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 澄み切った晴天。寒空の下で、カキーンと小気味よい音が辺りの建物に反響する。

 が、場内では歓声一つ上がる事はなかった。

 誰もが例外なく口をあんぐり開けて、目玉を引ん剥いていたりする。

(クリーンヒット……!)

 バットをスイングさせた、他称「病弱な秀才美少女」は確かな手ごたえに不敵な笑みを浮かべた。

 対し、周りの人間はただただ唖然とした表情を浮かべては、少女とボールの行方に、交互に視線を巡らせている。

 特に、小学生にしてはなかなかの速球を放つと評判の、ボサボサ頭のピッチャーのそれは一見の価値ありだ。

 「大人しい秀才少女」が相手だろうと彼は容赦はしなかった。

 ――それが厳しい勝負の世界ってもんだ。ごめんよ。つか、こんなオレに惚れるなよ。カワイコチャン。

 心の中で、それこそ少女が聞けば問答無用で天高くかっ飛ばされる事間違いなしのセリフを吐いた後、大きく振りかぶって自慢のストレートを放つ。

 直後彼はすぐさまバッターボックスに駆け寄った。万一ボールがバットに当たった時に即座に対処する為だ。……そう。まぐれが起こる事まで想定していた粗雑な造りの顔の割りに慎重派な彼は、残念ながら現在広がるこの光景を予測出来る程、想像力までは逞しくなかったようだ。

「…………ウソダ……」

 ピッチャーの表情の崩れは群を抜いて凄まじく、原型を留めぬ程の歪みっぷりで、茫然と少女の大きな碧眼を見つめている。

 少女がかっ飛ばした白球は遥か遠い空の青へと溶けてゆき――緩やかな弧を描いて、グラウンドの柵の外に広がる芝生に落下した。

 「闘魂」と書かれた銀のバットをその場に放ると、頭の上で二つに編んだ黄緑色の毛束を揺らしながら、少女は静まり返ったグラウンドをのんびり走ってゆく。

 少女の名はリタル・ヤード。

 その瞬間、誰もが彼女に意識を奪われていた。


 最終回に当たる六回裏。一点差でリタルが所属するレッドチームは負けていた。

 最後の攻撃――逆転のチャンスは下位打線に託された。

 しかし、市の野球部に所属している速球で有名なピッチャーのストレートを打ち返す力量を具えた者は下位打線には存在しない。大方の予想通りレッドチームは2アウト三塁と追い詰められてしまう。

 半ば絶望的な場面で、全身に力の入った最終打者がみんなの期待を薄い双肩に乗せてバッターボックスに立った。

 ここで、チームにとって予期せぬ出来事が起こる。

 案の定ストライク2まで追い詰められてしまった最終打者……八番が、なんと負傷してしまったのだ。

 負傷といっても空振りの挙句転倒してしまい、落としたメガネを自身で踏んづけてレンズに皹が入った……という位で、身体に異常はない。

 それでも八番――多量の髪のおかげで頭だけが異様にデカく見える、ひょろひょろ体型。天使と見紛う程薄い色素。ド近眼で有名な――リタル曰く「もやしマン」にとっては致命的とも言える「負傷」であった。

 もやしマンはバッターボックスに座り込んでしまい「もう出来ない」と号泣。困ったレッドチームの監督――ナカG氏が周りを見渡すも、こんな大事な場面で交代しようとする猛者は控え選手には居なかった。誰もが俯いて指名から逃れようとナカG氏から視線を逸らす始末である。

 困り果てたナカG氏は、唯一自分と目を合わせた小柄な生徒――病弱でこれまで一度たりとも球技大会……は愚か、体育の授業ですらろくに参加していなかった秀才と名高い女生徒、リタル・ヤードを打者に指名した。

 リタルは今回、何故か「今年は身体の調子が非常にいいんです」などと告げると、なんと自ら進んで代表メンバーに志願していた。

 かといって実力の解らない……大凡球技とは縁遠そうな小柄な「病弱少女」を、チームは代表メンバーに入れる訳にはいかなかった。それでも本人たっての希望で、リタルはこれまでずっとベンチを温め続けていたのである。

