春賀祐希
『わかってもらえた? 原因はあんたのほうにあるのよ。私は元に戻りたいわけ。でないと……完全に元に戻れなくなる』
「え?」
『精神は肉体の影響を受けるわ。男に産まれたあんたが男たらしめているのは何? それはあんたが男の体で産まれ、男として育ったからよ。あんたがそのまま女として生きれば、あんたの心は女になる。環境が人を作るの。だからこのまま入れ替わったままだと、あんたの心は女の私そのものになり、私の心は男のあんたそのものになってしまう』
「それはわかってるよ。もう、色々影響は出てる……。たぶんこのままだと、オレはお前になる……。でも、オレだって、元に戻りたいよ! このままなんて、オレも嫌なんだ! それなのに、どうしてだよ」
『……もしかしたら、原因はあんたの深層心理に眠っているのかもしれないわね。無意識の内に。それこそ、幼いころのトラウマとか。性欲なんかじゃない、もっと根源的な何かが』
「オレの……トラウマ? それって、何だよ?」
『私は確かにあんただけど、あんた自身じゃない。わからないわ。けど……あんたをずっと近くで見てきた人なら知ってるんじゃない? 幼馴染の女の子、とかさ』
「真子、か。そうだな、一度相談してみるよ。真子をここに連れてくれば、お前にも会わせてやれるし」
『残念だけれど、他人には私は見えないわよ? 同位体であるあんたにしか存在を知覚できないの。だから、このやりとりも一人芝居をする可哀そうなパーフェクト美少女の図ってわけ。中二病美少女も需要あるけどね』
需要とかいうのやめろよな。どんだけ自分Loveなんだよ。
「そっか。わかった。とにかく、真子に相談してみるよ。また後でな」
『待って』
走り出したオレだったが、すぐに呼び止められて出鼻をくじかれた。
「なんだよ? まだ何かあんのか?」
『あんた……その、せ……じゃない。えっと。お、おん、お、おの!」
鏡の中のオレは顔を真っ赤にしながら、何かを絞り出そうとがんばって息を吸い込んだ。
「何言ってんだ、おまえ?」
『……女の子の日は、まだ?』
「は? あ、あたりまえだろ! オレは男なんだ! そんなもんがあるか!!」
鏡の中のオレはハア、と深く息を吐くと、頭を押さえながら膝を付いていた。
『あんた、春賀祐希のくせにアホなの? ああ、認めたくないだけね、これは。あのね? その体は女なのよ? あるに決まってんでしょ』
「え」
『さっき言ったでしょが。環境が人を作るって。おそらく、次にその日が来たらあんたの精神は完全に女になるわ。それまでにこの問題を解決できないと……あんたはそのままその体で生きて行くことになる。急ぎなさいよ』
「あ、ああ」
オレに……女の子の日だって!? やめてくれよ! そんなの絶対嫌だ。そんなの経験したら、間違いなく自分が女であることを深く自覚して……オレは、女になっちまう。時間なんて、あるようでないじゃないか。さっさと真子のとこに行って、何か解決の糸口をつかみとらないと!
