「幸せとほら吹き」byヘボ
ほら吹きのセト。僕は近所の犬仲間たちからそう呼ばれていた。あることないこと、何でもかんでもとにかく大袈裟に言いふらす悪ガキだと思われてたんだ。
確かにその通りだ。なんたって僕は毎日のように、僕を拾ってくれた亜美ちゃんを騙し続けていたんだから。雨だったあの日、ずぶ濡れだった僕を、目を真っ赤にしながら拾ってくれた亜美ちゃん。どうしてあの日目を赤くしていたのか、僕には分からないけど、とにかく僕を拾ってくれた亜美ちゃんはとっても優しかったんだ。
亜美ちゃんは、僕がちょっと具合の悪い振りをするとすぐ心配してくれた。おろおろして、混乱しながらも声をかけてくれた。僕はお腹が痛い振りをしたり、脚を怪我してしまったように歩いてみたりした。その度に亜美ちゃんは困ってしまって、泣きそうな顔になりながら僕の身体を丹念に調べてくれた。亜美ちゃんのパパとママにも相談したりして、時には病院にまで連れて行ってくれた。帰り際、いつもこっぴどく叱られるのだけは嫌だけど、でも嘘を吐くことはやめられなかったのだ。だって楽しかったから。亜美ちゃんは本気で僕を心配してくれたんだ。
犬仲間たちは僕をひどい奴だって言っていた。主人を困らせる厄介な奴だって。でもそんなこと知ったことじゃなかったんだ。僕と亜美ちゃんの絆は、みんなには分かんないのさって思ってたから。これからもずっと、僕は大袈裟なほらを吹いて亜美ちゃんを困らせて、時々病院に連れて行ってもらって帰りに叱られる。それでいいじゃないか。それなりに僕たちは楽しんでいるんだから。そう思っていたんだ。
でも、どうやらそれはそろそろ終わりらしい。
その日、また亜美ちゃんを困らせて満足して眠った昼、僕は神様と出会った。眠って、夢の中でふと顔を上げたらそこに神様がいたんだ。白いタイツに、これまた白のアンダーシャツ。寒そうな頭に、浅黒いあざをいくつか浮かべたその老人は、右手になんだがいかつい杖を、頭上には金色の輪っかを浮かべて、目の前で浮いていた。どうしてそのおじいさんを神様かと思ったのかよくは分からないけれど、とにかく目の前にいるのは神様だったんだ。僕は寝た時の姿勢で顔だけ上げたまま神様を見ていた。
「セトよ、お前は今の主人に拾われたと言うのに、その恩を仇で返しておる。これはとんでもないことじゃ。このままではわしはお前を罰しなくてはならん。想像も出来ないような不幸をお前に呼び込まねばならん。そんなことは無論わしもしたくはない」
神様は途中幾度か咳をしながらそこまで話した。何とも威厳のない神様だと思った。それでも僕は、どうしたらいいのか聞いていた。僕自身、想像も出来ないような不幸がどんなものかは分からないけれど、そんなのは受けたくなかったんだ。神様はゆっくり大きく三回うなずいてからこう言った。
「嘘を吐くのを止めよ。主人を欺くことを止めよ」
僕はまるで水が溜まりきった獅子おどしみたいに大きくひとつうなずいた。そんな僕の反応を見て神様は満足したのか、にやりと笑ってこう言った。
「そうか。ならばこれから絶対にほらを吹いてはならんぞ。仮にもし一回でも吹いたものなら、お前の身には、想像も出来ないような不幸が押し寄せることになるからの。肝に銘じて置くように」
最後にそう残して、神様はすぅっと消えてしまった。バイビー。そんな古臭い捨て台詞を残して。
同時に目が覚めた。僕は寝る前の僕とはまるで別の生き物になったような気がした。よく分からないけれど、もやもやした不安があったからその瞬間からほら吹きのセトを封印しようと思ったんだ。それは思った以上に簡単で、亜美ちゃんと僕の生活も根本的なところでは何一つ変わらなかった。ただ、僕の嘘がなくなっただけだった。
だから、それからの日々は特に大きな波が来ることもなく、穏やかな風が吹く海上を航海するかのようにのんびりとした日々となった。可もなく不可もなく、まあそれなりに。僕はたくさんの犬と散歩先で出会って、亜美ちゃんは僕の食事を自分で作るようになったりして、僕はそんな亜美ちゃんを困らせるようなことを極力しないように心がけて、亜美ちゃんは段々大きく綺麗になっていって、僕は年をとって、夏が来て秋が来て、雨が降って雪が降って、季節はぐるぐる巡り、何度目かの春が来た。
