「春鮫の降る日」by 焼き鳥
夢をみるような声が聞こえた。
腕をだらしなく放り出したちゃぶ台の先にあるテレビは、何度も同じニュースを繰り返して、時折人が変わっていった。
カーテンを閉め終え、またキッチンに戻った妹が、焦がれるように言ったのだ。
「はちみつが食べたいんだけどね」
油が微かにはぜる音と、包丁が何かを切断する音が控えめに聞こえており、一体何のことだかわからなくなりそうだった。
「はちみつ?」
黄金色の液体が頭の中に溶け出して、その中にびちゃりとくまがすわりこむ。それは焦げ茶色をして、密に生えた毛皮と短い尾・太くて短い四肢と大きな体、すぐれた嗅覚と聴覚をもつリアルな熊だ。さっき特集で、熊による被害を扱っていたのでつられた気がする。
妹は、数秒問いかけが聞こえなかったかのようにふるまって、また、不意に喋りだした。
「そう。あのレンゲやミカンやアカシアの、蜜から取れるやつ。それを、パンに塗ったり、飲み物に落としたり、お菓子に混ぜたりするんじゃなくて、そのままコップに入れて一気飲みするわけ」
それは無理だ。
人間業じゃない。
口、食道、胃の中がはちみつだらけになる絶望を妄想してしまい、脳の中のツキノワグマが金色の海に溺れて見えなくなる。
どうしてそんな恐ろしいことを言い出すのだろうと、ニュースを目に映しながら尋ねると、
「桜が、」
と妹は呟いた。
「咲いていたのを見た?」
その声とほぼ同時に、ブラウン管に見事な夜桜が映し出される。本年のさくら(ソメイヨシノ)の開花は、東北地方と東日本では平年より早く、西日本では平年並か早い見込みです。
見えた、と端的に答えると、
「この辺でいっちょ、春らしいことをしておこうと思ってね」
なるほど、咲いた花やそれを集めて飛び回るミツバチたちが生み出した栄養素の結晶はまさに春を凝縮したものに違いない。など微塵も思わなかった。だって花見に行けばいい。
「結局何が言いたかったんだ?」
談笑するニュースキャスターを見ながら、手を洗っている妹に向け、率直に尋ねる。すると妹も背を向けたまま、簡潔に返答した。
「日ごろの感謝の念を持ち合わせる常識人であるならば、はちみつを買ってきてほしいと言いたかったんだよ」
始まった天気予報を見ながら、夕食前にスーパーまで車を走らせ、買い物籠の中に蜂蜜だけ入れて、レジを通過する人を脳内に思い描いた。
常識人じゃない。
南西の風 くもり 深夜からはるさめがふるところもありそうです。
はるさめ、か。天気予報の解説を、都合のいいように解釈した。
「でかい魚が降るかもしれないから、外出は止めとくよ」
「ああ、小さな旋風や竜巻が発生して、それらの旋風が水上を移動した場合、軌道上にある魚やカエルを上空に巻き上げたまま風に乗って数キロを移動するという、あの現象のことね」
何か解説されたので、観念してネタばらした。
「なんじゃそりゃ。春雨のことだよ」
「よくわかったね」
声が近づき、目の前においしそうな揚げ物が、器に乗って降ってくる。からりとした金色の衣に、所々黒い胡椒がちりばめられていて、思わずつまみ食いした。サクッとした衣の中には、魚のタラと鶏モモ肉の中間からさらにきめ細かくシットリモッチリさせたような身の美味しさで、うっすら上質の脂がのっている。思わず聞いていた。
「うまい。何の肉?」
「え? いやだから、ヨロイザメ」