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6

 足元まで伸びたストレートの紫糸。鮮やかな髪色より数段濃い紫のローブをその少女は身に纏っていた。裾から伸びた細い脚線美にその瞬間、誰もが目を奪われる。

 長い睫毛に縁取られた可憐な赤の瞳は一同を視界に収めると、ゆっくりと閉ざされ――

「……」

 やがて降りてきた重力に、彼女は静かに身をまかせる。

 白い素足を隠すローブ。遅れて、ふわりと髪が床についた。

「…………おまえ、は……」

「…………!」

 場に降臨した少女の姿にリチウムが……、特にトランの身が硬直する。

 少女は、グレープに酷似した姿――その顔で、伏し目がちだった赤い瞳を再びゆっくりと開眼し、二人を見た。

「我が名はトピア。この世界、フロースの監視者だ」

 彼等が知っている彼女達のソレよりも低く響く、どこか印象的な音が室内に浸透する。

「監視……者?」

「ト……ピア……」

「トピア様。『人界の巨石』。確かに貴女の元へ」

 ファーレンがグレープの身体を差し出す。

 意識の無いグレープの姿を一瞥するとそれっきり彼女には興味を失くしたようで、トピアと名乗る紫の少女は再び正面へ視線を投げる。

 そこに黒髪の青年の姿を見つけると、

「…………トラン、か」

 固まったままの彼にトピアは柔らかく微笑みかける。

 少女が初めて浮かべた表情は……なんとも慈悲深く。衝撃を受ける程、それは、グレープそのものだった。

「後少し……だな。我は幾らでも待とう。おまえが、かつての約束を果たす瞬間ときを」

 その姿、その言葉に、トランは驚愕の表情を示す。

「……貴女は……まさか……!」

「トランちゃんに変な色目使わないで」

 刺々しい女の言葉に、一同が廊下を振り返る。

 いつの間に来ていたのか。場にクレープが姿を現していた。

 トピアとは対照的に、夜風を含み柔らかく揺蕩うのは神々しい程繊細な輝きを放つ金の髪。同じ造りの顔、同じ体型の彼女は光を失くしたリタルの頭上に浮かんで、ふてぶてしい態度で両腕を組み仁王立ちの体勢をとっている。

「クレープ……!」

「おまえ、その姿は……?!」

 驚きに声を上げたトランとリチウムには取り合わずに、正面の――紫の少女へと辛辣な眼光を放ち続けるクレープ。やがてトランを護るように廊下に降り立った彼女は、今。トピアと対峙した。

 交差する赤。

「…………ダヴィか」

 紫の髪がさらりと揺れた。

 トピアは目を細めて自身と同じ容姿の少女を見る。

「このまま逃げ堕ちるつもりなのかと思ったが。ようやく観念して我の前に姿を見せたか」

「人聞きの悪い。ボケーっとした面してるくせに、口が悪いのは相変わらずねアンタ」

 対するクレープの持つ強い赤は厳しく相手を貫き続ける。

「アタシは、ただ、アンタのやり方に疑問を持っただけよ。……さっきもそう。自分で『監視者』だなんて名乗ってたけど。アンタとっくの昔に『監視者』の枠、超えてンじゃない」

