「例えばたった一つの笑顔のために」by豆腐
「あたし、死ねる」
突然の由佳里の宣言に、達郎は茶を吹いた。
結婚して六年。三年前には愛娘である桃花も誕生し、家族三人、裕福ではないが幸せに暮らしている。
日曜の午後、昼寝する桃花を見て、ふと達郎がいったのだ。たとえば、桃花の笑顔のために何ができる、と。
「おまえ……どうしてそこで生死の問題になるんだ。おまえが死ぬと桃花が笑うのか」
由佳里は怒ったように達郎を睨みつけた。
「なによ、真剣に考えたのに。たとえば桃花がものすごい難病に冒されたとして、生きた心臓がないと治らないっていうなら、あたしは迷わず自分の心臓をあげられるってことよ」
なるほど、と達郎は一応納得してみせる。
しかし、すぐに首を振った。
「いやちょっと待て、そういうことなら俺も迷わず死ねる……いや、違う、やっぱりそういうことではなくてだな」
「じゃあなに」
いい歳なのに唇を尖らせて、詰め寄ってくる。こうなってしまっては、どうやっても口では勝てないので、達郎は少し話題の方向を変えた。
「おまえな、そんなんだと、いまに桃花から『ママうざーい』とかいわれるぞ。プチ家出とかするようになるんだぞ。過保護はいかん、過保護は」
由佳里はさらに目を三角にした。
「じゃあ、心臓が必要な娘にそのまま死ねっていえっていうの」
「違うだろ、そうじゃない」
やはり勝てそうになかった。
達郎は咳払いをして、新聞を手に取った。自分でも不自然だとは思いながらも、熱心に読み始めるふりをする。しかし、まだ妻からの鋭い視線を感じる。どうしたものか。
意外なところから、助け船が出た。隣の和室から、桃花が起き出してきたのだ。
「ママー……」
目をこすりながら、なぜか毛布をひきずって、リビングにやってくる。ママ、と呼んだのに、ソファに座る達郎の隣にちょこんと落ち着いた。まだ少し眠たそうに、目をこすっている。
「あら、おはよう、桃花。今日はあんまり寝ないのね。いいの?」
由佳里がすぐに桃花の側へ行く。起き抜けの娘をあまり放っておくと、すぐにぐずり始めるのだ。
桃花は、こくりとうなずいた。いいの、とかわいらしい声。
「そうだ、ねえ、桃花」
由佳里は目を輝かせ、桃花の隣に腰をおろした。ビッグサイズとはいえ、二人がけのソファだ。達郎が追いやられるように、脇に寄る。
「桃花だったら、ママが笑顔になるために、なにをする?」
ばかじゃないのか、と達郎は思った。三歳児に何を求めているのか。
桃花は、きょとんと由佳里の目を見つめ、ゆっくりと一回、瞬きをした。
それから、ごくあたりまえのように、
「ちゅうする」
と、小悪魔の片鱗をかいま見せた。思わぬクリティカルヒットに、由佳里は額を押さえて天井を仰ぐ。それは嬉しすぎる。
「じゃあ、もし、ちゅうでもだめだったら?」
どうにか復活して、そんな「もし」はあり得なかったが、もう一度聞いた。由佳里とそっくりな仕草で唇を突き出し、桃花は真剣に考え始める。
「……じゃあ、ママと結婚して、ママを守ってあげる」
「桃花!」
由佳里は感動のあまり娘を抱きしめ、力の限りほおずりをした。
その隣で、達郎が、いかにも心外だといった様子で割り込もうとする。
「ま、待て桃花、結婚はパパとするっていってたじゃないか」
「パパともするー」
「日本の法律ではな、一人としか結婚できないんだぞ」
他の法律はすっとばして、そこだけ強調する。桃花は「でもするの」といって引かなかった。結局、達郎も桃花を抱きしめ、家族三人団子のようになった。
達郎にも、由佳里にも、わかっていた。
これは永遠ではない。
もちろん、結婚など、できるはずもない。
桃花だって、両親を疎ましく思うときが来るのだろう。
桃花だって、いつかは嫁に行くのだろう。
けれど、あともう少しだけ、どうかこのままで。