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「ハッピータンバリン」byヘボ

 もう一度この目でしっかり見ておこう。そう決心したのは昨日の晩のことだった。私は今古い木造の校舎の前にいる。こげ茶色を通り越して黒一色になってしまったかのように見える木材で建てられたがった校舎だ。私の小学校六年間の思い出が詰まった母校でもある。

 もう三十年以上も前になる。私はこの校舎に通っていた。友達と笑い合い、喧嘩して、日々を過ごしていた。今ではもう断片的にしか思い出すことは出来ないが、そのどれもがセピア色に染まって今の私を支えてくれている。ここで過ごした日々は、私にとって大切な宝物のひとつなのだ。

 そんな思い出の場所を、私は壊さなければならない。

 五年前、この校舎の老朽化を受けて新しく校舎が出来上がった。白を基調とした、コンクリートの校舎だ。子供たちは皆その校舎へ通うようになった。古い木造の校舎があまり好きではなかった子供たちにはかなり評判がいいらしい。二年生の息子が新築の校舎を私に自慢してくれたことをまだ覚えている。なんとも複雑な気分だった。

 木造の旧校舎は廃校となった。何とかして使用しようと、いくつか用途の候補があがったがどれもまとまらなかった。最大の問題は維持費。この先維持するには修復が不可欠だったのだ。いつの間にか旧校舎の用途は話し合われなくなれてしまった。

 そんな所へ、とある企業がマンションを建てる計画を打ち出した。その土地一帯にいくつかのマンションを建てるという、大掛かりなものだった。市から土地を購入した企業は、周辺住民との交渉も上手く行ったため、手始めにこの校舎を壊すのだという。数年後には、新しい小学校に通う小学生を持つ家族がたくさん住むようになるのだそうだ。この町から昔を思い出すことの出来るものがどんどん消え去っていくのが、少しばかり悲しい。

 私は出来ることならこの校舎を壊したくはない。用途がなくなった校舎を利用しようという計画が持ち上がった度に、賛成してきたのだ。しかし、会社がこの校舎の取り壊しの仕事を受けた。私はその責任者となってしまった。嫌な仕事だ。辛い仕事だ。だが、仕事はこなさなければならない。私はこの校舎を壊さなければならない。

 だからその前に一度、思い出の場所を見ておきたかった。これから破壊する場所を、仕事の責任者としてではなく、この場所を卒業したひとりの生徒として見ておきたかったのだ。

 空は高く青く、冬だというのに風もなく、春のように暖かい。私は一歩、校舎へ向かって歩き出した。今日が本当に最後の登校日となる。

 玄関は、当たり前というべきか、しっかりと施錠がしてあった。私はポケットから鍵を取り出し、戸を開けた。快く鍵を貸してくれた市役所の役人に感謝した。

 校舎はうっすら積もった埃と滞った空気に満たされていた。日が差し込んで空気が温まったのだろう、心地よい温もりが私を迎えてくれた。倉庫に仕舞い込んだひとつひとつ思い出を探し出すように私は校舎の中を歩いていく。

 友達と馬鹿みたいに走り回った廊下。二段飛ばしで駆け上がった階段。箒でちゃんばらをしていて叱られた教室。野球をしていて割ってしまった窓ガラス。まるで昔の自分がそこにいるのを眺めるかのように、次々と記憶はよみがえり、弾けていった。

 やっぱり壊したくない。ここは代わるもののない、ただひとつの場所なのだ。そうかつて座っていた机をなぞりながら思った。椅子を引き、随分小さくなってしまった机に向かってみる。しん、と静まり誰もいない教室に昔の同級生の姿が重なっていく。

 誰かの席に集まっておしゃべりをしている女の子たち。どたばたと走り回っている男の子たち。ひとり机に座って本を読んでいる子もいれば、日直として黒板を消している子もいる。あの日々のみんなの声が聞こえてくるかのようだ。

 でも、仕方がない。苦笑が自然と顔を覆い、私は俯いた。仕事なのだから。個人がどうこうものを言えることじゃないのだから。責任者なんだ、私は。ここを壊さなければならないのだ。

 顔を上げる。同級生の影は、いつの間にか消えてしまっていた。教室には誰もいない。この校舎には誰もいない。時代は変わるのだ。私は席を立つ。未練はもうない。最後にこの目で見ることが出来たのだから。そう言い聞かせ、教室を出て廊下を歩く。この校舎からは永遠に卒業するのだ。わびしさは苦笑となって固執する私自身を笑っていた。

