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初めて会った時の事を、いまでも覚えている。
……といっても、ほんの一部だけだけど。
物心ついた頃からあたしは懸命に髪を伸ばしていた。
でも、あたしが欲しいのは、こんな真っ黒じゃない。
もっとふんわりした……艶やかな緑色の髪の毛だ。
あたしは神様にお願いした。毎晩寝る前に胸の前で両手を組んだ。来る日も来る日も来る日も。いつかきっと願いは神様に届く。そう、確信を持って。
だけど。神様があたしにくれたのは、赤い地獄だった。
四つの時。たくさんの大きな窓と温かな配色が自慢の家が、お兄ちゃんたちと駆け回った緑豊かな街並みが――ううん。町そのものが世界から姿を消した。
実際、見る影も無かった。何もかもが色を無くし、何もかもが崩れ落ち、いつも鮮やかに広がっていた青い空でさえ、死んだようにくすんでいた。現実にした時の、それでもどこか信じられない現実。たった一夜が齎した惨い有様が本当に奇妙で目が逸らせなかった。
家族とは離れ離れ――どころか。もうこの世にはいないだろうと、誰かが話していたのを聞いた。
お母さんもあの夜。あたしを庇ってしまったが為に、"こんな姿"になってしまった。
本当に、実にあっけなく、あたしの世界は絶えてしまった。
その後あたしを引き取ってくれた親戚の叔母さんは初対面から好意的ではなかった。
あたしの事をあまり好きではなかったみたいだ。
その日も"お母さん"を眺めていたあたしに、叔母さんは背後から飛び上がるような大声をかけた。「リタルちゃんの髪は、お母さんみたいにずるずる長いのね」
あたしは懸命に首を振る。あたしの髪は黒だ。お母さんのとは違う。お母さんのはちっとも、ずるずるじゃない。
見上げれば、とても嫌な感じの視線。いつものように、何か我慢できない位汚い物を見るような目で叔母さんはあたしを見下ろしている。
自分でも「ずるずるの髪」はどうしても気に入らなかったし、叔母さんがあたしに向ける厳しい黒と同じ色をした目も愛せなかった。お父さんや叔母さん達の髪と目は黒だったから、どうやらそっちを受け継いでしまったらしい。
お父さんはがっかりしてしまうだろうけど、あたしは昔からお母さんに憧れていた。
強くて、元気で。優しくて、凛々しい。綺麗なお母さん。
「お母さん」になりたくて、あたしは「弱虫で泣き虫なあたし」を捨てたのだ。
……なのに。
そうまでしたのに、どうして神様はお母さんと同じにしてくれないのか。あたしの世界を壊しておいて、こんな小さな願いも叶えてくれないのか。
あたしは神様を恨んでいた。当然不服だった。
叔母さんは、何も口にしていないのにあたしのお願い事がわかったのか、「お母さんみたいな派手な頭にしてあげようか」とネチネチとした笑顔を浮かべた。
いつまでも無視をし続ける神様に訴え続けていても仕方が無いから、当てになりそうにないその申し出に頷いた。途端、髪を掴まれては抜けてしまうのではないかと思う程物凄い力で引っ張り上げられた。奇妙な笑顔を浮かべると叔母さんはあたしを洗面所へと引きずっていく――
――この時。あたしはさらに髪を伸ばす事を決めた。
何度切られたって。みんなが許してくれなくったって。伸ばし続けようと。そう誓った。
間も無く。周りの大人達が煩い程騒ぎ出して。
全身を調べられては同情と憐れみの視線を散々浴びせられたあたしは、叔母さんの家から遠く離れた孤児院という施設に預けられる事になった。
ようやく、引っ張れば一番長い毛先が腰まで届くようになった、そんな時。
まるで頑張ったご褒美であったかのように。
その男はひょっこりと、あたしの前に姿を現したのだ。