 吊り上げられた眉。真っ直ぐな瞳。責めるような口調に、しかし対峙した相手は平静のまま静かに言葉を紡ぐ。

「今のおまえに、我が責められるのか?」

「…………それでも。今のグレープは関係ないはずデショ」

「…………」

「如何いたしましょう。トピア様。もう用済みとは言え、万一の事もあります。念のため、彼女も捕らえておいた方がよろしいかと」

 トピアのすぐ後ろに控えていたファーレンの言葉に、それまで訳もわからずただ事の成り行きを見ていたリチウム達が即座に反応を示した。

 クレープの手を引き背後に隠すトラン。

 リチウムは死球を片手に身構える。

 そこで初めて死球を――次いでリチウムの姿を直視したトピアが、露骨に顔を顰めた。

「…………不愉快な」

「ソイツを置いて、とっとと帰れ」

 露骨に眉根を寄せる少女に対しリチウムは鋭い眼光を投げる。

 対峙する紫の少女、そのすぐ後ろに控えたファーレンに抱えられて意識を失ったまま強大な魔力を放ち続ける蒼い少女の姿が、青の視界の中央にいた。


 ――最近の彼女は、どこか変だった。

 今日も、ホームに帰ってきた彼女は、ただボーっとこの部屋のドアの前に立っていた。

 俯き、不安げな表情。伏し目がちの瞳。

 何を考えているのか、容易に想像出来た。

 守ってやらなくてはならない。

 彼女の異変に気づき、この三週間。皆がそれぞれに行動していた。

 守ってやらなくては……きっと誰もがそう思っていたに違いない。

 しかし。

 守られていたのは、果たしてどちらなんだろう。

 クレープが姿を見せなくなり。トランの昇進が決まって。リタルや自分が、一号室で寛ぐ事が無くなった。自身さえも、変わってゆく中。

 徐々に崩れゆく日常を前に、それでもたった一人で。普段どおりの笑顔を振りまこうと、彼女は不器用にも努力していた。

 どうしてだろう。

 先程見た、彼女の微笑みを思い出す。

 忙しくなっただけで、何も変わらない――自分がそう告げた時に久しぶりに零れたのは、彼女が持つ本来の笑顔だった。

 顔に出る程不安を抱いていた彼女が、それでも笑顔を絶やすことをしなかったのは。

 精一杯守っていたんじゃないだろうか。

 ――ここに居る誰よりも、守ろうとしていたんじゃないだろうか。

 このホームを。

 たったの四ヶ月間を共に過ごした。騒がしくも愉しい、かつての生活を。

「……とっととここから立ち去れ」

 リチウムが再び、怒りを噛み殺した低音を吐き出す。

 誰より、リチウムは自身に怒りを覚えていた。

 見ていたのに。

 あんなに近くで、頑なに守ろうとしていた彼女の様を見ていたはずなのに。

 例え、どんな事が起きたって。彼女が変わっていったって。日常を崩してはいけなかったのだ。

 それが彼女を不安にさせるのなら。どんなに守ろうとしたってその笑顔はゆがんでしまう。

 そうやって得た自己満足の平穏にはきっとなんの価値もない。意味なんてないのだ。

 過去に置き去りにした微笑(もの)は、二度と手に入れる事なんて出来ないのだから。

 永遠に、失われてしまうのだから。


「愚かな」

 リチウムの姿を見、トピアは低い声でぽつりと呟いた。

「こんな事になってしまったのは、一体誰のせいだと思っているのか」

「……ンだと?」

「確かに。厳密に言えばおまえは"奴"とは違うかもしれん。だが、グレープを惑わし、あらゆる者の運命を狂わせた"無"を継いだ貴様が今さら、何を護ろうというのか」

 整った眉目に深い皺を寄せ、不機嫌に言い放つトピア。

 と、ここでリチウムは、場の空気を乱す程大きく、長く息を吐いた。

「…………だからさ」

 こめかみを押さえ、苛々しげにリチウムは呟く。

 残念ながら、自分は後ろで構えているトランのような優しい人間ではない。

 一方的に投げつけられる女のヒステリーに、いつまでも付き合ってやれる程気の長い男ではないのだ。

「……訳わかんねぇ事いつまでもくっちゃべってねぇで、ソイツ返せっつってんだよ……!」

 言い終わらぬ内に、獣染みた速さでリチウムが疾走した。

 トピアが居る位置まで、たったの三歩。

 手にした死球を躊躇無く目前の少女に放とうと、左手を掲げて――

 ――その動きを、止められる。

「…………っ」

「懲りない方ですね。貴方も」

