「鐘はいつまでも鳴り響き」byケン
ふと見上げると、雲一つない快晴の空はどこまでも広がっている。
僕はその空に手を伸ばすけど、届くはずもない。
「たっくん、なーにやってんの」
不意に話しかけられて、思わず手を引っ込める。
「なにかっこつけてんのよ〜」
そう、笑いながら歩いてくる彼女は、光という名を持つ。その名の通り、眩しすぎるほどの存在だ。ちなみに、たっくんと呼ばれた僕は拓史という名前。
僕と光は小学校から同じで、中学・高校も同じ。常にクラスのマドンナ的存在の彼女――。
そんな彼女と、僕はまさかの結婚を果たせるのだ。
付き合い始めたのは高校のときだった。
彼女がいきなり告白してきたことがきっかけだった。
でも、僕はすぐには返事を返さなかった。
なぜなら――その時、僕には彼女がすでにいたから。
「たっくん。外を散歩しようよ」
昔の事を考えていたが、彼女の声で現実に戻った。
「おう」
さっきまで横になっていた庭の芝生から立ち上がり、外に出る。
光は僕の腕に手を回す。
胸が当たりそうになってドキドキしながら、少し散歩する。
こういうのを、幸せって言うのかな。
散歩のコースはいつも通り。
道なりに沿っていくと、広い場所に出る。そこは、小さな丘である。
そして、丘の上には、またまた小さな鐘。
ここに来る度に思い出す。2つの思い出を――。
1つは、光との思い出だ。
告白されたときもこの丘の上だった。
僕がプロポーズしたときもこの丘の上だった。
2人で小さな小さな鐘を鳴らした――。
そして、もう1つの思い出は……。
「……くん! たっくんてばっ!」
「あ、うん。ゴメン。ぼーっとしてた」
どうやらずっと呼ばれていたらしい。どうも考え事をすると自分の世界に入ってしまう。
それでもすぐに許してくれる光は、この世で最高の女性に違いない。いや、少なくとも僕はそう思っている。
「まぁいいや。それより、丘の上に登ろっ!」
光に手を引っ張られて丘を登る。
風が強いな……。鐘が勝手に鳴っている。
この丘に登ると、いつも風が強い。
コーン……コーン……
鐘の音は弱々しく、だが心に響く音色だ。
それはまるで僕と光を祝福しているかのように……。
プルル……プルル……
ふと電話が鳴って、携帯の画面を見る。
『理奈』と表示された画面に、一瞬焦るが、すぐに電話を取る。
「……もしもし? 理奈?」
「……うん」
小さく答えた理奈は、少し間を開けて言った。
「今日……会えない?」
「えっ」
その問いに戸惑ったが、すぐに答えた。
「いいよ」
初めて光にウソをついた。
理奈に呼び出されたのに、光には『仕事』と言って出てきた。
暗い空は僕をどう思ってるのかな? なんて、意味のない質問をしてみるが、答えは返ってくるはずもない。
トボトボと歩いていると、ある店で立ち止まる。
『居酒屋 理史』
理奈と拓史の名前が入ったこの店に、2人は好感を抱いていた。
「いらっしゃい」
そう言われて入ると、店はほとんど変わっていない。
見ると、既に理奈は席に座っている。
「……理奈」
声がかすれる。なんで緊張なんてしてるんだろう。
「拓史。座りなよ」
促されてやっと席に着く。だが、何を話していいのかがわからない。
沈黙を破ったのは理奈だった。しかも、思いがけない話で。
「私……やっぱりまだ拓史のこと好き」
僕は聞き間違えたのかと思ったほど訳がわからなかった。
実は、理奈と僕は高校のとき付き合っていたのだ。
だが、光と付き合うときに別れた。
しかも、僕が『フった』のではなく、僕は『フられた』のだ。
それなのに、今更こんな事を言われたのだ。理解しがたい。
「何を……」
そう言おうとしたのだが、その言葉は理奈によってかき消された。
重なった唇。
居酒屋の大将も度肝を抜かれている。
理奈は唇を離した。理奈はいつもこうだった。デートも理奈が計画して、コースも理奈が考えていた。かなり積極的だった。僕から提案したことなんてほとんどなかった。
「……光に怒られちゃうね」
そう言った笑顔に、僕の心は揺らいだ。
僕は最低な男だ。
結婚を間近に控えているのに、他の女性に、しかも昔の恋人に心を動かされるなんて――。
その後は他愛もない話をして、居酒屋を出た。
顔が赤らむ理奈はまた可愛い。
「……バイバイ」
名残惜しそうに言ったその言葉は、これから一生理奈と会えないような気がしてならなかった。
結婚式当日――。
あの日からどうにも理奈の事が頭から離れない。今日は結婚式だというのに。ちゃっかり真っ白な服に身を包んでいるのに。
だが、僕の思いは一瞬にして消された。
「光……」
ウェディングドレスを身に纏った光は、この世のものとは思えない美しさを放っていた。
「綺麗だ……」
お世辞でもなんでもなかった。心から出た言葉だった――。
「それでは、準備がありますので……花嫁はこちらに」
軽く手を振って別れる。
光の姿が見えなくなった瞬間だった。タイミングを見計らったかのように電話が鳴った。
「もしもし」
「……拓史くん?」
この声は――
「理奈が大変なの!」
「……え?」
確かに、この声は理奈の母親の声だ。
そして、母親が大変だというような事態――?
