「スチューピットは嗤う」byヘボ
深夜。輝く月が雲に隠れ、深い深い闇が訪れる。路地を歩く人影はない。住宅地は心細くなるような静寂に包まれている。家々は眠りの中に沈んでいた。
そんな中、その家は、濃密な臭いで溢れかえっていた。足元から絡み付いてくるかのような、肌まで染み込む血の臭い。明かりが一つも点いていない家は、不快な生暖かさを有していた。
誰もが寝静まっているはずのこの時間帯に、何か動くものがあった。それは、絶え間ない上下運動を繰り返している。下にそれが動く度に、勢いよく粘着質な物体を握り潰した時のような、くぐもった水気を含んだ音が辺りに響く。振り上げては、響く。振り上げては、響く……。
厚い雲に覆われていた月が、その輝きを取り戻す。開いたカーテンの隙間を縫うようにして、青白い光が射し込んで来る。瞬間、狂気の笑みが浮かび上がった。
三日月形した双眸。そして、限界まで引き攣り硬直したかのうよな口。真っ赤に染まった少年の顔には、相応のあどけなさなどもうどこにもない。振り上げては、響く。肉が潰れていく。
「ねえ、ママ。ぼく良い子でしょ」
疲れたのか突然手を止めた少年は、荒い呼吸を整えることもせず、跨る母へと問いかけた。もう何も映していない母の瞳。虚ろを望むばかりの瞳に、少年は問いかける。
「ねえ、ママ。ぼく良い子でしょ。ママを苦しめてた奴を倒したんだよ。ちょっと待ってて。こいつがママを苦しめてたんだ」
そう言うと、少年は母の腹部へ、準備した包丁の刃がぼろぼろになるまで繰り返し突き刺した腹部へ手を突っ込んだ。
血の海に手が潜っていく。細切れになった肝臓を掻き分け、昨晩食べたものが溢れ出した胃を退かし、消化液の黄色や黄土色に染まった小腸に手を浸して、それを探す。やがて純粋な笑顔が輝いた。宝物を見つけた子どものような顔で、目的のものの一部を取り出す。
「ほら、これがあいつの手だよ」
それは、最早出産を待つばかりにまで大きく成長した胎児の掌だった。胎児は少年の手によって原型を留めないまでに切り刻まれていたのだ。母の胎内に守られていたはずなのに。
「ねえ、ママ。こいつがママを苦しめてたんだよ。ぼくのママを、ぼくだけのママをずっと苦しめてたんだよ。……ぼくだけのママだったのに――」
――こいつが横取りしたんだ!
少年の顔は見る見る憎悪に染まっていく。怒りが、悲しみが、少年の身体を震わせている。ついには手にした掌を握り潰してしまった。鮮血が母の体内へと滴り落ちる。そこで二人は混ざり合っている。
「ね、ママ。ぼく、ママのことを思って、ママを助けたよ。もうきっと、苦しまなくても大丈夫だよ。ね、ぼく、良い子でしょ」
そう言って、少年は母の顔を両手で掴む。真っ赤に染まった両の手で己の母の顔を掴む。
「だからね、ママ。笑って。あの頃みたいに、良い子だねって笑って撫でてよ」
語りかける瞳はただ虚空を見つめるばかりで。
少年は母の口の端に包丁で切り込みを入れ始めた。小さな口が、徐々に裂けていく。欠けた包丁は、すんなりと刃を進めてはくれないようだ。少年は苦心して母の口の裂いていく。やがて作業が終わると、満足そうに微笑んだ。限界まで引き攣った笑顔が、さらに嗤う。
少年は母の腹に立ち、奇声を上げながら跳躍を始めた。何度も何度も高く舞い上がり、力の限り踏みつける。肉片が辺りに散らばっていく。血が飛沫を上げる。あの音が、先程にも増して大きく響き渡る。
真っ赤に染まった少年は、奇声を上げながらも嗤っていた。見上げる母の大きな口は、見事な三日月形をしていた。