その間に僕の世界はどんどん狭くなっていったんだ。
窓の近く、開いた窓から入ってくる春風が寝転ぶ僕の身体をそっと撫でていく。柔らかな陽射しが射し込む庭先には蝶が二匹ひらひらと飛んでいて、その下にはちっちゃなたんぽぽがばっちり咲いている。広がる青空には小鳥の歌声が響いていて、まどろみを誘う陽気が僕を包んでいるんだ。多分、外に出て力一杯走り回るととっても気持ちがいいんだと思う。今の僕には出来ないことだけれど。
僕の身体はいつの間にか、思うように動かなくなってしまっていた。最初におかしくなったのは目だったと思う。周りがよく見えなくなっていったんだ。だからさっき僕が見た庭の景色は、実際には見てないことになる。音と匂いと、過ごしてきた歳月が僕に庭を見せていたんだ。思えば十年以上この庭を見てきたんだ。目を閉じても、僕には目の前に広がる庭が見ることが出来ると思う。
僕は少し身体の位置を変えたくなった。でも、どこも動かない。動いてくれない。だから、ほんとはこんなことしたくないんだけれど、近くのリビングでママと一緒にいる亜美ちゃんを呼んだ。もう大人になってしまった亜美ちゃん。彼女を呼ぶ声は小さく擦れて、鼻から抜けるような、気の抜けた声にしかならなかった。
がたんと大きな音を立てて、亜美ちゃんは急いで近づいてくる。そして凄く心配そうに僕の顔を覗き込んで(ぼんやりとなら顔があることが分かる。本当はしっかり見たいのだけれど、それはもう出来そうにない)、声をかけてくれる。どうしたの? どこか痛む? あの日から変わらない、優しい声で。
その声と亜美ちゃんの顔を見ると、僕はとっても居心地が悪くなる。僕のせいで亜美ちゃんを傷つけているような気になるんだ。傷つけたくなんか、ないのに。でも、僕は少し身体の位置を変えたい。だから仕方なく情けない声でお願いするんだ。ごめんね、亜美ちゃん。身体の向きを変えてくれないかなって。
亜美ちゃんは僕の言葉を理解して、そっと僕を抱えるとちょうどいい体制に僕をしてくれる。亜美ちゃんには僕の声が聞こえるのだ。聞こえるだけじゃない理解してくれているんだ。僕はそのことがとても嬉しい。尻尾がちょっとだけ動いた。
でも、僕の呼吸は、姿勢を変えてもらうたった、それだけのことだったのに少し荒くなってしまった。ありがとうと言いたいのに、呼吸が辛くて、上手く、言えない。悔しい。情けなくなる。そんな僕の頭に、亜美ちゃんは掌を置いてくれる。ゆっくりゆっくり撫でてくれるんだ。
それが気持ちよくって。心地よくって。僕は堪らず目を細めてしまう。幸せが心の中に溢れ出すんだ。弾けてしまうんじゃないかって程に膨れ上がる幸せ。僕は出せない声の代わりに、頭の上に乗っかった亜美ちゃんの掌から伝えるんだ。ありがとう。ごめんねって。
亜美ちゃんの掌からはとっても寂しそうな心が伝わってくる。亜美ちゃんは凄く心配している。いつなんだろう。何か出来ないのだろうかって。
もうすぐ僕は死んじゃう。明日か明後日か、もしかしたら今日の夜かもしれない。はっきりといつかは分からないけれど、多分もうちょっとで僕は死ぬ。もうちょっとで僕は亜美ちゃんとお別れしなきゃならなくなる。亜美ちゃんはそのことを怖がっているのだ。仕方のないことだけど、僕も結構そのことが辛かったりする。
辛い呼吸が恨めしい。食べても戻してしまう胃袋が憎らしい。一日中、何だかほんわか暖かくて、かもすると寝てしまいそうになる春の太陽に腹が立つ。
僕は死にたくない。もっと亜美ちゃんの側にいたいんだ。一緒に散歩して、駆け回って、時々怒られたり怒ったりしながら、亜美ちゃんにもっと笑っていてほしいんだ。
「でも、それは仕方のないことなんじゃよ」
どこかで神様が呟く。
「お前はもうすぐ寿命を終える。決められていた運命の期間に終わりが来たのじゃ。それは必然じゃ。抗うことは出来ない、逃れられない未来なんじゃ」
でも、僕が死んだら亜美ちゃんは悲しむんでしょ? 泣いちゃうかもしれない。そんなの、ヤだ。
「お前の気持ちはよく分かる。じゃが、老い先のないお前にはそんなことを心配する意味はないんじゃよ。死は何かを奪う。変わりに始まるものあるんじゃ」
それは深い悲しみじゃないの?
