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「音のない電話」byヘボ

 お湯がたぎっている。ぐらぐらぐらぐらと。胴鍋の底で百度に達したお湯が上昇し、絶え間なく表面に盛り上がっている。山だ。熱湯の山が出来ている。

 僕はそこに結構大胆に塩を加える。塩を飲み込んだ山は少しだけ小さくなる。けれどもそれも一瞬のことで、熱湯は再び沸騰する。山は消えるつもりなどさらさらないようだ。

 そんな熱湯にパスタを入れる。食べるのは僕と姉さんの二人だけなのだけれど、一応三人分。両手で全部持って、鍋の中の山にパスタを突き刺す。蒸気が掌に熱い。堪らず手を離した。

 自分たちを束ねていた力から開放されたパスタは、支えを失って一斉に散らばる。まるで早朝の朝顔のように鍋の中で開花する。その開き方は幾分か早すぎる気もするけれど。僕はそんなパスタたちを、菜箸を使って熱湯の海へと沈ませていく。今日の夕食はカルボナーラだ。

「そんなこと言ったって、彼はあんたのこと好きで大切だから心配してるんじゃない」

 僕は鍋から顔を上げ、キッチンに面したリビングの小さなソファーに座る姉さんの方を見た。膝を折り、小さくなってソファーに座る姉は電話で話し中だ。クッションを抱えている。そう思えば随分と話し込んでいる。

「分からなくもないけどさ、でもそれってあんたが彼との約束すっぽかしたのが悪いんでしょ? 自業自得よ。従いなさい」

 誰かの愚痴を聞くというのはとても面倒なことだと僕は思う。こっちは何も関係なかったはずなのに、愚痴を聞いているだけで体力を消耗してしまう気がするからだ。言葉は心に響いてくる。結構大切なことだと思う。

 けれども、姉さんはただ愚痴を聞いているだけではない。自らの意見も伝えて相手を諭している。ああ、なんて面倒なことなんだろう! 僕には到底出来そうもない荒業だ。姉さんのことを気の毒に思いながらも、僕はその気力に憧れている。

 マッシュルームを刻む。食べやすいように薄切りに。続いてベーコン。今度は食べ応えがあるように賽の目切りに。まな板の側には既に切り終えた玉ねぎをまとめてある。我が家のカルボナーラはシンプルだ。

 ソースを作る。フライパンにオリーブオイルを引き、具材を炒めていく。ベーコン、玉ねぎ、マッシュルーム。ぱちぱちと油が撥ねる音がする。塩と黒胡椒で味を調えた。昔と比べたら随分手際がよくなったものだ。自分で自分に驚いたりする。

 牛乳と生クリームを加える。熱せられていたフライパンが気持ちのいい音を立てて満たされていく。沸き立つまろやかな香りが食欲をそそった。

「……ヒロ。ヒロ!」

 呼ばれて、顔を上げる。受話器を胸に当てて姉さんは聞いてきた。

「ねえ、ヒロだって、部屋で女と二人きりになんかなったらセックスしたくなるわよね?」

 どうしたらそんな話題になるのだろう。少々気になる。電話の向こうの人は誰かに強引に迫られたりしたのだろうか。少しの間を空けてから、僕は、時と場合によるよ、とだけ答えた。煮え切らない答えだとは僕自身、分かっている。

「うっそだー。何かっこつけちゃってんのよ」

 姉さんの非難には、苦笑いで答えた。

 チーズの準備をする。塊のままのパルメザンチーズとゴーダチーズ。小さく刻んだゴーダはそのまま白濁のソースの中に、パルメザンは鍋の上で削る。たっぷりたっぷり。僕はチーズがいっぱい入ったカルボナーラが大好きだ。仕上げにモッツァレラまでトッピングするつもりだから、これはもうチーズパスタなのかもしれないと少し不安になったりする。

 まあ、気にしないで置こう。

 パスタを見る。沸騰する熱湯に、パスタが踊っている。ぐるぐるぐるぐる。底から頂点まで上がって、また沈む。目が回るだろうな。そんなことを考えた。

 ひとつ掬い上げ食べてみた。うん、アルデンテ。すぐに全部取り上げた。ソースと絡める。三人分のパスタを一気に扱うのは結構力が要る。僕は懸命にパスタの塊をソースの中でほぐす。次第に一本一本にソースが絡まり始め、全てのパスタがクリーム色の衣を纏ったのを見て僕は満足した。

 皿に盛る。仕上げにモッツァレラチーズと卵黄を添えて、その上から黒胡椒を削った。今夜はハーブはなしだ。その出来を見て、僕は一人うなずく。結構な出来上がりだ。僕の腕もかなり上がったものだ。

 姉さんに声をかける。まだ会話は終わっていないようだった。僕はテーブルに皿を運んでいく。一緒にサラダとコンソメスープも準備した。先に席に着く。姉さんを見て再び声をかけた。姉さんは手を上げて僕に合図をくれた。

「ごめん、また後でね。ああ、もう。悪いと思ってるわよ。ちゃんと後で聞くから。ほんと。うん。じゃあね」

 電話を切ってから盛大なため息が姉さんの口から漏れた。ゾンビのようにゆっくりと歩いてくる。よほど電話で疲れたらしい。お疲れ様である。

 けれども、食欲というものはどこまでも素直なものだ。感心してしまう。姉さんは席に着くなり目を輝かせた。

「わぁ、おいしそう。ヒロ、どんどん料理覚えるね。すごいよ」

 そんな賛辞の言葉に僕は照れてしまう。姉さんは合掌しながら頂きますと言い、早速カルボナーラを頬張った。

「おいしい!」

 姉さんはにっこり微笑んでそう言った。僕も釣られて微笑んでしまった。

 おいしいと、笑顔で伝えてくれるその言葉が、何よりも僕を嬉しくさせる。笑顔のためなら、これからもいろんな料理に挑戦したいと思えてくる。今度は何を作ろうか。カルボナーラを頬張り僕は考えたりする。あ、今日のは格別においしいかもしれないぞ。自分でも驚いた。