「ふうん。やっぱりそうだったか」
「え? やっぱりって。どういうことだよ?」
真子の家について早々に事態を説明すると、真子は納得した様子でオレの顔をまじまじと見た。
「今朝、ゆうちゃんが元に戻れなかったときに並行世界のゆうちゃんが拒否ってる可能性と、ゆうちゃん自身が無意識的に拒否ってる可能性の2つが思い浮かんだけれど……やっぱ、後者だったかあ」
「お前、何か知ってるのか?」
「うん」
「教えてくれ。オレ、何かあったのか? 小さいころの記憶なんて、ほとんど覚えてねーよ!」
「ゆうちゃんは、ゆうちゃんのお母さんのこと、覚えてる?」
「ああ。そりゃな。優しくて、なんでも教えてくれる自慢の母親だったよ」
真子は瞳を閉じると、なつかしそうに微笑んだ。
「うん。私にも優しくって大好きなおばさんだった。大人になったら、こんなお母さんになりたいなーって、思った」
今を想えば少しマザコン気味だったかもしれないし、何年も前の記憶なので美化されてしまっているかもしれないが、オレは母さんが大好きだった。まあ、小学生の低学年ならまだそんなもんだと思いたいが。
「ゆうちゃんは、3人兄弟でお母さんもたいへんだったから、ゆうちゃんはよくお母さんのお手伝いしたよね?」
「ああ。それでオレ、家事ができるようになったんだ。でも、それが関係あるのか?」
「うん。思い出して、ゆうちゃん。それはゆうちゃんにとってとても悲しいことだから……私の口からは言えないよ。ゆうちゃんが、自分で思い出さなくちゃいけないことなんだよ」
「オレが……悲しい? なんだよ、それ。そんなこと、あったか?」
「私、今でも覚えてるよ。あのときのゆうちゃんを。ヒントはだせないけど……お母さんのお手伝いをしていたころを、振りかえってみて? そこに答えはあるはずだから」
「わかった……」
オレは真子に別れを告げると、自宅のキッチンの前でしばらく考え込んだ。時計を見ると、もうすぐ午後4時になる。そろそろ晩御飯の支度を始めないといけない。兄貴や弟、親父の分の食事を作って、洗濯をして……それから……。
全部、母さんに教わったんだっけな。そうすれば……母さんが喜んでくれるからな。
「そうか……そういや、そうだったな」
オレが家事を進んで手伝った理由は、簡単だった。3人兄弟で一番母さんに可愛がられたかったから。ただ、それだけ。やはり兄弟が3人もいると、母さんは特に末っ子である弟にかかりきりになる。
兄貴の性格はあれだったが、勉強もスポーツもなんでもできたし、弟も聞き分けが良くて優しいいい子だった。けど、オレはすべてが平凡で何一つ取り柄がない。そんなオレに唯一できることは、母さんの手伝いだったんだ。
母さんにほめられたい。独り占めしたいっていう子供の独占欲があったけど、オレは本心から家事が好きになったし、母さんを楽させてあげたかった。うちは女兄弟がいないから、オレが代わりになればと思ったんだ。
そんで確か、小4の夏だったかな。あれは。
「ねえ、おかあさん。ぼく、クッキー焼いてみたいなー。おかあさんの焼いてくれたクッキー、すごくおいしいもん!」
「そう。じゃあ、今度の日曜日に材料買って作りましょうね。ゆうちゃんがお手伝いしてくれておかあさん助かるわ」
母さんはクッキーとかケーキとかのお菓子作りが得意な人だった。真子のお母さんと子供のころよく一緒に作っていたそうだ。
そして、クラスの女子に買い物の帰りに言われた一言が最初だった。
「春賀くんって、よくお手伝いしてえらいよねー」
「うん。今度ね、お母さんとクッキー焼くんだ」
「えー? 男の子がクッキー焼くの? 女の子みたいでおかしいー、あはは!」
「おかしくないよ!」
オレにとって、それは少なからずショックなセリフだった。けど相手も子供。オレをバカにしたり傷つけたりする意図はなかったんだと思う。
だからその時は、それ以上深く考えないことにした。けどまたある時。クッキーが焼き上がって、上機嫌だった母さんにオレは言われた。言われてしまったんだ。
『ゆうちゃんが女の子だったらよかったのにねー』
母のその一言は、何気ない一言だったかもしれないし、本音だったのかもしれない。
けれど、10歳に満たないオレの心には、カミソリよりも鋭く、針よりも細く、ガラスよりももろい繊細な心をえぐりとった。
ぼくが女の子のほうがよかったの? じゃあ、男の子のぼくはいらない子なの、おかあさん?