 闇が迫ろうとも微動だにしなかったトピアの傍らで、溜息をついた天使の双眼が鈍く光を放っている。

「ぐ…………っ」

「リチウム!」

 叫んでトランが駆け寄る。

 リチウムは今にも動き出しそうな体勢で顔を顰めたまま静止していた。ギリっと奥歯の鳴る音が聞こえた気がした。

「大体、貴方。彼女に攻撃するという意味を理解しているのですか? 彼女はですね……」

「――よい。ここにはもう用が無い。不愉快になるだけだ」

「…………わかりました。では、参りましょう。トピア様」

 僅かな躊躇を見せたファーレンが応じるとそれにこっくりと頷き、トピアはリビングの向こうの割れた窓ガラスに向かって踵を返した。


 濃いローブの下から白い素足が見え隠れする。

 前進する程に強くなる、凍て付くような冷たさを含んだ雪交じりの夜風が少女の髪を攫う。サラサラ、サラサラ。長い紫は軽やかに舞った。

「――サバオート」

 重苦しい空を、己がままに行き交う風の怨念のような恐ろしげな声が響く中、室内で紡がれた女の低い声。

 刹那。紫の少女と天使の目前の空間が歪んだ。

 空間操作……立ち去る気か。

 ――彼女を連れて。

「…………っ」

 自然、足が動いた。

「トランちゃんっ」

 廊下を疾走しリビングに躍り出たトラン。制止の声を上げたクレープも止むを得ず男の後に続いた。

 厳しい漆黒の瞳に、空間を越えようとしていた二人が振り返る。

 彼等が目したものは、自分達を追いかけてきた男の全身を激しく通う炎の魔力だった。

「……裏切るのか」

 グレープそっくりの顔――ルビーを思わせる赤い瞳が、トランの心を抉る。

「裏切るのか。過去、その心魂を救ってやった相手を」

「アンタね……!」

 クレープの抗議の声を、腕を上げて制止するトラン。

「……俺は確かにあの時、あんたに命を救われた。約束も護るつもりだ。だけど――」

「…………」

「彼女は、返してくれ」

「……トランちゃん」

「――それは出来ない」

 黒い瞳を、無表情で直視するトピア。

「だったら……力ずくで取り戻すまでだ」

 意思の篭った真っ直ぐな視線を向けられ、少女は僅かに俯くとフッと笑みを漏らす。

「…………。……そうか。おまえは、我に歯向かうか」

 顔に掛かる紫の髪の隙間から垣間見れる表情――それはどこか、自嘲じみた微笑だった。

 トランが疑問に思うよりも早く、ファーレンが彼女の前に出た。

 その腕の中で力なく横たわる少女の姿。

「グレープちゃん……!」

「幾ら呼びかけても無駄です。貴方方の声は彼女にはもう届きません。と言いますか。当分の間、グレープさんの意識は戻らないと思いますよ」

「どういうことだ!」

「長い間纏わりついていた魔力まがんが消失した事で突如、グレープさんの身は外界に晒されました。もっと簡単に言えば、人界との間に人工的に創られていた隔たり――魔力の壁が取り払われたばかりなのです。その上『魔眼』が消失したあの瞬間、グレープさんは、知らぬ内に体内で行われていた循環作用を初めて実感したものと思われます」

「循環……作用……?」

「ええ。それまで『魔眼』という障壁がろ過していた事で、無自覚の内に行えていた『巨石の魔力の循環』を唐突に自覚したものと思われます」

「巨石の魔力の循環……だって?」

 鸚鵡返しに問うトランに頷いてみせるファーレン。

「グレープさんは人界の巨石ですから」

「…………!」

 衝撃を受ける様子に笑みながらファーレンは続ける。

「『魔眼』消失の瞬間からグレープさんは、一空間を充たす程に流れ出でてしまう、体内じしんの魔力の莫大な喪失感に襲われると同時に、人界に満ちていた魔力が自身へと還って来る、これまた莫大な飽和状態に見舞われたのです。可哀想に。彼女の精神状態に関係なく、魔力は彼女の体内で勝手に循環を繰り返す。それは呼吸のように。膨大な魔力が還り、再び出て行き、戻ってきて……それぞれの極端過ぎる感覚の暴力に、慣れる間すら与えてもらえず、延々とそれは続く。その衝撃は甚大。当然耐え切れるはずもなく、彼女はこの通り失神してしまった。それが今の状態でしょう。恐らく今現在、現状になんとか適応しようと彼女の内でなんらかの変化が起こっているものと思われます。自身の魔力を操作し得るまで……いえ、自身の状態が安定するまで、彼女が目覚める事は無いでしょう」