あたしはもう、何をするにも億劫になっていた。
誰かと口を利く事は愚か、"お母さん"以外の何かを視界に入れるのも面倒で。孤児院では、ずっと地面ばかりみていた。
晴れて。雲がそよいで。どんよりと重たく固まって。雨が降って。嵐が来て。
山が色づいて、雪が降って、花が咲いて――
――世界がどんな色をしていようともう、どうでもよかった。
ここに、黒く崩れ落ちてしまった『あたしの世界』を知る人はいない。
この世界には、もう誰も居ない。何も無い。
だけど。あたしはお母さんの子なんだから、きっと大丈夫。乗り越えられる。毎晩布団の中で続けていた「神様へのお願い」はいつしか、呪文のような言葉に変化していた。
あたしは、お母さんの子なんだから。他の子みたいに泣いたりしないの。
あたしはお母さんみたいに強いから。誰かに嫌われたって、平気。
あたしは強いから、何があったって大丈夫。一人でも大丈夫。
誰の力も必要としない。
……一人でだって、なんでも上手くやってみせる。立派に生きてみせる。
そうすれば、きっと――
そうやって。あたしはどんどん強くなっていって。
反対に。目に映る物はどんどん色を失っていって。
長過ぎる一日を、夢が降りてこない夜を、やっとの思いで越えてきたというのに。
突然現れたその男はいとも簡単に、あたしが一人で築き上げた灰色の世界をぶち壊してしまったのだ。
「――おまえ。母ちゃん似だな」
第一声は、確かこんな感じ。
「母ちゃん似」だなんて。そんなことを言ってくれる人はもうどこにもいなかったから、少しだけ吃驚した。
と同時に、怒れてきた。
一体どこが「母ちゃん似」なんだ。
こんなに真っ黒なのに。
唐突に空から降って来た……やけに耳に残る流麗な声に反感を覚えて、あたしはその男を見上げた。
――この時。本当に久しぶりに、空を仰いだんだと思う。
眩い青があまりにも痛くて、一度瞼をぎゅっと瞑って……。
恐る恐る瞼を開けると、そこには、一際鮮やかに光る二つの青いビー玉があった。
否。それは男の目だ。
鋭利で、強い。
それは空よりも鮮やかな、青――
「…………」
この時。
なんで、目から涙が零れたのか。解らなかった。
――あたしが、怠惰になっている時でも。世界はちゃんと息をしていて。
崩壊してしまったはずの『あたしの世界』は、ちゃんと色を取り戻して、ただそこに在った。
在り続けていた。
恨み言を言うだけだったあたしに、気づかせる為に。
……いや、もう恨み言なんて聞きたくなかったのか。
だから神様は、あたしを、この男に会わせてくれたんだろう。
その時は、本気でそう思った。
……だけど。
違ってたんだ。
「――いくぞ」
よく晴れた月夜を背に。銀の長い髪をさらさらと靡かせて。
青い瞳はあたしを振り返った。
目の前に差し出された、大きくて骨張った手。
出発の空は確か、満月だったと思う。
見上げた夜は賑やかで。満天の星達は、男の背後で懸命に瞬いていた。まるで、この男の姿を讃えるかのように。
あたしは、右手に"お母さん"を握り締めて。
左手で……昼間に会ったばかりの――まだよく知らない男の、意外と温かな手をとった。
なんでかって?
だって。……ねぇ、お母さん。
すごくない?
あたし、あの頃から気づいていたんだよ。
この男と引き会わせたのは、神様なんかじゃ決してないって。
っていうか、どこまでもあたしに意地悪な神様が、あたしに何かをしてくれることはないんだから。
そう考えると、答えは一つだったんだ。
……ね。お母さん。
お母さんは、決してあたしを嫌いになった訳じゃないんだよね。
だって。この男を、ここまで連れてきてくれたのは。
あたしに会わせてくれたのは。他の誰でもない。
お母さんだったんだから……。