「モノトーンの歌にのせて」byジル
あなたは覚えていますか?
あなたを優しく抱きながら、歌ってくれたあの歌を。
ICUの硬いベッドの上で、彼女は両手両足を縛り付けられ、口元のマスクと、色の変わってしまった腕に刺された針で、命をつないでいた。
私はその横に座って、彼女の細い脛を、ずっとさすっていた。その足は骨そのもののようで、でもむくんだその肌は、死んだ鳥肉のように鈍くつややかで。まるで人の肌とは思えないような熱さだけが、彼女が生きていることの証のようだ。
ぜいぜいというのどのなる声と、まるで全力疾走したあとのように膨らんではしぼむ胸。うっすらと開いた目。その奥の白い眼球。その目が私を映すことは、もうないのだろうか。マスクに覆われた口が、私の名を呼んでくれることは、もう、二度とないのだろうか。
この数年は、まるで地獄のようだった。
アルツハイマーに犯された彼女は、記憶と引き換えにだんだんと幼さを取り戻していき、感情のままに振舞った。おなかがすいたと泣き喚き、障子を破って嬉しげに笑い、表情を消した顔のまま、どこかを見つめた。昔の話を昨日のことのように何度も繰り返し、今話したことさえ忘れて、また何度も繰り返す。幾度目かの徘徊の後、散々探し回った挙句に保護された交番に引き取りに行った夜、私を見て「誰?」 ときいた彼女の顔を、忘れることができない。
私はあんたの娘だよ。
もう、何もかもやるせなく、そうわめいた私に彼女は言った。「私に子供はいないわ」 そう言った口で、彼女は私に、小さな私のことを話して聞かせる。もう嫌。狭いコンクリートに囲まれた交番の中で反響した、私の手が彼女の頬をはたく音。あっけにとられ、今にも泣き出しそうに歪む顔。雨に濡れて額に張り付いた髪を伝って落ちる水滴。泣きたいのは私だ。あわてて間に入り、止めようとするおまわりさんを振り払おうともがく私を見る、恐怖に震える彼女の目。
どうしてそんな目で私を見るのよ。
親子の情愛などというものは、延々と続く介護の中で、とっくに磨り減ってなくなっていた。私が彼女の世話をしているのは、ただ、体裁と惰性のためだけ。だから、秋の終わりの冷たい雨が降ったその日、私と彼女しかいないはずの家の玄関がからからと開いた音を聞いたとき、それが彼女の出て行った音だと分かっていながら放っていたのだ。夫と娘が帰ってきて、なぜ目を離したんだと私をなじっても、それのどこが悪いんだって思っていた。いつも彼女の世話をするわけでもなく、ただ厄介者扱いしているだけのあんたたちが何を言ってるんだ。
彼女は、あんたたちの母親じゃない。私の、母親だった人だ。あんたたちには関係ない。それなのに、体裁を気にして私を責めるのか。
結局彼女は、冷たい雨に打たれたせいで風邪をひき、肺炎を発症して病院に入った。病室でも、彼女はまるで子供のようで、点滴を嫌がって針を抜き、院内を徘徊するということを繰り返した。最初は、快方に向かうと見られていた病状も、そんな彼女の行動が招いたのだろう、ついにはSARSも併発し、点滴を抜いたり出来ないように、手足をベッドにくくりつけられる羽目になった。
彼女は泣いた。手足の自由を取り戻そうともがいた。たとえ、紐を解いたとしても、すでに自由に動くことのできる体力など残っていないにもかかわらず。
わたしは、できることなら病院になどきたくはなかった。縄を解いてと、ろれつの回らない言葉で訴える声と目から、逃れたかった。介護から自由になったのに、その光景が、私を縛った。
だけど、治療は順調に進まず、アルツハイマーの進行とあいまって、彼女はだんだんと動きをなくしていった。それにつれて、彼女は本当の子供のような、無邪気な表情を見せるようになった。そのころには、医師の言葉には諦めの響きが混じるようになっていた。手足を縛る紐は、とっくに解かれていた。もう、自分の意志で何かをすることは、ないということだろう。それでやっと、私は彼女の娘という役割を演じることが出来るようになった。毎日病室に訪れ、着替えさせ、身体を拭いてやり、髪に櫛を通し。まるで、親子が逆転したような、だけど、何か人形とままごとをしているかのような、嘘くさい毎日。
だけど、今夜になって容態の急変を知らされ、一度戻った家から駆けつけた私が見たのは、生きているのではない、ただ点滴と酸素吸入によって生かされているだけの、苦しげに顔をゆがめた彼女だった。
どんなに声をかけても、まるで聞こえていないようだ。ただ、荒い息と時折もれるうめき声、そして、再び縛り付けられた四肢が、紐を引く音。私は先生を見上げた。
もう十分です。楽にしてあげてください。
しかし彼は首を振り、病室から出て行った。どうして? もう十分苦しんだじゃない。お願いだから、私を楽にしてよ。
私は、崩れるように、彼女の眠るベッドに突っ伏した。そして、泣いた。いつまで私は苦しんだらいい。でも大丈夫だ。もう少しだ。もうすぐなんだ。先生は、今夜か明日が山だと言った。それを超えてしまえば、私はもう一度彼女の娘を演じられる。楽になれる。私は彼女の死を願っている。それが情けなくて、涙が止まらなかった。彼女がもがき、ベッドがきしむ音、喘鳴、そしてくぐもったうめき声がきれぎれに聞こえる。
うめき声?
私は顔を上げた。吸入マスクをつけたままの顔を傾けて、彼女が私を見ていた。縛られた右腕が、私をなでようとするかのように伸ばされていた。くぐもった声は、聞き覚えのある音階をたどたどしくなぞっていた。
ああ、それは。
私の視界に映る景色が、色を失っていく。まだ若い彼女が、歌っている。蚊取り線香の煙の中で、タオルケットを蹴散らす私にうちわで風を送りながら。私もそれを聞いている。風邪で咳き込みながら、額に乗る氷嚢の、氷の音をバックにして。彼女は、何度も何度もその歌を歌い、私は何度も何度も、その歌を聞いた。
母さん!
私は、彼女の右手を縛る紐を解いて、胸に抱き、握り締めた。
ねえ、お願いだから死なないでよぉ。
私は、彼女の身体にしがみついた。
彼女の手が、私の背中をゆっくりとなでた。息が穏やかになり、そして、微笑んだ。
母さんが息を引き取ったとき、私は、涙でかれた声で、その歌をそっと歌っていた。母さんに教わり、そして自分も歌ってきたその歌は、きっと私の娘も歌ってくれる。親子の絆なんてものは、それで十分だ。
ねえ、母さん。
(fin)