「鐘はいつまでも鳴り響き」by豆腐
まだ鳴りやまない。
あの日の、あの音。
「ねえ、どうしてこっちなの? さっきの交差点、右折の方が近道だよ」
そんなことは知っていた。
おれはハンドルを握ったままで、ちらりと左に目をやる。ロングヘアの毛先をいつものように弄びながら、ただ不思議そうに、佳奈がこちらを見ている。
おれは視線を戻した。わざと大げさに、ため息をつく。
「おまえ、それはあれか、おれの運転テクニックを試そうってか。保険料が値上がりの一途をたどる、このおれの」
「あはは、そっか、難しいか」
けらけらと声をあげ、佳奈は笑った。思いがけず彼女の笑顔が見られたことに、おれはこっそりと幸せを感じる。
木下佳奈。つきあって丸一年になる。好奇心に満ちた大きな目も、トラブルを気にするわりには綺麗な肌も、少し低い背丈も、無意識に毛先をいじる癖も、すべてが気に入っている。
もちろんそんなこと、口に出していってやるほど、おれは恥ずかしい人間ではない。
くるくると指に髪を巻きつけながら、彼女は思い出したように続けた。
「それに、あっちは近いけど、開かずの踏切があるもんね。もしハマっちゃったら、逆に遅くなっちゃうかも」
「……よく知ってんなー。ガキのころちょっと住んでただけなんだろ」
おれは素直に感心した。佳奈のいうとおり、彼女の示した道は近道ではあるが、一度閉まるとなかなか開かない踏切を通過しなくてはならない。地元では有名な、開かずの踏切だ。付け加えるなら、そこに至る路地は幅が狭く、車一台通るのがやっとだ。近道と知っていても、おれのようにわざわざ避けるやつは多い。
「ちょっとじゃないよ、何年かいたよ。よく行った駄菓子屋とかも、全部覚えてる」
「相変わらず食い意地がはってますなー」
「あ、またそういうこという」
子供みたいに頬をふくらませる。狙っているんだか狙っていないんだか、ともかくおれは佳奈のこの顔がお気に入りなので、ときどきわざと怒らせてみたりする。
おれたちの始まりは、笑ってしまうほどありきたりなものだ。大学で同じサークルに所属、話していくうちに、お互いの地元が同じだと判明。そこから意気投合──そこら中にごまんと溢れている出会いのドラマ。……まあそれでも、おれはそのチープなドラマに感謝しているわけだが。
そうこうしているうちに、最寄り駅に到着した。スロープに入り、ゆっくりと停車。
「ありがと。また明日、学校でね」
「おう」
白いスカートをふわりを揺らし、佳奈は小走りに去っていった。少し名残惜しい気持ちで見送りながら、俺はハンドルを握る。運転は得意ではないのだ。ライトをつけなくてはならなくなる前に、帰ってしまいたい。
ウィンカーを出し、ハンドルを切って、アクセルを踏もうとする。
──不意に、踏切の鐘の音が、聞こえてきた。
おれは、どきりとした。
駅のすぐ西側にある踏切だ。ここにいれば、聞こえてくるのはあたりまえのことなのに。
脳裏にずっと響いている、鐘の音と重なる。
そのまま、おれの中のすべてが、止まってしまったような錯覚に陥った。
やめてくれ。
その音をとめてくれ。
どうか、どうか……もし、できるのなら、おれは────
クラクションを鳴らされ、我に返った。おれは慌てて、右足に力を込めた。
そもそも、佳奈があんなことをいいだしたのが悪い。
しかし、そんなことを悔やんでも、しようがなかった。
おれは夢の中で、ひどく無邪気な少年になっていた。
なにもかもに守られ、なにもかもを得られると信じ、怖いものなどなにひとつなかったあのころ。
どこまでも自由だった、愚かなあのころ。
カンカンカンカン──
踏切が鳴っている。
開かずの踏切。
幼いおれは舌打ちした。踏切を越えた公園で、クラスの友人と野球をする約束だった。
こんなところで、足止めを食っている場合ではない。
おれは、右と左とに、ずっと延びる線路を、せわしなく交互に見た。
これだけ見通しが良いのに、電車が来る気配などない。ちょっと遮断機をくぐって、一気に走り抜ければ、向こう側に行ける。たったそれだけの話だ。
おれは意を決した。
ひょいとしゃがんで、線路の中に入った。
「──ダメよ! 危ないわ!」
女の人の声がした。誰もいないと思ったのに、いつの間に来たのだろう。おれは心臓を捕まれたような気になって、身を縮こまらせた。
しかし、まさにその一瞬のためらいが、余計だった。
「走って!」
怒鳴るような声。右側から、想像もつかないぐらいの勢いで──でもなぜか、妙にゆっくりと──電車が迫ってくるのが見えた。
走れ、走れ──脳が命令を送る。動かない。動けない。なぜ?