 ナカG氏の声に一言返事で了承したリタルは、持参してきた銀のバットを両手に持つと静々とバッターボックスに移動した。

 声援を送りながらもその頼りなさげな細背に誰もが絶望していた。

 なんせ、後、彼女の空振り一回で、チームの敗北が決まってしまうのだ。

 反対に相手チームからは割れんばかりの声援が、守りを固めている選手に投げられていた。

 ――それがどうだ。

 だぼだぼの真新しい体操服。ぶかぶかの赤帽子で小さな顔が半分程覆い隠されてしまっている。

 それでも健気に「むんっ」とかわいらしく意気込んで、見るからに重そうなバットを持ち構えたリタルは、キャッチャーがミットを構えた――その目前。誰もが息を呑む程綺麗なスイングで、その場に居た総ての人間の予想を振り払うかのように、向かってきた初球を豪快に打ち払った。

 逆転ホームランだ。

 一瞬……いや、ニ、三瞬遅れて、諦めモードが一転。赤帽子を被った総ての生徒――レッドチームから大歓声が迸った。

 割れんばかりの大歓声の中を、三塁ベースを踏みゆっくりとホームに向かって走るリタルはあくまでマイペースだった。




 グノーシス市の中心にあるアイオン教会は、世界的に有名な大教会である。

 グノーシス自体、プリムスという島国の中央に位置する都市だ。北に位置する大陸アルバから見ると、島の真ん中に教会の尖塔が幾つも突き出ていて、まるで島そのものが一つの教会であるような印象を受ける。

 設立十八年とまだ新しく、真っ白で繊細な造りの美しい建造物はまるで城並みの存在感を得ていた。

 アイオン教会はその広大な敷地内に、教会に設置するように世界フロース法で義務付けられている学習施設――アイオン学園を建てている。初等部と高等部それぞれに校舎が設けられ、運動場、体育館や図書室等の各施設や寮も完備。他にも歴史資料館や孤児院も併設されているというから、文句の付け所もないマンモス教会である。当然グノーシス市の観光案内にも載っており、それによると創始者は他所から来た大金持ちの女性だったそうだ。しかし、あくまで耳にするのは尾びれの付いた噂だけで、彼女の実体は不明。写真は愚かその名すらも謎で、教会案内にすら欠片も記されていない。一説によれば、創始者といっても金銭を工面し建築に関わった位で、協会長の座などは総て知り合いに譲ってしまった……とかなんとか。

 アイオン学園は、初等部は一学年から六学年、高等部は七学年から九学年。エスカレーター式に進級する事が出来て、施設も充実している。他国からはるばる入学試験を受けにグノーシスに入国する者も珍しくないのが現状である。

 しかし、従来の学園がそうある通り、アイオン学園はグノーシス市の学習施設だ。おかげで外部からの入園者の偏差値は天まで届く程高く、鬼ほど狭き門を潜り抜けて入った猛者しゅうさいなどと謳われ、必然的に学園内ではちょっとした英雄扱い、一目置かれる存在となる。かくゆうリタル・ヤードもその一人だ。自由な校風、その扱いにも満足しているが、成績優秀者に制服デザインに口を出す権限が与えられたらもう完璧なんだけどなとリタルは思う。彼女はアイオンの制服だけはどうしても好きにはなれなかった。有名デザイナーがデザインしたという制服は言ってしまえば僧服に近い。堅苦しいというか慎ましいというか。ゆったりとした上等な生地に質素なデザイン。はっきり言って、地味なのだ。

 制服着用が義務付けられているのは公式の場と、毎週日曜日の朝に教会で行われるミサに参加する時のみで、基本的に生徒は私服登校が許されている。ちなみに神父たんにんやシスターも僧服のようなデザインの上着(男性用と女性用、それぞれ二種類ある)を羽織れば下は何を着ても良いとされていた。アイオン学園卒で現在シスター見習いであるグレープ・コンセプトも規則に則って菫色の薄手のコートを着用して毎朝通勤している……というか、彼女の場合は日常でもそれを着用する事が多い。学園指定の地味なコートを気に入っているようである。

