3 モナムール
僕は呼吸を整えて、ルーレットの前に座る。
「あっベルク様」
僕を見たディーラーが、いつもと違う態度を取った。
ルーレットの『赤の25』の上にのった白い玉を取り、僕に見せつけた。
「も、もう普通のディーラーとの相手は飽きたでしょう?」
ディーラーは焦っている。
上の人間が決めた台詞を言っているとしか思えなかった。
「当カジノのオーナーからの提案で、本日はベルク様専用のディーラーをご用意いたしました」
「僕専用?」
僕は首を傾げた。
今日はまだ一度も賭けていないのに、もう誘いがきた。
「はい。ベルク様は神によってもたらされた幸運の持ち主、と言っても過言ではありません。ですから、狙った場所に正確に入れるディーラーと勝負していただこうかと」
どれだけディーラーが正確に入れようと、関係ない。
ディーラーがどこに入れるかなんて、未来を見れば一発で分かる。
良く言えば能力のトレーニング、悪く言えば絶対にバレないイカサマだ。
「このカジノに、そんな凄いディーラーがいたんですね」
僕の声がはっきりと聞き取れる。
それだけ、辺りは静まっていた。
「これは選ばれた人間だけができるゲームです。見事勝利したあかつきには、S級会員の称号、そして当船の目玉『レイン・ルージュ』を贈呈いたします」
やはり、『レイン・ルージュ』への招待だった。
てっきりオーナーが直々に来るものだと思っていたが、ここのオーナーの腰は相当重いらしい。
この船の会員にS級があったことを、僕は今初めて知った。
悪魔の階級制度を祓魔師がそのまま利用したせいで、この世界全体が最も優れた者をS級と呼ぶようになっているらしい。
祓魔師でもギャンブルでも、A級だけが僕にお似合いなのかと思っていた。
S級はどちらかと言うと祓魔師の方で欲しかったが、僕の能力が未熟である以上、とんでもない速さを誇る彼の行動を読んで勝つことは至難の業だ。
本当に僕が欲しいのはルビーではなく、フレグランスの出し抜かれた顔なのだが。
「それって、怪盗フレグランスが狙っているものでは」
「この勝負、お受けになりますか?」
まるで僕がそう言うのを待っていたかのように、質問は遮られた。
「はい」
僕は迷わず返事をした。
同時に歓声があがる。
「それでは、特別室にご招待いたします」
僕は席を立ち、ディーラーの後に続く。
何人かの野次馬も僕の後ろについてくる。
こんなに観客がいると騒がしくなると思っていたが、何人かはディーラーたちによって制止されている。
入れるのは限られた人間だけらしい。
僕は直感した。
この観客の中に、怪盗フレグランスが紛れているかもしれない。
それでも、このルビーのある部屋は僕が来なければ開かれないはずの場所だった。
もし僕が来なかったら、フレグランスはどういう手段を取っていたのか。
いや、僕が来ないことを前提に考えているかもしれない。
今まで五年間、正体を隠したまま盗んできた泥棒だ。
鍵の閉まった部屋に入ることなど容易いことだろう。
ディーラーが向かうのは奥の至って普通の扉。
今まで一度も入ったことのない部屋だ。
扉を開けると、広い部屋に小さな机が一つ。
机の上にはルーレットと頑丈そうなガラスケースに入ったルビーがある。
そしてその机を挟むようにイスが二つ置かれている。
「どうしてイスが二つあるんですか? 僕とディーラーの勝負って聞いたんですが……」
と、僕は尋ねた。
すると、僕の向かいの扉から派手なスーツの男が入ってきた。
年齢はおそらく三十前後だろうか。
その男は当然のようにイスに腰掛けた。
「ダーリン頑張ってぇ」
「おうよ」
男は煙草をくわえたまま返事をした。
しかし僕の意識はそれよりもその隣に向かっていた。
どういうわけか、イリアが男の傍らにくっついている。
「何で貴方がいるんですか。これ以上関わったら、どうなるか言いましたよね?」
先ほど消えた虫唾が再び走ってきた。
僕は苛々しながらバッグを地面に置き、イスに座る。
目の前のルーレットはただ回り続けている。
「ええっ!? ダーリンの相手ってベルちゃんだったの!?」
「そうだよ、ハニーの弟だよ」
イリアと男は僕を無視して小声で話している。
今だけは空気を読んでくれたらしいが、こんなところで正体を曝されたらただじゃおけない。
祓魔師に賭け事は許されていない。
まして裏カジノなら尚更だ。
もしバレたら、称号は剥奪されるだろう。
「この船のオーナーをやってる、ラムダ=イレヴンだ。よろしくな、えっと、ベルクくん」
「よろしくお願いします」
男ラムダは煙草を灰皿に押し付けると、にやりと笑った。
なんとなく、ラムダはわざと僕の名前で口を渋らせた気がする。
それにしてもオーナーをダーリン呼ばわりなんて、この女はどんな手を使ったのだろう。
こいつは金の為ならどんな手段も厭わなさそうだから、どうせ色仕掛けに決まっている。
「……このメス豚」
「ベルちゃん、何か言った? あっもしかして見とれてた? だめよ、ダーリンがいるんだから」
イリアは僕の目の前で、堂々とラムダの唇にキスをした。
それに触発されたのか、ラムダは彼女の首筋に手を掛けて舌を絡め始めた。
それは情熱的というより、下品だった。
「気持ち悪い」
と小声で言うと、僕は視線をルーレットに落とし、この光景から目を逸らした。
「ベルちゃんも混ざりましょうよ。もうちょっと近くで見たいんでしょ?」
「遠慮します。下品な人間を直視したら、目が穢れますから」
「照れるんじゃないよ、ベルクくん。君も同じことをしたいんだろ?」
「……冗談じゃない」
「幸せな子だ。こんなハニーと家族なんだからな」
どうして僕の姉はこんな自惚れた人間なのだろう。
僕は呆れてため息をついた。
ラムダも悪趣味だが、僕が最も驚愕したのは観客の方だった。
周囲は完全に白けるという僕の予想とは裏腹に、彼らは甲高い声をあげて歓喜しているのだ。
観客も十分悪趣味だ。
「では、当ルーレットの特別ルールを説明します。まず、双方に10万デルカを配り、ディーラーが玉を投げ入れます。次に、ベルク様と当オーナーが賭けます。勝負は三回、終了時の金額で勝敗を決めます。ベルク様が勝てば『レイン・ルージュ』とS級会員の称号を贈呈、オーナーが勝てばベルク様から20万デルカのお支払いをしていただきます。もし双方の金額が最初の十万デルカに及ばなかった場合はディーラーの勝ちとなり、お二人がそれぞれ10万デルカずつディーラーに譲渡する形となります。
そしてこちらが今回のディーラーです」
「ルミナス=シェーラードです。どうぞお手柔らかに」
僕とラムダの横に長髪の男が立ち、丁寧に頭を下げた。
同時にギャラリーがざわつく。
前の二人もやっと気分の悪くなる行為を止めてくれた。
「早速始めましょうか」
ルミナスは僕とラムダの前に、100枚ずつ金色のコインを置いた。
コインは一枚千デルカだ。
次にルミナスは白い玉をわざとらしく見せつける。
これは玉に仕掛けがないことを示している。
「では、ベットを」
ルミナスが玉をルーレットに投げ入れた。