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閉店時間が近いのか。
数名の客が順を追って店を出て行く中。窓際の席で悠然と構えた美麗な天使が語り出した。
リタルにとって幸いだったのは、あの不気味な金の瞳が、眼鏡の反射で見えなくなっていた事か。
「私はWSP所属の警察官であると同時に、お上直属の配下でもあります。その際お上に頂いた名をヘルファーレン。貴女方との付き合いは……人界時間で大凡二年になりますか」
一ヶ月前。
蜘蛛型魔族――アドーナイオスをリチウム達に嗾けたのはファーレンだった。
結果アドーナイオスは倒されたのだが、リチウム達の勝利はファーレンの予見の範疇。彼の目的は他にあった。事件後リチウムに告げた『魔族側の動きを探る為』などでは断じてない。自身の主『天界の巨石』の話から、彼は既に魔界の動きを把握していたのである。
ファーレンは以前から、人界に在るという『人界の巨石』を探していた。
四ヶ月前――リチウムと共に居た少女の姿を初めて目にした時からファーレンは、その特異な体質と容貌からグレープ・コンセプトこそ『人界の巨石』ではないかと疑っていた。
が、強大な魔力を持つ『天界の巨石』である主とは比べるまでもなく、グレープの身体からは魔力は全く感知されなかった。ファーレンから見てもグレープはただの人間であった。
しかし他に疑わしい存在も無い。ファーレンは確証を得る為に行動を開始する。
グレープの正体を探る為、彼女とその周囲に居るリチウム達の記憶を覗こうと、彼らを捕獲する術を持つアドーナイオスを唆しリチウム一味に嗾けた……それこそが、一ヶ月前の事件の真相だった。
果たして成果はあった。
ファーレンはこの時初めて"クレープ"という存在を知ったのだ。
ファーレンは彼らの記憶に在したクレープという半透明の女性に注目した。彼女もグレープとそっくりの容姿を持ち、しかも普段は心魂のみの状態という、大変珍しい存在である。
しかも、追い詰められたクレープが、グレープの身体を借り発動させた魔力は『増幅』――これは『人界の巨石』の力であった。
ファーレンは直ちにこの件を主に報告する。グレープとクレープ。二人の存在が浮き彫りとなり、この時からグレープを捉え調査を行う計画が進行していた。
彼女が本当に『人界の巨石』だったとして。何故その膨大な魔力が感知されないのか。
「……ここから先は総て、お上から伺った話となります。私はその頃別の命を受け、行動していたものですから」
三週間前。
狼人型魔族――イャオーが、鷹人型魔族――サバオートの魔力を用いて人界侵入を試みたあの日。主はグレープを捉える事に成功した。しかし、魔界に連れてこられた時グレープは酷い怪我を負い意識を喪失していた。構わず、主は傷ついた身体からグレープの心魂を取り出し、その状態を視、直接触れる事で彼女の正体を確信する。
その後グレープの心魂は『魔界の巨石』の内部に入れられた。巨石は瞬く間にグレープの身体を形成し、彼女の新しい器となった。
しかし新しい器に心魂が完全に定着するには、グレープの覚醒と、少しの時間が必要だった。故に不安定な状態の彼女をサバオートに見張らせた。
目覚めたグレープはついにその力の片鱗を見せ、魔界に来ていたリチウム、リタルと合流を果たす。その後リチウムがイャオーを倒し、グレープは彼らと共に再び人界へ戻って、今日に至るまで日常生活を送っていた――
「こうして、『新しい器』が彼女の体となってから丁度三週間――お上が、彼女の心魂が完全に器に定着する頃合と告げた時間が、こうして無事に経過したと。そういう訳です」
雪の降る街。店長の姿さえいつの間にか消えてしまっていた。無人の喫茶店の一席で、天使が少女に真実を突きつける。
リタルは驚愕に歪んだ表情で、それでも事態を把握しようと思考をフル回転させていた。
では三週間前から続いていたグレープの変化――髪が伸びたり魔力の暴走が収まったり――は『人間の身体』から、魔界の巨石によって創りだされた『新しい器』なる身体に移し変えられた為起こった現象だというのか。
いや。それはおかしい。グレープの体は元から異常だった。むしろ以前の彼女の体の方が『作り物』で、現在の体が『人間の身体』であるように感じる。
何か、釈然としない。
そもそも、グレープ・コンセプトとはどういう存在なのか。
見た目は人間だ。
中身も……人間。グレープは十七年前から孤児院に居たという。彼女の思考、記憶は人間そのものだ。確かに『増幅』の能力を持ってはいるが、日常ではその魔力は欠片も感じられない。
本当にグレープこそが『人界の巨石』であると言うのであれば創世後、世界の総ての記録を覚えているはずだ。しかし、グレープの記憶は人間としての十七年間しかない。では彼女は一体……。
グレープの事以外にも疑問が残る。『魔界の巨石』というのは確か、死んでしまった魔族や天使の魔力の結晶にもう一度生命を与える事が出来るという……「復活の力」を持つ石だったはずだ。しかしファーレンの話が真実だとすると『魔界の巨石』は自分が考えていたものとは微妙に異なる。『魔界の巨石』はグレープの身体の傷を治した訳ではない。一から似たような身体を造ってみせたのだ。