「……あんたね。よくもぬけぬけと……っ」

 淡々と述べるファーレンを、クレープが睨み付ける。

「そのコが倒れた理由、そのコが受けたモノは、それだけじゃないでしょーが……っ!」

「さぁ。私はこれ以上の事は何も聞かされていないものですから。さっぱりです。なんでしたら、貴女の口から説明してあげたらどうですか? 『クレープ』さん」

「――この……っ」

「長い話はもういいって……っ リチウムじゃないけど、訳わかんないっての……っ!」

 歯噛みしたトランが左腕を前方に……何かを振り払うように猛々しく伸ばした。

「訳も解らないのに、我々を攻撃しようとするのですか? トラン」

「解ろうと解るまいと……俺が今、やらなきゃならない事は変わらないだろ! 今起きる事がないのなら、側で彼女が苦しみから覚めるのを待つだけだ!」

 反応し赤く光る指輪。同時に漆黒の瞳に灯る赤の光。

「トランちゃん……っ」

「…………」

 クレープが憂慮な面持ちでその光を――また、トピアが恍惚とした表情で見つめているのをしかし、光の主は気づかない。

 程なくして発動した炎帝はトランの肉体を一瞬で包み込んだ。特に指輪を嵌めている方の手――その左腕には大量の炎が纏わり付く。意識を集中させると炎は掌に集まり棒状の……バット大きさに伸びた。

 トランは炎火のバットをしっかりと握り締める。先の事件での魔族との戦いで得た感覚、これはその産物だった。

 ここは室内――ホームだ。万一にもホームを破壊する事があってはならない。もし修復不可能なまでにホームが全壊してしまったら……ふいに、先ほど目にしたリタルの無の表情が浮かんだ。身が竦む。

 それに、恐らくこの場には、先の事件と同じ空間操作の魔力を操る魔族の存在もある。となると幾ら炎帝を放ったところで前回同様、別の空間に放り出されるだけで相手に届く事はない。リタルに聞いた話では、リチウムはこの状況下で直接相手の身体に手を付けた上での零距離発動で対峙した魔族を倒したという。宙を舞うファーレン――彼の持つ魔力を考えても、彼の身体に触れる事は難しいだろうがバット状の物ならばリーチが伸び、可能性も増えるだろう。

 そして何より、この形状は扱いやすい。

「……よいのですか」

 ファーレンは品定めするようにトランを見下ろしている。

「先ほども忠告しましたが。今一度貴方に告げておきます。私に手を出せば、私の権限で貴方をクビにする事も出来るのですよ」

「構わない」

 低い声でトランは吐いた。即答したその早さから迷いの無さが窺える。

「元から、そんなものに興味はないんだ」

「…………」

「決めたんだ。……過去を見る事も、この先(みらい)を気にする事ももう止めるって」

「…………」

「この身体は、六年前からその子の物かもしれない。だけど受け渡すのは……今じゃない。先の話だ。だから俺にはもう『今』しか無い。だったら今、確かに存在している内は……終わるまでは。俺は誰よりも先ず彼女を――護る!」

 吼えて、トランがファーレンに突っ込んだ。

 自身に向かって一直線に。単調な動きを追うファーレンの瞳が鈍く光る。

 トランの身体が、ファーレンの呪縛にかかる寸前、

「させない!!」

 叫んだクレープが飛び、その細腕――人差し指をファーレンに突きつけた。

「~出なさい! 『蜘蛛魔族の魔力』!」

「…………な!」

 金色に光るクレープの体。

 白い指先から飛び出した無数の極細糸がファーレンに絡みつく!

「厄介な……まだそんな力が残って……っ」

「たぁあああああ!!!」

 糸に塗れたファーレンへ突っ込むトラン。

 振り上げた炎火のバットを、しかしファーレンは後方にひらりと跳んで交わす。

「……トピア様。彼女を」

 トピアにグレープを預けると自身は背の二対を大きく広げた。闇に浮かぶ純白が舞う。一仰ぎが猛烈な暴風を生み、飛び掛るトランの身体を吹き飛ばす。

「…………ぐ!!」

 リビングの床に背を打ち付けるトラン。

 そこへ――

「てめぇは大人しくお空に帰って掃除でもしてろや!!」

 入れ替わりに前へ出た――呪縛の解かれたリチウムが手にしていた死球を放つ。

 今にも天使を呑み込まんと、恐るべき速度で迫る無の球。

 が、しかし。

「――――」

 ファーレンに向かって直進していたはずの無は突如。不自然なまでに大きく軌道を変えた。

「な……に!?」

 無は窓の外に広がる夜闇に吸い込まれるように姿を消す。

「……ンな……バカな……」

 ファーレンの魔力は糸によって封じられている。

 その羽から風が生み出された訳でもない。

 自身が軌道修正を念じた訳でも無論、無い。

 とすると、『死球』が独りでに軌道を変えた、と言う事になるのだが……。

「ですから無駄ですと告げたのに」

 リチウムの驚愕の表情に呆れたように首を振るファーレン。

「~だったら、こうするまでよ!」

 宙に浮いていたクレープがリチウムの頭に金色に光る両手を押し付けた。

「……は!?」

「『転位の魔力』!」

 クレープの声と共にリチウムの全身を包むエメラルドの光。

 これは、リタルの――

「……く……っ」

 ――次の瞬間、ファーレンの声がやけに間近に聞こえた。目前にある金の瞳。足場が無い。自分は今……落下しているのか?

