3
「…………どうして?」
両手を伸ばせば指先が、壁に沿って両脇に設置された背の高い金属製の棚に届く程狭い室内。薄暗く埃っぽい部屋の中で、トランとクレープは向き合っていた。
頭上の蛍光灯の青白い光に照らされた困惑に満ちた男の表情を、威厳を放つ強い赤の瞳が見上げる。
両者の間に長いようで短い沈黙が流れた。
「何があっても……って」
口火を切ったのはトランの方だ。
人懐っこい黒の瞳が、自分を見つめている。
「……一体何が、あるって言うんだよ……?」
「…………」
三週間前に、ソレが定まってから今日まで。まともに顔を合わせる機会が無かった気がする。
……いや。自ら機会を、意図的に避け続けてきた。
そして今。こうして、久しぶりにトランの姿を正面から間近で直視している。
クレープは、はっきりと実感する。
その瞳。その顔。その肉体や、その声も。その総てが、どうしようもなく。
自分はこの男が――好きだ。
「おまえの言っている事はわかる。けど、理由が解らない。解らなければ、俺は何も答えられない」
「…………」
「教えてくれ。クレープ。おまえは何を、……どこまで、知ってるんだ」
懇願するような目。
クレープは感情の伴わない赤でその姿を見ていた。
――そう。あくまで感情は出さない。
この男にだけは、見せてはならない。そうしなければ、自身の感情にこそ溺れてしまう。
「ごめんトランちゃん。今、時間、本当に無いんだ。説明してる暇なんてもう、無いの。アタシは行かなきゃ」
俯き伏し目がちの表情でポツリポツリと言葉を落とす。
「……ケド、これだけは言っとく。トランちゃんが『炎帝』を持っている理由。ソレを持ち続ける理由。こんな所にまで来た理由。今ここに、生きている理由。"アタシ"は、ゼンブ知ってる」
トランの身体が僅かに揺れた。
見上げれば、その目は大きく見開かれていた。青い顔。頬を流れる一筋の汗。動揺の色が滲んだ黒の……中心に、赤が灯る無表情の顔が在る。
「トランちゃん。識っていても、アタシは言う。炎帝をこれ以上使っちゃダメ」
「……クレープ」
「トランちゃんが果たさなければならない約束なんて、どこにも無い。無いのよ。……だって。アレは……っ」
そこまで口にすると、クレープは一旦言葉を切った。
抑えていても溢れ出てしまう感情を、なんとかせき止める。
「……あれは、避けられない事故。――そう、事故だったの。衝突した当人等、それに……招いた者が責任を負うべきなの。トランちゃんが背負う必要なんてない」
「クレープ、それは……」
「違わない。トランちゃんは……アナタは単なる被害者だもの。それに、そもそも生き物っていうのはね。生きて存在する為に最善を尽くす生命なの。出来る総てを出し尽くしてそれでもなお存続しようと足掻き続ける。それが生きると言う事。総ての生き物が等しく請け負う義務よ。――ねぇ。トランちゃんはちゃんと覚えているはずデショ? あの時。アナタは必死で、手に届く距離に在った藁を掴んだ。助かりたいと願う大勢の生き物の声をも背負って……ソレを手にした。それにアナタは、掴むべくして掴んだの。ソレは最初から、アナタにしか扱えない藁だったから。……それだけの、話。アナタがした事は、たったそれだけの話よ」
「…………」
「だから藁を差し伸べた者がその時、どんなふざけた事をくっちゃべろうが要求しようが、そんな事「生き物の義務」を前にして提示すべきものじゃない。ゼンブ無効よ」
「…………」
「あの夜たくさんの人間が……多くの生命が絶たれた。その中でトランちゃんはあの夜死ぬ運命だったはずの生命をソノ力で助けた。それはアナタの意思。『今』を手繰り寄せたのはトランちゃん自身デショ? ならば義務が生じる。トランちゃんは今ちゃんと生きてここに存在しているのだから」
「…………」
「自らが救った生命に対しても、責任が生じている。彼女の為にトランちゃんにしか出来ない事はたくさんあるはず。それ等を果たす為にも、これからも存在し続けなさい。……いいえ。己が望む場所に。望むがままに。存在てもいいの。トランちゃんは」
淡々と告げる自分を、トランはただ、見つめていた。
困った顔のまま、それでも静かに聴いていた。
変わらぬ、色。
「……それは」
やがて、男の唇が僅かに動く。
「…………」
この時ばかりは、彼の真っ直ぐな瞳に絶望を覚えた。
――やはり。
「それは、出来ないんだ。どうしても」
やはり……そうなのか……?