どん、と背中を押された。
おれは突き飛ばされ、全身をしたたかに打ち付けた。足先のすぐ向こうを、恐ろしい速さで、白い箱が通っていく。
どこからか悲鳴が聞こえた。それが誰の悲鳴なのかはわからない。もしかしたら、おれのものだったのかもしれない。
おれはほとんど無意識に立ち上がった。
そのまま振り返らずに走った。
後ろで何が起こったのかなど、考えたくもなかった。
何もかもを、事実さえも置き去りにしたくて、とにかく走った。
それから、あの鐘の音は、止んだことがない。
「ねえ、聞いてるの?」
大きな瞳がおれを見上げていた。
おれははっとした。
あれから毎晩見る夢が、とうとう白昼夢となって現れたのかと思った。
「──えと……ああ、うん」
自分でもバカみたいだと思いながら、適当に相づちを打つ。机の上の資料を見て、ゆっくりと状況を思い出した。ゼミのレポートを、佳奈と二人、仕上げているところだったのだ。
「もう、私、帰る」
頬をふくらませ、立ち上がる佳奈の姿に、おれは完全に寝起きのテンションで、駆け引きも忘れて焦ってしまった。
「え、や、悪い! 違うんだ、ちょっと調子悪くて……」
「ほら、聞いてなかった。だから、そろそろ帰んなくちゃいけないから、駅まで送ってってば」
やられた──おれは頭を抱えた。このままでは、主導権を持って行かれてしまう。
断る理由もなく家を出ると、ガレージに車の姿がなかった。滅多に乗らない親が乗っていってしまったらしい。
「あー、しまった。自分の車欲しいなあ、やっぱ」
「いいじゃん、近いんだし。歩こうよ」
佳奈が嬉しそうに右手を差し出す。──どこで知り合いが見ているかわからないのに、つなげって?
おれはむっつりとしながらも、その手を握った。
抱き合うより、キスをするより、こういう方が恥ずかしい。
「近いっつっても、歩くと二十分はかかるぞ」
自分でも照れ隠しだということがバレバレな悪態が口をつく。佳奈はくすくすと笑った。
「いいよ、懐かしいし、お散歩がてら。私の好きな道、通っていい?」
佳奈は本当に記憶力が良いようだった。
今も尚営業中の、おれも昔は世話になった昭和感溢れる駄菓子屋の横を通り、いまではスーパーになってしまった過去の空き地の前を通り──ぎりぎりで学区が違うので、幼いころはお互いの存在など知らなかったが、それでも記憶を共有しているというのは、妙な気分だった。
おれは恐らく、舞い上がっていたのだろう。
嬉しそうに思い出を語る佳奈と手をつないだまま、いつもよりもゆっくり歩く。いま自分がどこを歩いているのかなど、意識していなかった。
「ここ、よくお母さんと行ったんだ。あ、このパン屋も。懐かしいなあ」
大きな瞳をくるくると動かして、佳奈が思い出を語る。
幼い佳奈と、若くして亡くなったのだという、見たこともない母親の姿が、目の前にあるような気になった。
こうやって、何十年先も、思い出を──そのときは、正真正銘共有している思い出を──語り合えるといいと、ふと思う。
おれは幸せだった。
だから、たぶん──ばちがあたったのだ。
カンカンカンカン──
踏切の鐘の音。
いつの間にか、開かずの踏切の前にいた。
遮断機が、ゆっくりと降りていく。
「あーあ、引っかかっちゃった。長いのにね」
佳奈が頬をふくらませる。つないでいた右手を離し、毛先をいじり始める。
急に寡黙になったおれには気づかず、佳奈は一歩前へ出ると、左右を注意深く見た。
「ね、通っちゃおうよ。まだ来ないみたいだし」
無邪気な光をその瞳に宿して、にんまりと笑う。
「お、おい──それは」
声がうわずった。
かまわずに、佳奈は遮断機をくぐる。
記憶と、今とが、頭の中で入り交じる。
右の方から、電車がやってくる。
よせばいいのに、おれは叫んでいた。
「危ない、走れ──!」
佳奈はひどくゆっくりと振り返り、微笑んだ。
まるであたりまえのように、ふわりと両手を広げる。
おいで、と。
おれは走った。力任せに佳奈を突き飛ばした。
すぐ近くに、白い箱が迫っている。
ああ、どうか、彼女だけでも無事に──
遠いあの日の悲鳴が、聞こえた気がした。
幼いおれが、今度こそ振り返り、背後で起こった事実をしっかりと見ていた。
人形のように跳ぶ身体。
走り抜ける白い箱。
その向こうで、悲鳴を上げる、おれと同じぐらいの幼い少女──
「母さん──!」
少女の目は大きく、好奇心に満ちていて、背は決して高くはなく──
そう、それはまるで
真っ暗になった。
それでもまだ、鐘は鳴りやまない。
暗闇の中で、なぜか、佳奈の満面の笑みが見えた気がした。
ああ、良かった──君が幸せに笑うのなら、それで。