「復活」ではなく、「生成」の力を持つとでもいうのか。
しかし、グレープは魔界で「傷を回復してもらった」と話していた。……これではまるで話が噛み合わないではないか。
さらにこうなると、今更ではあるがクレープの存在も気に掛かる。彼女は何故、あの状態で人界――グレープの側に在るのか。一体何がしたかったのだろう。
そもそも、世界を創世したと言われる『巨石』と言うものはどんな存在なのだろう。
「真実に辿り着こうと幾ら考えを巡らせたところで所詮、無駄ですよ」
真相を語り終えた後、それでも普段と変わらぬ慇懃無礼な笑みを浮かべたまま、リタルの様子を眺めているファーレン。
「貴女は私とは違う。対である貴女は、ただ本能が備わっているだけの存在。しかも、人間である貴女にはそれすら機能しない。貴女は"対としても"出来損ないの存在なのです。彼女も、貴女が自身の対であるという事実に気づいていたはず。しかし、それ故に彼女は貴女に何もしなかったし、告げなかったのでしょう。――無意味ですから」
ファーレンは愚かだと言わんばかりに笑った。
「…………つい……?」
意味の解らない単語に、思考を止めたリタルが顔を上げる。
瞬間、彼女の背筋に戦慄が走った。エメラルドの瞳が捉えたのはなんとも毒々しい鮮やかな微笑――それはリタルが始めて目にしたファーレンの真の笑顔だった。
「貴女は知らなくてもよい事です」
一頻り肩を揺らして笑った後、金は硬直しきった少女の右手で輝く魔石を映す。
「……しかし。彼女にはしてやられましたね」
言って僅かに身を乗り出したファーレン。警戒し身を強張らせたリタルの細腕を掴むや否や、乱暴に自分の元まで引き寄せた。
「……あ……っ」
体ごと引かれテーブルに乗り上げる。衝撃に小さな声を上げると男の口元が怪しく歪んだ。
「……生前の、その名を知っていますよ」
囁き声に瞳を見開き、弾かれたように男を見る。
蒼白の表情に対し優雅な微笑を浮かべた天使は、静かに立ち上がった。
畳んでいた二対の白を音も無く広げると、リタルの手首を掴んだまま僅かに宙に浮く。
「……ちょ……っ」
捉えた右手を魔石ごと、ぎりぎりと圧迫しながら無遠慮に宙へ引き上げていく。
「……っ」
あどけなさの残る顔が苦痛に歪む。
その表情を慈悲深い面持ちで見つめながら、天使はゆっくりと、小さな子供に言い聞かせるような声色で少女に告げた。
「彼女の名は、ソフィア」
足で引っ掛けたのか、テーブルの上の何かがその時、派手な音を立てて床に転がった。
衝撃と痛覚と混乱で満ちた頭の中にファーレンの場違いなまでに穏やかな声がじんわりと浸透していく。
「その姿は女神のように艶やかな……」
抵抗の意が生じるよりも先に――
「……碧色の髪と瞳を持つ、人型魔族です」
――強大な疑問が、リタルを支配した。
「…………な、んで」
少女の小さな肢体は今や、慈悲ぶかき笑みを浮かべる天使の手によって宙吊りになっていた。
「なんで……あんたが、知って…………っ」
乾いた唇で震える声を紡ぐ。
リタルを吊り上げている腕を僅かに下げ目線の高さを合わせると、その寸前まで優しげな光を放っていた金の瞳は瞬間、厭らしく歪んだ。
「人界で彼女が名乗っていたのは、ソフィア・フォルツェンド……でしたっけ? 確か、人間と結婚して以後は姓が変わったとの事でしたが……残念。忘れてしまいました。一度聞いたきりでしたので」
「――答えなさいよ潔癖天使! なんであんたがそんな事まで知って……!」
「それから。彼女には二人の子供がいたそうです」
「……!」
「名前は…………なんでしたっけ。いえ、最近物忘れがひどくて。思い出せない事柄が在るというのは、大変気持ちが悪いものです」
そこまで口にすると突如、ファーレンはリタルの身体を自身に引き寄せた。
掴み上げていた右腕はそのままに、もう片方の腕で少女の背を抱き、顔を近づける。
「…………!?」
がしゃんと、床に散るカップの破片。飛び散って血のように広がる黒い液体に――もう湯気は無い。
互いの息がかかる程の至近距離。何故か瞳を逸らせない。恐怖で歪んだ深いエメラルドのさらに奥を覗くように、ファーレンは無慈悲な視線を送り続ける。
大きく仰け反った背を支える腕。全身に滲む嫌悪感。目前で光る凶悪な金が脳裏に焼きついてゆく……。
気づけば。内におぞましい何かが侵入していた。
ねっとりとしたそれは体中を這いずりまわる。足、腕、背、首、頭、思考……細部に至るまで――舐めるように。
「…………っ」
感じた事も無い激しい悪寒。身の毛のよだつ感覚に襲われ――総てを囚われた少女は、天使の腕の中で一度大きく身を震わせた。
が、動かせたのは本当にもう、それきりだった。
(……リチウム)
「教えていただけますか? リタル・ヤード……いえ。リタル・ピスティスヤードさん。博識な貴女なら、ご存知ですよね?」