7
誰かの声がする。
――微かに。
遠くで。
……また。
誰かの悲鳴が聞こえる。
また、誰かが死んでしまうんだろうか。
また、誰かがいなくなってしまうのだろうか。
また。
誰かが消えて。
一人ぼっちになってしまうのか。
自分にとって、大切なものが。
――砕けて 無くなってしまうのか。
そんなの。もう。
たくさんだ。
この六年間。あたしは、お母さんを元の姿に戻すことばかりを考えて生きてきた。
だから、リチウムに付いて、魔石の知識を蓄えた。
調べられる所は散々調べてみたし。徹夜だって毎日のようにした。
副産物として、いらない知識ばかり詰め込んでしまったけれど。
それももう。――総ては水の泡。
一体、なんだったんだろう。
ついさっき。お母さんは消えてしまった。
お母さんを完全に、失ってしまった。
もう、どんなに頑張ったって二度と、得る事が出来ない。
あの笑顔。
どんなに頑張ったって、その先で待っていてくれはしないんだ。
あの、あたたかさ。
どんなに頑張ったって。一番に褒めて欲しい人は。
褒めてくれる人は、……もういない。
――けれど。
お母さんが、あたしに残してくれた唯一の希望が、まだある。
長い銀糸と、青い光。
……意地悪な神様は、それまでも、あたしから奪おうとするのか。
それさえあたしは、失くしてしまうのか。
――させない。
そんなことはもう
……させてたまるもんか――
暗闇の室内で。
強い意思が導くエメラルドの光線が、禍々しい天使の身体を背中から貫いていた。
「……なっ」
短い叫び。
刹那、狂気に満ちた天使の全身がエメラルドに包まれる。蛇のような金髪。折れ曲がった漆黒の翼。抉れた目元。瞬く間に、異形なる天使のシルエットはその場から強制的に掻き消されてしまった。
「…………!?」
唐突に起こった変化に反応し、トランとトピアがほぼ同時に、エメラルドの光が差した方向を凝視する。そこは――共有廊下。光を失くしたはずの少女が壁に凭れ力なく座り込んでいた。
それでも、少女が真っ直ぐに掲げているのは――その左腕。
闇を裂き、なおも煌々と輝き続ける『転位』の禁術封石だった。
「…………っ」
締め上げていた力が消え去り、その場に崩れ落ちるリチウム。
倒れる音が、室内に一際大きく響いた。
「…………」
状況を確認した後、トピアも空中に出来た歪みの向こうへと消えてゆく。
「…………待て……!」
トランが腕を伸ばした。が、一歩届かず。
その細腕を掠るまでにしか至らなかった。
紫の髪は、指先をすり抜けてしまう。
「…………」
最後にもう一度だけ、トランを振り返った少女の顔はやっぱり、ハッとする程彼女と瓜二つであった。
自分をただ見つめる、憂いを帯びた赤。しかし双眼の奥はどこまでも混沌に満ちて――
――空間の歪みが元に戻る。
何もなくなってしまった空間を前に、トランはその場に膝と手を着いて吼えた。
「――畜生……!!」
力なく横たわった男の下へ。黄緑色の髪の少女がたどたどしい足取りで歩み寄る。
結い上げていた髪は幾度となく襲った衝撃によりいつの間にかほどけ乱れていた。歩くたびに腰の辺りでふわふわと毛先が揺れる。エメラルドの瞳は未だ翳り、その表情はどこまでも無であった。
――それでも。
少女は、仰向けに倒れている男の元へ辿り着くと、倒れるようにその場に腰を下ろした。
リビングの床に広がった銀髪。重たく閉ざされた瞳。苦しげに歪んだままの顔。
男はピクリとも動かない。
「…………」
少女の口元が僅かに動いた。
息が漏れただけで、音は出ない。
小さな手を恐る恐る伸ばし、その指先が、やがて男の頬に触れる。
――冷たい。
「…………」
そうやって、また。
いなくなってしまうのか――
押し寄せる絶望に、しかし少女は表情を示さなかった。
やがて――
「…………っ」
男の身体が僅かに身じろぐ。
「…………」
少女の視界の中で、今。
薄っすらと、上瞼が開かれた。
「…………」
焦点の合わなかった青瞳は、やがて少女の姿を見つけると。
無表情の少女の頭に、ゆっくりと腕を伸ばした。
無遠慮に少女の頭を撫でる、骨張った――大きな手。
「…………ンな面、してんなや……」
懸命に笑みを作ると。
掠れた声で、そんな言葉を吐いた。
「……おまえみてぇな危ねーガキンチョ。俺様が置いていったりする訳ねーだろ……」
――一滴。
また一滴。
零れ、リチウムの頬を伝う。
少女の涙。
「……ウム……」
徐々に。
徐々に、徐々に。
少女の瞳に、光が戻る。
「~リチウムの…………っ」
声を上げて、少女は男の胸に蹲った。
「リチウムの…馬鹿ぁ…………っ!!」
「…………って、こらまて。誰が馬鹿だ誰が」
激しく泣きじゃくる小さな背を、ぽんぽんと優しく叩きながらリチウムは溜息を吐く。
状況は極めて最悪だった。
これまで以上に、訳の解らない事ばかりが唐突に巻き起こっただけでなく。
日常はとうとう、木っ端微塵に破壊されてしまった。
『魔眼』は消失し。
グレープは、何処の誰ともつかぬ女の元に連れて行かれ。
自分は……この通り異形な天使の、これまた訳の解らぬ力に敗北して、情けない事に今は立つ事すら出来ない状態だ。
――それでも。
それでも、戻ってきてくれた少女に。
手元に残る温かさに。
リチウムは、疲労交じりの微笑を浮かべた。
やがて、クレープを抱え、平常に戻ったトランも自身に歩み寄ってくる。
そう。
まだ、終わってはいない。