 そんなささやかな晩餐。僕と向かい合う姉さんの二人だけの食事。姉さんはさっきまで話していた電話の相手のことを僕に話してくれる。その子の恋の話。恋人のこと。正直愚痴に付き合いきれないこと。でも、本当はいい子で最終的には放って置けなくなって関わってしまう自分のこと。姉さんはなんとも感情豊かに話してくれる。

 僕はそんな姉さんの表情を見ると眩しくて堪らなくなる。思わず目を細めてしまうくらいだから、だいぶ重症なんだと思う。姉さん病だ。眩しい姉さんを見つめることが出来ない厄介な病気だ。本当に困ってしまう。

 終始、姉さんは本当に楽しそうにしゃべり続けていて、僕はそれに相槌を打っていた。テレビは消えていて、音楽もかかっていない。部屋の明かりが白々しく照らす下で僕らは食事を取っていた。

 終わらない姉さんの話を聞きながら、途中から僕の意識は段々と目の前にいる姉さんから、そのもっと奥にいる姉さんに移っていった。深いところで、もうずっと耳を閉ざして目を閉じて、逃げ隠れている姉さんのことを。

 ねえ、姉さん。姉さんはその相手の人に会ったことがあるのかな。特徴は。年齢は。髪型はどんなのかな。家族構成は。好きな食べ物と嫌いな食べ物は。いつから友達になったのかな。僕は溢れ出す姉さんのおしゃべりに耳を傾けながら、そんな疑問を幾つも投げかけてみた。もちろん心の中で、だけれど。

 姉さん。僕は知ってるんだよ。本当は知ってるんだ。ずっと姉さんが話している電話の向こう側には誰もいないってことを。姉さんが使ってる電話のコードは、もうだいぶ前にコンセントから引き抜いてあるんだよ。姉さんの手でね。姉さんは姉さんの中の見えない誰かと会話している。

 僕はよく考えてみる。姉さんが話し相手のいない電話で会話していることを。それが果てしていいことなのかとか幸せなことなのかとかを、何の役にも立ちそうにないちんけな脳みそで考えてみる。

 一時期の、極度に人を恐れて、誰かと顔を合わせることを嫌い、会うことすら拒んだ頃と比べれば、電話はいいことなんだと思う。かつて、何が姉さんをそこまで追い詰めたのかは知らないし、分かりもしないけれど、笑ってくれるだけで安心できる。でもそれが幸せなことなのかどうか。僕はずっと答えを保留してきている。多分幸せではないのだろうとは思っている。

「全く、あいつにはやっぱり私がいないと駄目なんだよね」

 そういって微笑む今の姉さんに、あの頃の暗闇はない。明るくて優しくて、押しには弱い女性が僕の目の前にはいる。でも、それでいいのだろうか。姉さんは僕と一緒なら外を出歩くことも出来るようになった。でも、それは幸せなことなのだろうか。

 ねえ、姉さん。姉さんは今、幸せかい?

「ああ、早く電話してあげなくちゃ。あいつ何かとうるさいんだよね」

 ご馳走様でした。そう言って姉さんはまた受話器を手に取りソファーに腰掛けた。見ればカルボナーラは綺麗に食べきってしまっている。そう言えばおかわりもしていた。僕は食器を流しへと持っていく。

 重ねた食器と調理器具に流水を注ぐ。フライパンは水に浸していなかったから、固まったソースが取りにくくなってしまっていた。これは骨が折れるかもしれない。

 ふと見上げると、ソファーの上の姉さんは少しイライラしているようだった。電話が繋がらないのかもしれない。もともと電話は繋がってはいないのだけれど。姉さんは指で膝を叩くのを止めて、ふと宙を眺めた。遠く、視線の先にある暗い窓の外よりも遠くを眺めているかのような瞳をしていた。

 不意に僕は、何の前触れもなく、全てを理解した。

「あー、もうすぐ修の二回忌か……」

 呼び出し音が続く電話を耳に当てながら姉さんは呟いた。その瞳は目の前に広がる空間の奥底を眺めているかのようにぼんやりとしている。僕はその瞳が何を見ているのか、今なら分かる。

「ね、ヒロも来てくんないかな、弟の二回忌。あの子に私の彼氏紹介してあげたいんだ。ここまで強くなったよって」

 振り向いた姉さんは少し柔らかく、女性らしくなっていて、どこか悲しそうだった。僕の胸がズキリと痛む。

「ああ、もちろん」

 そう彼は答える。僕の知らない声だ。低くて、でも温かみがある声だ。姉さんはそんな彼の答えにも寂しそうに微笑む。ごめんね。垂れ下がった眉が語りかけていた。

 姉さん、僕はここにいるよ。ずっと姉さんの側にいるんだよ。

 そんな想いが届くなんてことは、もうあの日からないのだけれど、僕は思わず叫んでいた。頬を伝う涙に気が付いたのはどちらが先だったのだろう。僕も姉さんも涙を拭った。

「ありがと」

 姉さんが笑顔になる。僕も笑顔になる。でも二つの笑顔には異なる二つの感情が込められている。いつの間にか繋がるようになっていた電話は、しかし今はまだ繋がってない。



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