表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/36

「蛍火」byヘボ

 雲が空一面に広がっていた。白く白く、その内に仄かな灰色を混ぜ込んだ雲は、風に流されているのか、それとも静かに佇んでいるのか分からないくらいにのっべり広く空を覆っていた。

 風が吹く。強く吹く。雲を見上げていた私は思わず目を閉じ首を竦めた。冷たい冷たい北風か、私の側を通り過ぎていく。逸れた親を探す子どものような心細さが不意に頭をもたげた。冬はいつだって人を孤独へと誘う。

 雪はいつ降るのだろう。ふと思った。もう随分と寒くなってきているのに、天気予報はいつも積雪の恐れがありますと繰り返すばかりで、肝心の雪はまだ一度も降っていない。早く降ればいいのに。少し、もどかしくなる。

 風が止む。ゆっくりと目を開けた。目の前には変わらず、私以外に誰もいない並木道がまっすぐ延びている。秋には輝くばかりの黄色の葉を大きく広げていたイチョウの木々は、今ではそのとがった枝を虚しく空に向かって突き立てているだけだ。色褪せた並木道は閑散とした寂しさを漂わせながら冬を耐えている。薄く延ばした灰色が並木道に被さっているかのようだった。

 そんな景色をぼんやりと眺めてから、私は再び歩き出した。目的地はもうすぐそこだ。大切な人のお墓。なかなか来ることが出来なかった場所。私は黒のロングコートのポケットに手を突っ込んで、のんびりするわけでもなく、急ぐわけでもなく、歩いていく。こつこつと靴が鳴り響く。音は、乾いた冬の空気の中に溶け込んで消えていく。時折吹きつける強い風が木々の間を駆け抜けていった。

 私は誠治くんのことを思い出していた。いつも片手にスケッチブックを抱え、目に映る景色を、輝く光景を描き残そうしていた誠治くんのことを。

 公園で、河川敷で、時には人通りの多い道に面した喫茶店で絵を描いていた彼。そのスケッチブックには、一体どんな絵が描かれているのだろうと、彼の姿を目にする度に思った。スケッチブックと描く景色との間を何度も行き来する彼の表情を見ていると、なんとなく描かれている絵を見たくなってしまうのだ。

 それはきっと、彼の表情がよかったからなんだと思う。誠治くんが絵を描く時、その表情はいつも生き生きしていて、目が輝いていて、彼の姿を見ているだけで自然と口がほころんでしまうような、元気を分けてもらえるような表情をしていたのだ。

 そんな誠治くんと私が互いの名前を知ったのは、麗らかな陽射しが穏やかに地上を照らしていたある春の休日のことだった。私が中学生になって初めての春だった。気持のいい春の太陽に誘われて当てもなくぶらついていた私は、誠治くんと小さな公園でばったり出くわしたのだ。かなり驚いていた。彼はいつものようにスケッチブックを前に熱心に風景を描いていた。

「何、描いてるんですか?」

 そっと近づいて、そう尋ねてみた。誠治くんを見た瞬間に、何だか声をかけたくなっていたのだ。と言っても、話したこともなければ、こちらが一方的に知っていただけの人に声をかけるというのは、かなり緊張することだった。文字通り、心臓は飛び出るんじゃないかと思うほどに高鳴っていた。普段はそんなことはしないはずだったのに。春の陽射しが私をちょっと大胆にさせていた。

 彼はスケッチブックから目を上げると、私をじっと見つめた。それからまたスケッチブックに視線を戻してしまった。ちょっと落ち込んだ。ため息も出そうになった。でもそんな時、おいでおいでと招く彼の手に気がついた。周りの景色が少し明るくなった気がした。

 それが私が誠治くんの絵を目にした初めての時だった。遊具も少ない、芝生なんてない、でもちょっとだけ光り輝いているかのような小さな公園がスケッチブックの中に広がっていた。見ているだけで楽しくなってくる気がする。そんな素敵な公園だった。

 私は感嘆の声しか出なかった。それ以外にその時の感動を私は表すことが出来なかった。綺麗ですね、とか、うまいですね、なんて言葉は安っぽくなってしまうと感じていた。私は描かれた公園を食い入るように見つめていた。

 そんな私の側で、誠治くんは恥ずかしそうに頭を掻いていた。親しくない人に対しては寡黙になってしまう人だったから、気まぐれで見せた絵に対する私の反応にかなり困ってしまっていたのだと思う。けれど、彼は私に他の絵も見るかどうか尋ねてくれた。私は喜んで頷いた。