その一言はまさに存在の否定で、子供にとって一番に存在を認めて欲しい存在である母親の口から言われたことに、オレはこの上ない絶望に駆られた。
その時オレが、冗談で笑い返してあげればよかったかもしれない。それとも子供心にしたがって、泣いてしまってもよかったのかもしれない。
でも、オレは母に嫌われたくない一心で、何も言えなかった。母の本心を知らずに、そのままその日は口を聞かなかった。
そして、その翌日……母さんと真子の母さんは事故で帰らぬ人となった。
「そう……だった。オレは、オレが女に産まれていればって……思ったんだ。そうすれば、母さんが喜んでくれるならって……」
自然、ぽつりぽつりと熱い涙がオレの瞳からあふれ出した。
『そんなことないよ、ゆうちゃんは母さんにとって大事な子供なんだよ』。そう、訂正してほしかったけど、それはもうできないんだ。
じゃあ、今の女になったオレを見て、母さんは喜んでくれるのだろうか……。
「そうだ。母さんのお墓に行けば……」
いや、いってどうなるってんだ? 行ったところで何もなりやしない。例え望む姿を手に入れたとしても、それを認めてくれる相手はもうすでにこの世にはいないんだ。
「そうか。結局、男のオレも。女のあいつも同じなんじゃねーかよ……」
少し、いや。完全に並行世界の女のオレの気持ちが理解できた。体をすげかえたところで世界の仕組みが変わるわけでもない。運命を変えられるのは神様だけ、か。
そりゃ、そうだ。
「でも、これで元に戻れる……けど……」
オレはオレの無意識の願いを知ることができた。が、同時に迷いも生じていた。これが母の望むオレの姿ならば……という思いと、すでに死んだ母の言葉を引きずることの虚しさで揺れている。
「どうしたら、いいんだよ……」
考えながら歩き出す。リビングを行ったり来たり、二階と一階を下りたり上がったり。そして靴に履き替え、オレは外に出た。
外の空気を吸えば、少しは考えもまとまるはず。そう期待したものの、考えはまとまらない。いや、考えても仕方がないことなのかもしれない。
「あの! そこのあなた! 救急車を呼んでくれませんか!? お願いします!」
「え?」
ふと呼び止められ、声のしたほうを見ると、大学生くらいの眼鏡をかけた女の子がオレに手を振っていた。いや、あの揺れる正義は……キルトさん!
「産まれそうなんです! 赤ちゃん!」
「ええ!?」
キルトさんがいつの間にか妊娠!? あいてはどこのどいつだこのヤロー! あの巨大な正義を汚した愚者に神聖なる裁きを! と思ったら、妊娠したのはキルトさんではなく、隣にいた女性だった。
「私の義理の姉なんです。私、携帯家に置いてきちゃってて! お願いです! スマホ、貸してもらえませんか?」
ああ、そういやキルトさんってお兄さんが二人いるって言ってたな。じゃあ、兄嫁ってわけか。
「もちろん、どうぞ」
キルトさんにスマホを貸すと、彼女はすぐさま119番して救急車を呼んだ。ほどなくして救急車が到着すると、産気づいた女性が担架で運ばれ、キルトさんも乗り込む。
「さあ、妹さんも!」
「へ? オレはちが――」
なんか知らんうちに救急隊員に引っ張られ、救急車に同乗するオレ。となりではひっひーふー。と、ラマーズ法の合唱が始まっており、これから何が始まるのか想像はできたが、妊婦さんの苦しそうな顔を見て目を背けたくなった。
女って、偉いんだなあ。あんな痛そうなのに……オレだったら、絶対嫌だな。あんな痛そうな思いをしてまで、子供産みたいとは思えない。
「あなたも一緒に!」
「げ! オレも?」
しかもオレまでひっひふーをやる羽目になってしまった。今更この空気の中、関係ないので降ろしてくださいとも言えず、救急車は病院に到着してしまう。
その後、何がどうなったのかよく覚えていない。まさしく修羅場という空間でオレは何をするでもなくただただ、分娩室の前で妊婦さんの苦痛にもがく声と悲鳴に近い叫びに耐えていた。
正直、オレがこの場にいる理由なんてなかったんだ。でも、知的好奇心とかじゃなく、知りたいと思った。命が生まれる瞬間と、母は何を想って苦痛に耐えてまで新しい命を産み出そうとするのかを。