 自覚すると同時に、自分が宙に浮いているファーレンの真正面に瞬間移動した事をリチウムは理解した。

「……このムチャクチャ女が……!」

 悪態づくと同時に恐るべき反射神経で右腕を伸ばしなんとか片翼の根元を掴んでぶら下がる。

 突如重りが付いた事でファーレンは大きく体勢を崩した。

「――なんという事を……!」

 振り払おうと強引に翼を動かす――その前に、リチウムは歯を食いしばって左腕を伸ばしファーレンの顔面……こめかみ辺りを掴んだ。

 続けざまに行う意識集中に要する時間は、一瞬。

「な…………!!」

 視界を塞がれたファーレンが上ずった声を上げた。ファーレンの身体と共に落下する――直前、リチウムが叫んだ。

死球デスボール!!』

 魔石が、辺りの夜闇より濃い黒を放ち――ファーレンの顔面で、無が暴発する。

「…………っ!!」

 大きく仰け反るファーレン。激しい抵抗に今度こそ極細の糸と共にリチウムの身体も振り払われた。床に背中を強かに打ち付ける。肺が勝手に空気を吐き出す。

「…………ぐぅ……っ」


 その間に、体勢を立て直したトランはグレープの身体を抱いたトピアの元へ疾走していた。

 トピアは逃げもせずにただ自分が来るのを待ち構えている。

 その細腕が抱きしめているのは全く同じ体格をした蒼い髪の少女。

「彼女を離してくれ」

 燃え盛る炎を従えた赤い瞳の男が、トピアに対峙する。

「…………トラン」

「俺……、みんなには、彼女が必要なんだ」

「……おまえには必要ない」

「…………っ」

 冷たく言い放つトピアに、

「おまえには、グレープは必要ない。それは、勘違いだ」

 ビクっと、トランが震えた。

 炎火を纏ったトランの身にトピアが片手を翳す。

 白い掌に宿る――紫光の球。

「トランちゃん!!」

 叫んで、トランの前に飛び出したクレープの身体が、爆発じみた風圧に吹き飛ばされた。

「クレープ!!」

「…………!」

 彼女の背を受け止めるも勢いは止まらず、折り重なった二人はリビングの壁に叩き付けられる。

 再びトランを襲う激痛。肺が収縮する。

「…………!!」

「――おまえには、現在も……ましてや過去も要らぬ」

 冷たい赤の瞳が、崩れた二人の身体を無感情に見つめていた。


 トピアの背後にファーレンが、よろめきながらもなんとか着地する。

 震える手で、顔面を押さえながら。

「~リチウム!!」

 トピアと背中合わせに立った自身へと走り寄るリチウムの気配に、ファーレンが、吼えた。

 それはなんともドス黒い、憎悪に塗れたおと

 耳にした、その瞬間、

「…………っ」

 リチウムの身体を――莫大な圧迫感が襲った。

「――な…………!」

 先ほどの呪縛では断じてない。全身が圧迫されている。

 頭が、胴体が、腕が、腰が、足が。上から左右から下から。中心へ向かって、あらゆる方向から身体が、押し潰される。

 ギリギリぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり……

「…………っ!!」

 激しい痛みで息も出来ない。それはまるで巨人の掌の中。その腕力で握り潰されるような感覚だった。

 リチウムは今成す術も無く、圧倒的な力で肉体を圧縮されていた。

「……よくも私の瞳を…………っ」

 俯き顔面を押さえたまま、ファーレンが底から怨念のこえを上げる。


「……つぅ……っ」

 再び開かれたトランの瞳は普段のいろだった。

 崩れたクレープの身体をその場に寝かせて、なんとかトランが立ち上がろうとする。そこへ。

「…………っ」

 紫の柔らかい絹糸が、彼の頬を擽った。

「…………」

 気配すらしなかった。

 一体いつからそこにいたのか。

「……トラン」

 背筋の凍る程冷たい夜風が、紫のカーテンを揺らしている。

 隙間からのぞく目前の赤は真っ直ぐにトランを見つめていた。