 スケッチブックには様々な景色が描き込まれていた。木漏れ日が差し込む深い森林。慌ただしさの中に沢山の無関心が詰まっている駅のホーム。煌めくせせらぎの側で咲く満開の桜。水性の色鉛筆の優しいタッチで描かれたそれらの景色には、それぞれがそれぞれの光が宿っているかのようだった。ああ、やっぱりこの人が描く絵なんだ。今まで目にしてきた彼の姿と絵が私の中でカチリと合わさった。絵の隅っこに書かれたサインを見て、初めて彼の名前を知った。

 絵を見終わった私は、感動のあまり誠治くんに今まで何度か目にしたこととか、スケッチブックの中身が気になっていたことなどを一気にまくしたててしまった。途中で自己紹介もしてないことに気がついた。

「あ、私、栞って言います。今年中学生になりました。……あの、その、誠治って名前なんですね……」

 喋りながら、だんだんと声は萎んでいってしまった。舞い上がっていた自分が恥ずかしくて堪らなくなった。こっそり見上げると、そこには困ったように笑う彼の表情があった。その表情の中にどこか心地よい親しみがあるのを感じた。ちょうど目が合った。何だかわけもなくおかしくなってきて、ちょっとだけ笑ってしまった。そんな私を見て、誠治くんは今度こそ満面の笑みを浮かべてくれた。

 それから私と誠治くんは度々会うようになった。ちょっとした付き合いが始まったのだ。気持のいい春の一日の出会い。私たちは幸せだったんだと思う。

 そんな日からもう六年が経とうとしている。今私の目の前には誠治くんのお墓がある。物言わぬ石の造形だ。何度と会って、他愛ない言葉を交し、一緒の時間を過ごした誠治くんが眠っている。私が高校生になって、変わった環境に流されて、しばらく誠治くんと会わなかった間に彼はここまでやってきてしまった。

 その事故を私が知ったのは、高一の冬。凍てつく空気が肌に突き刺さるかのように寒い日のことだった。酒気帯び運転の車に撥ねられた彼の十九年は、あっけなく終わってしまったのだ。

 出会ってから二年目の冬、冷たい北風が強く吹く、ちょうど今日のような日に、誠治くんと交した会話を私はまだ覚えている。蛍の話だった。冬に現れる蛍の話。

「知ってる? 蛍ってさ、実は冬にもいるんだよ。ん、幼虫じゃないよ。成虫。光る蛍がいるんだ。どこにって、空から降ってくるんだよ。ふわふわふわふわちょっと光りながら。雪かぁ。まあ、そうも言うね。でも栞ちゃんになら絶対見えるよ。冬の蛍。すっごく綺麗なんだ」

 思い出したのは去年の今頃。校舎から外の景色を眺めていた時だった。その日、私は空から降り始めた初雪を見た。

 誠治くんさあ、あれって、雪は雪でも初雪のことだったんだよね。初めて聞いた時はさ、くっさいこと言ってるよってあきれちゃったけどさ、あの雪を見てたら冬の蛍って言いたくなったのも分かる気がしたよ。綺麗だった。でもさ、やっぱりかなり恥ずかしい言葉だったよね。思い出して、顔紅くなりそうだったもん。わーって込み上げるものがあってさ、叫びたくなっちゃった。

 そう心の中で語りかける。絵の輝きを教えてくれた人に。通り過ぎてしまった大切な人に。

 去年の秋、高校の文化展に私は一枚の絵を送った。その絵は金賞を受賞した。高校最後の夏に描いた、灰色の空から降ってくる初雪の景色。『蛍火』。そう名付けた。誠治くんが教えてくれた冬の蛍の絵。たくさんの想いを輝きに込めて、精一杯描ききった。描ききって、涙が溢れそうになった。

 誠治くん、ありがとう。あなたに出会えて本当によかった。おんなじ時間を過ごせた本当によかった。絵の輝きを教えてくれてありがとう。楽しかった時間をありがとう。たくさんのことをありがとう。

 そして、さよなら。

 合わせていた手を離して、私は誠治くんの墓前から立ち上がる。じゃあね、そう手を振ってお墓を後にする。墓前には一枚、白いハルジオンの花の絵を供えてきた。

 私はこの街を出ようと思う。知らない街を、景色を、その輝きを自分の目で見てみようと思う。描き残したいのだ。誠治くんがそうしていたように。光を残したいのだ。見えない光を。美しい光を。

 ふと白いものがちらついているのに気がついた。見上げると、白く灰色を混ぜ込んだ一面の雲から、淡く光っているかのような雪が降ってきていた。

「蛍火……」

 呟いて、少し笑った。熱くなった目頭を力強く拭った。ねえ、そこからも見えてるのかな。

 私は再び歩き始める。強く、出来るだけ大きく。たぶんここにはもう二度と来ないだろうから。振り返らないために、前を向くために。

 光はどこにでも隠れているのだから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