 それが聞こえたのは階段を降りようとしていた時のことだった。廊下の奥から歌声が響いてきた。

 私は驚いて振り返る。しかし、そこには無人の廊下が広がっていただけだった。空耳かと思いながらも、歌が聞こえた廊下の先をじっと見つめていた私は、今度こそ本当に心底仰天した。男の子がひとり、突き当りのT字になっている廊下を走り去っていったのだ。

 私は信じられない思いでそこへ駆けていく。ここに子供がいるはずがない。では今目にした少年は一体何なのだ。男の子が走ったはずの廊下は、埃に覆われたままだった。足跡ひとつない。私は男の子が走り去っていった先を見る。ひとつだけ、教室の扉が開いていた。音楽室というプレートが懸かっていた。

 内心怯えながらも、私はゆっくりと音楽室へ向かう。そういえば息子が旧校舎のお化けなる話を私にしてくれたことがあった。確か音楽室がどうたらと言っていたような気がする。

 部屋の前に着く。そっと中を覗いてみる。誰もいない。少し薄ら寒くなりながらも私は音楽室の中に入ってみた。教室の真ん中にタンバリンがひとつ落ちていた。

 なんとも意味深なタンバリンだった。随分古く、小さなシンバルの部分は全て錆びてしまっている。木枠も日に焼けて色褪せている。しかし不思議なことに埃に塗れていないようである。先ほどの足音と笑い声、そして少年の秘密が全てここに詰まっているかのように思われる。

 少し恐ろしくはあるものの、私はタンバリンを拾うことにした。気になったことは確かめてみたくなる性格なのだ。

 膝を付き、そっと手を伸ばす。鼓動が早くなっているのがよく分かる。じわりじわり縮まる距離。ええい、なるようになってしまえ。私は覚悟を決め、タンバリンを手に取った。

 瞬間、脳裏に不思議な映像が流れ込んできた。子供たちの後姿。聞こえてくる歌声。どうやら映像は音楽室を見ているらしい。視点は少し高いところから。響くリコーダーの音色。教室から出て行く子供たち。静かな教室。新しくやってくる子供たち。変わる歌声。背の高さ。時々激しく上下しながら、振動する映像。

 タンバリンの思い出だ。このタンバリンの。そう自然に気が付いた時、声が聞こえた。幼い男の子の声だった。

『どうしてみんな来なくなっちゃったんだろう。あんなに楽しかったのに飽きちゃったのかな』

 周りには誰もいない。私しかいない。けれど聞こえた。タンバリンの声がはっきりと聞こえたのだ。

 私は立ち上がり、手にしたタンバリンを見つめた。見れば見るほどに古臭いタンバリンだった。だが、こいつは何も知らず、何も知らされずただみんなを待っていた。廃校になり、笑い声も足音もしなくなった学校の音楽室で、楽しかった日々を思い出しながらひとり待っていたのだ。誰かが来ることを。また歌声が響くことを。

「馬鹿だなぁ」

 そう呟いてしまった。もうここは取り壊されることになったというのに。子供たちはすっかり新校舎を気に入ってしまっているというのに。私はタンバリンをそっと抱きしめていた。

 形あるものはいつかその姿を消す。必ずその時はやってくる。積み重なった思い出もそうなのだろうか。違うような気がする。記憶は伝えられるし、誰かの中で生き続けることが出来るからだ。

 ならば、この校舎に詰まった記憶であっても、たとえそれがものに宿った記憶だとしても残り続けるのではないだろうか。

 冬の日は短い。車に戻った私は、次第に深くなっていく夜空を眺めた。やはり夜になると寒くなってくるものだなあとしみじみ思った。

 今私の車の助手席にはタンバリンがある。音楽室にあったタンバリンだ。輝いていた思い出をたっぷり詰め込んだハッピータンバリンだ。

 最後の登校日に学校の備品を盗んでしまったのだが、まあ誰も文句は言わないだろうと思う。言ったとしても返す気はない。これだけは返さない。タンバリンは新校舎に送るのだ。それが一番だと思う。

「お疲れ様でした」

 そう校舎に別れを告げて、私は車を発進させた。

 幾億年も夜空を照らす月が、私たちを照らしていた。

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