張り詰めた空気が微かに震えて音を紡ぐ。

 今日は炎帝の主は天界から戻って来れない。仕掛けてくるならば……間違いなく、今夜だろう。

 だが。

「――リチウムじゃ、奴には勝てない」

 刺すような冷風が彼女の金髪と呟きを攫う。

 靡く金糸の合間から覗く赤い瞳は、どこか名残惜しそうに蒼髪の少女を見ていた。が。

 暖かな灯りに背を向けると、一気に上空を目指す。

 闇に振り返ったその時から、彼女の表情かおは完全に別人のそれだった。

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