「とにかく、病院に来て――」
もう最後の方は聞いていなかった。体が勝手に走り出していた。
教会を出る。空は雲がかかっている。雨が降りそうだ。
そんな事、考えている場合じゃない。
僕は走り出した。
道行く人がみな僕を見て振り返る。真っ白な服を着た男が走っているのだ。気にならないはずがない。
病院はまだ距離がある。もっと早く――もっと早く!
焦る気持ちは次第に大きくなっていくが、足が速くなるはずもない。
教会を出て30分ほど経ったであろうか。
病院が見えた。
雨も降ってきて、服はグシャグシャになっている。
そんな事は気にも留めない。早く行かないと――。
病院に入っても、足は止めない。部屋の番号は聞いてある。
受付の女性が妙な目で僕を見ているが、今はそんな事どうでもいい!
エレベーターを待つのも煩わしく、階段を走る。
医者にぶつかりそうになりながら、やっとの思いで部屋の前に立った……。
ノブに手を回す。
ガチャ……
「拓史くん……?」
そこにいたのは、理奈の母親だった。
「理奈は……?」
質問を質問で返すのは無礼だが、今はそんな事を言っている状況じゃない。
「もう……目を覚まさないかも……」
唐突過ぎた。
理奈はいつも……自分勝手に……
涙が頬を伝う。
理奈の顔を見るが、どう見てもどうもなっていない。
「理奈は……どうしたんです?」
恐る恐る聞いてみる。声は震えていたに違いない。
理奈の母親は、辛そうに口を開いた。
「車に……ひかれたの」
その言葉を聞いた途端、理奈をひいたヤツが憎くて憎くて仕方がなかった。
それと同時に、理奈の側にいてやりたかった。
「理奈――」
手を取ると、まだ温かい。目を覚まさないかもしれないなんて、信じられなかった。
理奈――――――
「拓史」
かすれた声が聞こえて、目が覚めた。眠っていたらしい。
声の方を見てみると、確かに理奈が起きていた。
「り……理奈!」
「拓史のバカ」
小さく言った言葉は、僕の心の奥深くを刺激し、傷つけた。
弱々しく振り上げた手で、僕の頬をはたく。
全く痛くない。なのに、ズキズキと刺激される……。
「なんで……いるのよ。結婚式……でしょ」
「結婚式なんてどうでもいいよ! 俺は理奈と……」
「……バカ。早く行ってよ。拓史は……光を……幸せにして。それが私にも幸せなの」
僕は、理奈と知り合えたこと、そして、理奈と付き合えたこと――全てに、感謝した。
いつもならするはずもないキス。
最後のキスは僕からだった。
僕は、最低な男だ。
今日は結婚式だというのに。
他の女性とキスなんて――。
最低だ……。
でも、この罪を償うために、僕はまた走る。
街は大雨で、人もなく閑散としている。
もう服は泥だらけだ。
みすぼらしい姿をした僕を、光は迎えてくれるかな――?
きっと彼女なら――。
期待と不安が入り混じった感情の中、教会のドアを開ける――。
そこには誰もいなく、ただ雨の音だけがこだましていた。
期待外れじゃない。
当たり前だろう。
新郎がいない結婚式なんてあるはずもない。
結局僕はどちらの女性も幸せにできなかったんだ――。
雨の中を歩く。
頬を雨が伝う。涙と、雨が混ざった液体状の物質は、口に入ると、少ししょっぱくて、悲しい味がした。
自分がどこへ向かっているのかさえわからず、ただ歩いている。
いつも通りの散歩コースを歩いている。
いつも通りに前が広がった場所に出る。
でも、いつもと違う所がある。
丘の上には、綺麗なドレスに身を包み、鐘を鳴らす女性がいて、僕の側に女性がいない。
その鐘はいつまでも鳴り響くだろう――。
いつまでも――いつまでも。