 自由な校風とリタルが称している通り、アイオン学園の規則は、他の学習施設のそれと比べると思わず「そんなんでいいの!?」と声を大にして問わずにはいられなくなる程に緩い。その反面、数少ない規則を違反してしまった者への処置は重い……というよりも、酷いと聞く。違反者は余程の理由が無い限りは大抵、問答無用で「島流し」――退学処分となってしまうそうだ。

 そんな、アイオン教会、学園、孤児院を統率する冬好きで有名な教会長曰く、「寒い時こそスポーツで身体を温めるのぢゃ」なんだそうで、この学園では毎年十二月の初めに球技大会が執り行われていた。

 「教会長が冬好き」と言う話は生徒達の噂によるものだ。言われる所以は勿論、教会長が冬生まれだからとか、今回の球技大会の開催時期、それだけでは断じてない。遠足、体育祭、教会祭、修学旅行、マラソン大会、etc.……通常は、四季折々、年間にバランス良く鏤められているこれら学習施設の年間行事が、このアイオン教会だけは例外で、それら総てが何故か冬に集中している。その理由が他ならぬ教会長の意向によるものだと言うのだから、噂は折り紙付きと言えるだろう。アイオン学園新聞で幾度も取り上げられ、取材の為に新聞部の生徒が幾度も教会長室を訪れている。が、教会長は断固としてこれを否定。教会行事の冬季集中の理由についても口を閉ざしているらしい。そんなこんなで、しまいにはアイオン学園の七不思議のひとつとして挙げられるようになってしまった。

 さて。本日はその寒中行事の一つ、球技大会である。

 種目は毎年各クラスで希望を募り、それを職員達が検討した結果で決まる。ちなみに去年はドッヂボール、一昨年はキックベースボールだったらしい。

 競技は別々だが、勝敗は初等部と高等部の勝ち点を合計した総合点で決まる。クラス別に、赤組レッド白組ホワイト青組ブルー黄組イエロー桃組ピンクと定めた、五チームによる組対抗の代表選抜戦である。

 ちなみに、低学年の生徒や代表に選ばれなかった生徒は「補欠」と称され、所属チームの応援に廻る。なんでも応援点という加算があるようで、各チームの応援にも相当な熱が入っていた。異様に豪華なプラカードや、校舎の窓から下げられた賑やかな団旗、チアガールやその衣装、競技に出る生徒に持たせるお守りなどは彼等の功績だ。

 勝利チームには毎年豪華賞品が贈呈される。去年は『半年間掃除パスカード(勝利チームの担当区域は最下位チームが担当する)』、一昨年は『半年間毎週日曜のミサに参加しなくても良いよ券』等、いずれも劣らぬお宝ばかりで、だから生徒達はこの球技大会に命をかけている……とはいかないまでも、相当意気込んでいる事が想像に容易い。

 例年球技大会は初等部よりも高等部の試合の方が長引く。初等部でレッドチームの優勝が確定したこの瞬間から、初等部校舎前のグラウンドから高等部の屋外バスケットボール試合会場グラウンドへ、徐々に応援組の生徒達が雪崩れていた――




 澄み切った青い空。急ぎ足で空を渡る白い雲。見上げればそこには、吸い込まれそうな鮮やかなコントラストが広がっていた。

 これで、地を賑わせるのが裸の木々だったり、はしゃぎ回る落ち葉や、辺りを木枯らしなんかが吹きすさんでいなければ、今日は確かに絶好のスポーツ日和と言えそうだった。

 保護者としてリタルの勇姿を見に来ていたトランは、仕事の合間を縫ってきたのか普段どおりの姿――古びたコートに着崩したスーツ姿で、フェンスに背をつけ腕組みしながら、轟く歓声に思いっきり表情を歪ませている少女を眺めていた。

 二週間程前、バットの握り方をリタルに教える際「めずらしいね。野球教えろだなんて」と訊いた事を思い出す。

 リタルは少し遠くを見て、

(すかっとしたかったのよね~)

 と、なんでもない事のように答えた。

 その時は言葉どおりに受け止め、気まぐれかと思っていたのだが……今思い返せば、遠くをぼうっと眺めるその瞳は少し影を帯びていたような気がする。

 トランは視線を教員席に移した。

 蒼い髪を後ろで縛った少女が笑っている。華奢な身体はいつもの菫色のコートではなく、某スポーツブランドの白いダウンコートを羽織っていた。少女はリタルの教室の副担任シスターであるグレープ・コンセプト。リタルに向かって一生懸命に何事かを叫んでいた。

