7 ルージュ
返り血で染まったシャツの上にジャケットを着て、僕は入ってきた扉を開けた。
すると、背後のデッキに何者かの気配を感じた。
見てみると、ルミナスが落ちたルビーを拾っている。
ルビーが本物なのかということより先に、ルミナスへの猜疑心が頭を埋め尽くした。
こいつが、まさか怪盗フレグランスの正体。
僕はとっさに壁に隠れ、彼の二時間後の未来を見た。
そこで視界に映ったのは僕だった。
二時間後、彼は僕と話している。
しかも僕の様子からして、知っている人物だ。
すぐに彼の声を聞いた僕は、彼の正体を知った。
二時間後のルミナスの視界を体験した僕はただ驚愕した。
しばらく、ルミナスは突っ立っていた。
「死んだのか」
彼は声には出さなかったが、何と言っていたかは口の動きを見て分かった。
そしてルミナスはルビーをラムダとイリアが飛び込んだ海に投げ捨てた。
それがまた、僕の思考を混乱させた。
怪盗フレグランスも、S級祓魔師も、僕を完全に凌駕していたのだ。
それから船が違法の貿易港に泊まったのはすぐだった。
僕は血だらけの服を替えてから、人目を盗んで船を降りた。
どこを通れば船の連中に見つからないかは、未来を読めばすぐに分かることだ。
降りることにはさほど苦労することはなかった。
港さえ離れてしまえば、後は見つかっても問題ない。
ラムダは自分の死を最初から覚悟していたのかもしれない。
彼が死んでもなお、この船は通常通り動いている。
あのカジノはどうなったのだろう。
そう思ったとき、海の方向から爆音が聞こえた。
「っ!?」
僕が振り返ると、船が爆発していた。
あんなに大きな船が、あっさりと大破した。
派手に舞った水飛沫が僕にもかかった。
そして、ゆっくりと沈んでいった。
「……」
船が爆発してから沈没するまで、僕は唖然としてその場に立ち尽くしていた。
誰がやったのだろう。
ラムダが、道連れにしてまで僕と乗客を殺すつもりだったとしか思えなかった。
何人もの犯罪者が、避難する間もなく死んだ。
あの爆発が、あっけなく誰かの仇を取っていった。
僕は現場に背を向け、港を後にする。
この場にいても、怪しまれるだけだ。
しばらく歩くと、明るい港町の風景が見えてきた。
ここは僕がいた病室のあるクレアラッツの隣町だが、ここに用はない。
通り過ぎると、すぐに道は暗くなる。
ここからは歩いて帰ることにした。
特に理由はない。
少し遠いが、明日になるまでには帰れるはずだ。
歩きながら携帯電話を取り出す。
そして母に電話を掛ける。
「どうしたの、こんな夜中に」
母の声は眠そうだった。
仕方ない、あちらは時差の影響もあって夜中だ。
「母さん、イリアのことなんだけど」
「あの子のことは、もう忘れてって言ったじゃない」
母は語気を強めて僕の言葉を遮った。
「分かってる。でも二度と会うこともないと思うから、あえて伝えるよ。あの人は麻薬に溺れて……自殺したって」
息を呑む音が、僕にまで聞こえた。
「どうして、あの子は麻薬なんかに溺れたの。こんな悲しいことを、フルヴィオに伝えなきゃいけないの?」
僕の頭の中に、口喧嘩になった時の父の顔が浮かぶ。
僕は組織に解放されてからすぐに祓魔師養成学校に志願し、他国に行った。
彼が怒るのも、無理もない。
「父さんはきっと、僕を責めると思う。僕はこの未来を、全部分かっていたんだから」
母はしばらく嗚咽していた。
僕は母が泣き止むまで何も言わなかった。
なんとなく、僕は自分の顔に力を籠めている気がした。
「ねえ……どうしてあなたは笑っているの?」
五分以上の間の後、母は聞いてきた。
「……え?」
「さっきから声が聞こえるのに、あなたは泣いてない。あなたが笑ってるとしか思えないんだけど」
力を籠めていた訳が分かった。
僕は、彼女が死んだことを喜んでいた。
「ははっ……そんなつもりは、ないよ。あはははっ」
嘘をついたが、こみ上げてくる笑いを堪え切れなかった。
「何が、うれしいの? 仮にも……姉弟でしょう? まさか、あなたが」
「それは違う。母さんはあの女がしたことを知らないから、そう言えるんだよ」
僕は必死に笑いを堪えながら言った。
無言を貫く母から、怒りが伝わってきた。
「ねえ、いつになったら話してくれるの? あなた、誘拐されて何をされたの?」
「辛かったら言わなくていいって言ったの、母さんだよ」
「あなたの活躍は聞いているけど、素直に喜べないの。あなたには謎が多すぎる。一年生でA級になるなんて、普通はありえないのよ」
「僕がありえないなら、一年生でS級になったセヴィスは何?」
母は再び黙り込んだ。
「彼は……また別よ」
「じゃあ母さんにとって今のS級は人間じゃないんだ。いくら彼が嫌いだからって、そんな言い草ないんじゃない? 大体、僕が何をされたかとか……知ってどうするつもり?」
「それを知るまで……あなたが家族に見えないの」
母の声は震えていた。
今まで、本心では僕を疑っていたのだろう。
僕は聞こえよがしにため息をついた。
「教えないよ。僕は被害者面したくないし、母さんの同情なんていらないから」
「一度家に帰ってきなさい。全てを話しなさい」
「嫌だよ。帰ったらまた面倒なことになるし。それじゃ」
「ちょっと!」
母の罵声を、僕は無理やり遮断した。
イリアにしても、母にしても後味の悪い別れ方だ。
それから僕は寄り道せずに病室に戻った。
それでも、眠ることはできなかった。