「そうかもしれん。それは辛い日々になるかもしれん。でも、そこから始まる何かがある。そして必ず終わりがあるんじゃよ」
僕はしばらく黙っていた。神様はどこかに行ってしまったのか、もう何も喋らなくなった。
神様にもどうにもならないこと。それに僕は何が出来るのだろう。そんなことを考えた。どうせ何も出来やしないけど、考えていたんだ。何か出来るはず。そう願いながら。
だからなのか分からないけれど、唐突に僕は思いついたんだ。ここで死んでしまうのなら最後に一度だけ嘘を吐こうって。大丈夫だよ、まだまだ元気だよって、大切な亜美ちゃんに、僕を拾って育ててくれた亜美ちゃんに伝えようって。
貰ってばっかりだった僕からの、最後のプレゼントを思いついたんだ。
「――いいよ」
神様がそう言った気がした。
目を開いた。目を開いた? あっ、そうか。いつの間にか僕は寝ちゃったんだ。気が付かなかった。頭の上にあった亜美ちゃんの掌の感触はどこかにいってしまっている。遠くで誰かの話し声が聞こえた。
僕は目の前に広がる変わらない春の庭先をぼんやりと見ていた。二匹の蝶が迷路に迷い込んでしまった迷子のように舞っていて、その下にたんぽぽが二輪、寄り添うように咲いていた。
たんぽぽが二輪?
僕は目の前に広がる景色がよく分からなかった。どうしてか庭が見えるのだろう。ぼやけていない。はっきりと目に見えているのだ。目覚める前まではほとんど見えなかったのに。
と、迷子の蝶が出口を見つけたかのように高く舞い上がった。釣られて首がなんなく持ち上がった。あれれ? 低かった景色が少し高くなる。春の庭がちょっと大きくなったような気がした。
僕は未だに混乱していた。何やらおかしい。身体の調子がおかしい。
前足に力を入れてみる。身体がゆっくりと持ち上がる。後ろ足は勝手に立った。僕は自分で立った。寝たきりだったのに。立ててしまった。僕はようやくここで気が付く。僕は嘘を吐いているんだ。僕自身に。僕自身の身体に!
身体がむずむずする。堪らず全身を震わせた。背負っていたもの、近づいてきていたもの、逃れられないものはどこか空高く飛んでいってしまったようだった。それは多分、隕石みたいになって後々僕に衝突するのだろう。その時が僕の最後なんだと思う。
でも、それが何だというんだろう。今、僕はこうして自分を取り戻したんだ。最後の嘘を吐いたんだ。だから、僕にはしなきゃならないことがあるんだ。そうだろ?
リビングを見た。何も置かれていない机を挟んで椅子に座っていた亜美ちゃんとママが口を大きく開けて僕を見つめていた。僕は二、三歩進んでお座りをする。亜美ちゃんの瞳に涙が溜まり始めていた。真っ赤に充血した大きな瞳が綺麗に潤んでいく。あの日みたいだ。僕を拾ってくれたあの日みたいな目を亜美ちゃんは湛えていた。
椅子から、亜美ちゃんが立ち上がる。僕の尻尾は条件反射みたいに激しく動き始める。尻尾が切る空気の感触が懐かしい。戻ってきたんだ。身体中に力が。今日の僕は絶好調だ! 僕は昂ぶる心で一声吠えてみた。力のある声が出た。出たからもう一回吠えてみた。さっきよりも大きくなった!
そんな僕を見て、亜美ちゃんは涙ながらに何度もうなずいていた。そして手で涙を拭うと、にっこり微笑んだ。
「おいで、セト」
僕は思いっきり亜美ちゃんに飛びついたんだ。
(End)