 元気な様子を、ただ視界に入れ続ける。

 ――二週間前。

『……あのコは、天使でも、魔族でも……人間でも、ない。どの特徴にも該当しない。唯一、性質が似ているものがあるとすれば……。

 グレープ・コンセプト。あのコは……、……しいていうなら……魔石に近い存在なんだと思う』

 三号室――仕事部屋から漏れたリタルとリチウムの会話を、偶然ベランダに居た自分達は聞いてしまった。

 直後、見下ろしたグレープの横顔は……思っていたよりも穏やかで。触れる事、声をかける事すら躊躇ってしまう程に儚くて。その内、自分を振り返った彼女は「もどりましょう」と、いつもの笑顔で促した。

 何にも言ってやれなかった自分に、凍えた身体で微笑んでくれた。

 けれど……丁度その頃から、だったと思う。

 グレープは、異様に元気になった。

「リタルさんすごいです~!」

 同時に、グレープに変化が起こる。

 あらゆる石と相性が悪い為なのか、触れた石化製品を例外なく暴発、壊してしてしまう性質から「破壊魔」と称されていた彼女がなんと、石化製品を扱えるようになったのだ。

 ……まぁ勿論、全く暴走させる事が無くなったのかと訊かれれば、決してそういう訳ではない。だが、暴走するのは決まって彼女の感情が高ぶっている時だけで、それ以外の状況では普通に石化製品を使えるようになった。

 おかげで最近じゃ一人で大好きな家事をこなしている。キッチンから鼻歌が聞こえてきたり、笑顔を振りまきながら掃除をしたり。怯える周囲の様子とは裏腹に最近の彼女はそれまでの大人しい印象がナリを潜めて、元気溌剌としていた。

 ……そんな風にも、視てとれた。

「グレープ先生、怪我をした生徒の手当てに手間取っていまして……救護テントの方お願いしてもいいですか?」

「あ、はいっ すぐ行きます」

 あんな風に、誰かに用件を頼まれる事も増えてきたという。突然石化製品が扱えるようになった。これは、彼女にとって良い事なのだろう。

 だが……疑問だけが残る。

 それを、彼女が感じて不安になっていないとも限らない。

 それに。

 彼女が人間じゃないなんて本当に、そんな事があるのだろうか。

「……大丈夫ですか?」

 沈んだ様子が無くても。ああして、相手に対して微笑んでみせても。それは、周りに心配をかけさせまいと無理をして作られた産物ではないのか。

 だって以前の彼女ならば、その笑顔はまるで花が咲いたような、そんな鮮やかな印象を受けた。今の彼女のそれは――栞に施された押し花のようだ。

 「変化」といえば、自分達全員にも……彼女程ではないにしろ……起こっていた。

 あの事件の後。自分達は、何も変わらないかのようで、その実それぞれがどこか、変わっていた。

 昼間は爆睡するだけだったリチウムは、三号室――仕事部屋に篭る事が多くなった。いつ寝ているのかわからない。ひょっとしたら三号室でそのまま寝入ってるのかもしれないが。

 クレープは単独での外出が増え、家に居ることが少なくなった。

 リタルは、……リタルだけは、変わらないのかもしれない。だってあの聡明な少女は、知っていたのだ。知っていてそれなのに、あの小さな胸に秘めて……ずっと護っていた。グレープを。一味全員を。

 そして、自分。変化が無いとは決して言えない。

 例えば社会的地位。最悪な結末を覚悟しておいた方がよいかもしれない、そう覚悟を決めて数日振りに出勤した自分を待っていたのは、とある辞令だった。

 リタルが自分に齎した衝撃も、もう一つある。先の事件で使用した銀筒の事だ。リタルに訊いた所、先事件の際彼女から預かった銀の筒は『魔力の流れを止める石』で作られたもう一つの……試作品だったそうだ。あの形状はまだ未完成な状態だったらしい。さらに実験を重ね改良を加えて、将来的にはグレープに与える家事道具の一つになっていたという。まぁ、彼女はあの通り石化製品を使えるようになったので、結局銀筒はお蔵行きとなったそうだが。普通の人間にとってあの銀筒は、先の事件のような特殊な状況下でなければ実用性の無い、ただのガラクタだとリタルは言い切った。