「確かに覚えている。最近、よく夢でも見るんだ。あの時、彼女と約束をした。だから今の俺が在る。本来俺は存在していないはずの人間なんだ」
そうなって、
「それに『炎帝』は彼女の物だ。あの夜大勢を救ったのは、彼女の存在。もっと言えば……この『炎帝』なんだよ。俺じゃない」
しまうのか。
「だから……クレープが言ってくれる事はすごくありがたいけど。コレは、彼女の物だよ」
三週間――いや、この十ヶ月間を経て、ようやく至った事実。いつの間にか躙り寄って来ていた闇に染められた視界。その中心から響く男の声は諭すようにゆっくりと、優しく……告げる。
その重い響きに、泣きたくなった。
一体どこまで解っていて、この男はそう口にしているのだろう。
眩む、程に。男の主張はどこまでも真っ直ぐで……全く、正しかった。
……まるで自分が、駄々をこねるガキンチョのような気がした。
どこまでも頑なな男。
運命に忠実な男。
だからこそ、アナタは生まれてからずっと。
この道を真っ直ぐ、歩んできた。
「…………っ」
…………でも。
「――トランちゃんは、あのコが好きなんデショ!?」
「…………!」
眉根を寄せて激昂する。
黒瞳を見開いたトランが、正面のクレープの――激しく燃え上がる赤を見た。
……嫌だ。
「あのコの事が好きなら! ちゃんと根性入れて守ンなさいよ!」
嫌だ。
「トラン・クイロとして、これからも守り続けなさい!」
嫌だ。
させない。
「大体トランちゃんてばいつもいつも――情けなさ過ぎなのよ……っ」
……絶対に、させない。
強いてでも。
真っ直ぐなこの男を、捻じ曲げてでも。
「過去とあのコと、どっちが大事なの!?」
アタシはこの道を引き返させる。
「…………クレープ」
トランの……妙に落ち着ききった声に。
ヒステリックに叫びながら、ボロボロと涙を流している自分に、ようやく気づいた。
「…………っ」
……ああ、もう。ホント。
情けないったらありゃしない。
あまりの失態に、がっくりと項垂れて……。
「……あのコが、危ないの……っ」
とうとう、吐き出してしまった。
「…………」
「リチウムはアイツには絶対に勝てない」
――言葉は溢れて、
「……アタシじゃもう……」
想いは頬を伝って、
「護れないの」
冷たい床に、吸い込まれるように落ちてゆく。
「ホントはアタシ。これ以上トランちゃんに炎帝を使って欲しくない。でも……」
てんてんと、なんの力も無く、
「使わせようとしてるの……」
弾けて、消えゆく――
「…………」
この男を前にすると、自分はいつもこうだ。
ぽろっと言葉が、飛び出してしまう。
どこまでも無様になってしまう。
――人間に。成り下がってしまう。
「……グレープが危なくても、アタシが頼んでも、それでも。トランちゃんに、拒否してほしかったのに……」
支離滅裂だ。
こんなの、――最低だ。
俯いたまま、溢れる涙が床に落ちるのを見る。
雫がぽとぽとと、コンクリートを濡らした。
これは自分達の問題。
だから最初から、自分達で解決しなければならなかった。
……事態に気づいてからというもの。ここ三週間、一人で三空間を渡り歩いて総てを把握した。
状況は思っていたよりも大分――不利だった。
このままいけば、グレープも消される。
世界に混乱が満ちる。そして、殺戮の時代が蘇る。
――いや。
そんな事はいい。一番我慢ならないのは。
この真っ直ぐな男が、散々自分達に利用された挙句に消えて無くなってしまう事なのだ。
「…………っ」
こんな、泣いていたら、トランは絶対に、自分の頼みごとを聞いてしまう。
止まらない。どうしよう。
泣いていたら、この男に、感情を見せたら――
「クレープ」
――いけないのに。
凍えた身体を包む、暖かな感触。
一瞬、総てを見失う程の、心地よさ。
トランはクレープの細背を抱き寄せる。
首元にかかる息が、
「ありがとうな」
一言。そう呟いた。
「……馬鹿トランちゃん」
重い扉が閉ざされる音。
一人残されたクレープは、身体を包むコートを自身ごと抱き寄せる。
トランの匂いと、優しい余韻。
「…………馬鹿クレープ」
――本当ならば。
自分は彼らに、頼み事一つする事も許されなかった。
アイツの事はいえない。
自分だってこれまで、彼らを利用してきたのだから。
『招いた者』なのだから。