それから何時間か経って……夜明けが近づいたころだった。
唐突に声が聞こえた。まさしく、命の声。産まれたことに対する喜びとも、まだ見ぬこの世界に対する恐れともつかない命の声が。
「産まれたんだ……やったあ!」
「やりましたね!」
気付くとオレはキルトさんと抱きしめ合っていた。き、キルトさんの体柔らかい、このままおっぱいもんでやろうかという思いはどこか遠くへ、まるで自分の子供が産まれたみたいに嬉しくてしかたがなかった。
「ごめんなさい。私も正直、何がなんだか混乱してしまって……ただスマホを借りるだけのつもりが、ここまで付き合わせてしまって」
「いえ、いいんです。なんだかすごく貴重な経験をさせてもらいましたから」
名前も知らないまったくの他人の子供なのに、オレはなぜか万感の思いで涙を流していた。ただ、嬉しかった。理由なんてない。新しい命が産まれたことは、それだけで喜ばしいことだからだ。
「産まれたのは、男の子みたいです。私、叔母さんになるんですね……」
こんないい乳した叔母さんをもつ甥っ子が羨ましいという思いはどこか遠くへ、オレは人が生まれるのをこんなにも喜んでくれる人がいるんだと、初めて実感した。
親はもちろん、祖父母に親戚、担当の助産師さん……人は、祝福されて産まれてくるんだ。きっとオレも……産まれた日、こんなふうにみんなが喜んでくれたんだろうな。
「私もいつか、好きになった人の赤ちゃんを産みたい。そう、思っちゃいますね。相手は現在募集中ですけれど」
キルトさんはうれし涙で眼鏡を濡らしながらそう微笑んだ。
キルトさんのおっぱいをすう子供羨ましという思いはどこか遠くへ、オレはワンピースに包まれた自分自身の下半身を見て思った。
母さんは、どんなに苦しい思いをしてオレを産んでくれたのか。そしてもし、オレがこの身に命を宿し、産んだ自分の子をどう思うか。
自分の子がどんな姿だろうと、どんな罪を犯そうとも、守ってあげられるのは命を懸けて産んだ母親以外にない。息子だろうと娘だろうと、自分の血をわけた大事な我が子なんだ。
だから、オレは……母さんに否定なんてされてない。あの日の言葉がどうであれ、母さんはオレを産んで育て、大事にしてくれた。
それだけで、十分じゃないか。
「キルトさん。オレ、帰ります。ありがとうございました!」
「はい。本当にありがとうございま……え!? どうして私のRSO2のキャラ名知ってるんです!?」
キルトさんが何か言っていたが、オレは家に帰ることにした。そして、自分に戻ろう。オレはオレの中の答えを見つけることができた。
病院を出たころには始発も出る時間だったが、タクシーを拾うことにした。中で寝れるし。
そして、家に帰って自分の部屋の姿見を前にして深く息を吸い込む。
「ようオレ」
『掲示板のレスみたいなあいさつやめてくれない? で、あんたの問題は解決できたの?』
「ああ。オレ、戻るよ」
『そ。ま、今回のことは元を正せば私が悪いんだし……まあ、謝っとくわ。ごめんね』
鏡の中のオレはめちゃくちゃ不服そうに頭をさげてきた。
「いや、別にいいし。オレもいろいろと貴重な経験させてもらったよ」
『私もね。あ、それと……真子のこと、守ってあげてね。不幸にしたら、絶対に許さないから』
「わかってるよ。元に戻ったら、オレ。真子と付き合うって約束してるんだ。絶対にあいつを幸せにするから」
『うん。お願い……私の世界の真子の分も幸せになってほしい。それじゃあ、戻りましょう』
鏡の中のオレは、右の手のひらをこちらに向けてくる。オレもそこに手を合わせようとして――やめた。
『ちょっと?』
「あ、ごめん。やり忘れたことあった。まだ、女の体で一度もヤってないんだよなあ。一回くらい、いいんだろ?」
『はあ!? あんた、ぶち殺されたいの? さっさと元に戻るわよ、この変態私!』
鏡の中のオレが本気でブチ切れたので、オレはさっさと手のひらを合わせて願った。
春賀祐希は、男として生きていきます、と。