 あの状況――街に『魔力の流れを止める』魔力が充満した状態で銀筒を使用すると、街に漂う魔力を銀筒自体が放つ『魔力の流れを止める』魔力が相殺する。

 自分があの状況下で銀筒を通し『炎帝』を発動させる事が出来たのはそういう理由だ……なんていう、なんだかよくわからない答えが返ってきて、目を瞬かせた。

 なら、上空から落下した自分達を助けたのはこれじゃないのか、と問う自分を見上げてリタルは「違う」と凛とした声で告げた。

 銀筒は、周辺に漂う他魔力を相殺する以外、脳が無い。そうきっぱりと言い切ったのだった――

 ……であるならば。あれは、一体、なんだったというのだろう。

「……トラン、さん?」

 と。

 視界――それも目前にいきなりルビーの双眼が現れたからたまらない。

「うわ!!」

 我ながら情けない声を上げて大きく仰け反ってしまった。

 だってこんなの……不意打ちではないか。

「す、すみません。驚かせるつもりはなかったのですが……」

 慌てて頭を下げるグレープ。

 肩よりも少し伸びた髪を後ろで一つに纏めているのは相変わらずであったが、今はだぼだぼのロングダウンコートにニットジャージを着ている。普段とはまるで違う雰囲気の少女が「心配」を全開にした面持ちでこちらの様子を窺っていた。

「あ、あぁ……こっちこそごめん。ちょっと考え事してたから……」

 女の子というものはどうしてこう、着る物で印象が変わるのだろう。彼女の新鮮な姿――その可愛らしさに圧倒されつつ、彼女から「心配」を取り除こうと必死で言葉を紡ぐ。

 『考え事』の言葉にピクリと小さく反応したグレープ。その様子に違和感を抱くよりも早く彼女は柔らかく微笑んでいた。

「今日はリタルさんの応援ですか?」

「……ああ。少し心配になってさ。大丈夫かなって様子見に来た。幾らリタルが器用だからって、教えたの俺だし。リタルが活躍できなかったらなんか申し訳ない」

「トランさんの教え方。とても丁寧で解りやすかったですよ?」

 不思議そうに自分を見上げると、グレープが小首を傾げる。

 その仕種が愛らしくて、視線を彼女から外しながらしどろもどろ答えた。

「べっ、別に普通だよ。そんなに時間取れなかったし……それに教え方ならシスターやってるグレープちゃんの方が……」

「そ、そんなことありません。シスターって言ってもわたしの場合ただの見習いですから……っ」

 今度はグレープが慌てる番だった。コートの袖から指先だけを覗かせた両手を胸の前で懸命に振る。

 思い返せば、二人で会話をすると何故かシドロモドロの言い合いになってしまう……そんな場面が少なくない。

 今や自分よりも慌てた様子の彼女に完全に毒気を抜かれてしまった。笑いながら、視点をグラウンドへ移動させる。

「ま。今回はリタルの器用さと運動神経に救われたってとこかな」

 ただっ広いグラウンドの隅では、ようやくホームベースを踏んだ黄緑色の髪の少女が仲間に揉みくちゃにされる場面が展開していた。

「リタルさん……大活躍ですね」

「あぁ」

「トランさんも嬉しそうです」

「え?」

 視線を戻すと、グレープが自分を見上げて穏やかに笑んでいた。

 暖かな微笑みは、見る者総てを癒す。

 が、同時に、少しギクっとした。「誰にも知られてはいけない事」を悟られてしまったのではないだろうか。

「グレープちゃん……」

 が、彼女は他意を滲ませることなく、ニコっと無邪気に笑った。

「今日は祝勝会ですねっ」

「……あ……」

「晩御飯、期待して待っていてくださいね。リタルさんがチームの打ち上げに出てる間に早めに帰らせてもらって、すぐに準備をはじめ……」

「――ごめん、グレープちゃん」

 遮る声にグレープが目を丸くした。

「いやその……今日、帰れそうにないんだ」

 思わず顔を背けてしまった。

 何も今日ばかりではない。最近は雑務処理に追われて、ホームで過ごす時間が徐々に減っていた。早朝に出て、帰宅は深夜。仕事を家に持ち込むことも増えた。ホームに居る人間と顔を合わせても挨拶程度しか言葉を交わしていない。こうしてリタルの元気な姿を眺める事も、グレープと面と向かって話をするのも至極久しぶりの事だ。