 ひどく整ったそれは人形のような、小さく可憐な顔。

 感情の無い大きな瞳。

 力なく座り込んだ自身を、少女はただ視界に入れている。

「…………」

 ――この光景はまるで、あの刻の再現。

 やがて彼女が、自分に差し出す……その手に握られた物だけが違った。

「『安らかな眠りを』」

 そっと開かれた掌には、赤い天石――ではなく、紫の粉。

「…………っ」

 瞬間、紫の塵が辺りに散乱する。

 紫に触れた炎帝が光を失う。

 急激に重たくなる瞼。それでもトランは、全力で抵抗する。

 ここで眠ってしまえば、待っているのは恐らく絶望と喪失感だけだ。

「……案ずる事はない。トラン」

 目前に在る少女の瞳は、焦がれた色そのものだった。

「おまえはいずれ、グレープに会う」

 同じ顔。同じ白さ。華奢な腕……頬を撫でる、細い指先。

「勿論、ダヴィにもだ」

 髪の色を除けば、自身の胸を揺さぶる少女と、何もかもが同じなのに。

「その時、おまえは自身の願いどおり、我等を護る役目を授かるだろう」

 決定的に、何かが違う。

 それは――

「……違う形で」

 感情の有無。

「…………っ」

 舌を噛んだ。

 噛み千切らんとばかりに、思い切り噛み締めた。

 鮮烈な痛みと鉄の味が広がり、徐々に意識が覚醒してくる。

「勘違い……なんかじゃない」

 口端から伝う細い赤。気づいたトピアは僅かに目を見開いた。

「トラン」

「……いずれ、じゃ、駄目だ」

 ゆっくりと、トランはその場に立ち上がった。

 上がる息。僅かにふら付く身体を、床を踏みしめる両足でなんとか支える。

「……違う形でも、駄目なんだ……っ」

 鮮血が、滴り落ちる。

「俺は、……今! このからだで、彼女を護りたい……っ」

 瞬間。暗い室内に赤光が満ちた。

「…………!」

 猛々しく吼えた男の全身を赤光――いや、赤が覆う。

 温かいそれは瞳を、その髪をも同色に染め上げた。

 漲る赤い魔力が肉体を包むと、今ある痛み総てを消し去ってゆく。

 呼吸が、ゆっくりと、整ってゆく――

「…………おまえ……」

 呆然と見上げている少女の胸元に手を伸ばし。

 赤にその身を包まれたトランは今、グレープの身体を――抱き寄せようとした。

 その手は、僅かに届かなかった。

「…………!?」

 男の視界から、グレープの身体が一瞬で消失する。

 未だ呆然としたまま、それでも視点を虚空に移すと、ポツリとトピアが呟いた。

「サバオート……か」


 ギリギリギリギリギりぎりぎりぎりギリギリギリギリギリギリ……

「~ぐぐ……ぅ」

「……やはり貴様は、奴の"無"を受け継いでいるばかりではなく、その禍々しさをも持ち合わせている……」

 肉体を極限まで締め上げられるリチウム。

 狂気を纏ったファーレンの姿は今、変貌していた。

 金髪を一つに縛っていた紐はいつしか千切れ、放たれたその毛は体内を迸る魔力で蛇のように宙を揺らめいていた。

 天使の象徴たる純白の翼はいつしか暗黒の異形なソレへと変容している。

 漆黒の十二の翼。

 金の光を帯びたその姿の、なんと禍々しい事か。

「このまま……無に帰すがいい……っ」

 底から搾り出すように暗い声を吐き出すと、リチウムの全身にさらなる力が襲いかかった。

 悲鳴を上げる骨。締め上げる力が、その強度を越える――

 ギチギチギチギチギチギチギチギチギチギチ――

「あああああああああああああああああああああ……!!!」

 全身の骨が砕ける寸前リチウムの上げた断末魔に、その場に居た全員が注目する。

 正面に居たファーレンが男の死を確信して口角を上げた。

 刹那。

 暗がりの室内――その一角から差し込んだエメラルドの閃光が、

「……!?」

 今、ファーレンを貫いた。

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