 察したグレープはおずおずと口を開く。 

「お仕事、ですか?」

「…………うん」

 一瞬の……なんとも言えぬ気まずい沈黙の後。

「あ、えと。気にしないでください、大丈夫です。今クレープさんも……連絡がとれなくて。ですから……はい。今度みなさんが揃った時に祝勝会をしましょう……っ リタルさんもきっと、その方が、喜んでくださいますよ」

 いつもと変わらない笑顔でグレープが見上げる。だが、それは聊か不自然な、作り顔である事が見て取れた。

 知り合ってからずっと。彼女の笑顔を見てきたのだ。気づくなという方が無理な話であった。そんな笑顔をさせてしまう事への申し訳なさと不甲斐無さと。苛む負の感情をなんとか押し殺して自分も彼女に笑ってみせた。

「……ありがとう」

「え」

「いつも。笑顔で居てくれて」

「…………」

 キョトンとした顔でグレープが自身を見た。

 が、それっきり。何も言えぬままグレープを見つめる。

 訪れた穏やかな沈黙。周囲の声が、騒音が、やけに遠く聞こえた。

「……グレープ、」

 意を決して口を開きかけたその時。不意に北方から強烈な冷気が襲った。

 一陣の風に彼女の華奢な身体が押された。支えるように側に立つ。仄かに漂う甘い香りが鼻孔をくすぐる。……このまま、彼女の細背を抱き寄せる事は容易に出来た。激しい衝動にも襲われた。が。下げている両手をぐっと握り締めて、自分はそれを、しなかった。

 寒そうに縮こまる彼女を見つめて口を開く。白い息が漏れる。

「……雪が、降るかも」

「本当ですか」

 嬉々とした彼女の表情。自分を見上げて、次にグレープは空を仰いだ。

 空は変わらず晴天だったが、確かに空の隅――低い位置にドス黒い厚雲が敷き詰められている。

「雪が降ったら、雪だるまを作りたいです」

 白い息を吐きながらグレープが空に呟いた。

「一人では寂しいでしょうから二人作って。マンションの入り口のところに飾るのです」

 自分も空を仰ぐ。

 広がる澄んだ青。しかし流れる雲は皆行き急いでいた。……そんなに急いで一体どこへ行くというのだろう。

「そうだね。作れるといい。……みんなで」

 自分の言葉に、一瞬遅れて、落ち着いた鈴声が返って来た。

「…………はい」

 想像した光景。齎した自分の言葉を大事に包み込むように、大切に。短い言葉に願いを込めるような、そんな呟きだった。




 グレープが職員に呼ばれて駆けて行く。

 おかげでトランはついに言いそびれてしまった。

 グレープの背を見送りながら溜息を零すのと同時に、トランのコートの内ポケットで何かが振動した。

「――はい」

 携帯から漏れる上司の声に顔色一つ変えずに、トランは短い会話を終えるとその場を離れた。

 最後に、もう一度、振り返る。

 普段以上に元気な素振りで動く、グレープ・コンセプトの笑顔が……どこか儚げに映った。

「……雪、か」

 呟いて、グレープの頭上に視線を移す。

 ――幾らでも降ればいい。

 他の色が差し込む隙間も無い程、一面を銀で染め上げればいい。

 そう思った。

 これから先。代わりに、彼女の笑顔を守ってくれるというならば。幾らでも。




 そんな彼の様子を上空から――高い木の枝に腰をかけた金髪の少女、クレープが眺めていた。

 彼女は今や、グレープの体に入れなくなってしまっていた。


 高等部の試合も終了し、球技大会はリタルのチームが優勝した。

 閉会式をを見届けてから、クレープはその場を飛び去った。


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