「猫の帰る所」byヘボ
晩秋の快晴は、厚着をすべきか悩まなければならないからあんまり好きじゃない。それも、悩んだ挙句の服装は、大抵裏目に出てしまうから厄介なのだ。人間たる生活を送るための最低条件、衣食住の充実は、やっぱり大切なんだとしみじみ思う。ろくに服なんか揃えずに、突発的に家を飛び出したもんだから、そのことが余計に身に染みる。こんなに晴れてるのに……とっても寒い!
中天の太陽をにらみつける。俗に言う家出少女となって満三日目。放浪生活は佳境を迎えている。
真昼の公園と言うものは、こう、もっと昼食を楽しむ人たちなどでごった返しているもんだと創造していた。だから、閑散としたままのこの光景には少々驚いた。やはり、寒いのは皆嫌いらしい。寂しいもんじゃないか。あたしは滑り台の天辺で体操座りをしている。
今頃母さんは何を思っているんだろう。誰にも言わすに家を飛び出してしまったから、あたしのこと、心配しているかもしれない。しているんだろうな。青空はどこまでも続いている。
猛烈にひとりになりたくて家を飛び出した。正体の分からない衝動に突き動かされていたのかもしれない。家族からも学校からも、友達も恋人も、みんなみんな全部取っ払ってひとりになりたかった。そして出来れば猫のように。きままに日々を過ごしたいなぁなんて思っていた。
三日間、街を歩いて、人を眺めて、働く人、繋がっている人、早足に前を向き歩いていく人の波を、生きている人たちの足音を聞いてみて、あたしは次第に自分が小さくなっていくのを感じていた。そのままあたしは見えなくなってしまって。自分って何だろう、どうして自分はここにいるんだろうって考え始めてしまった。下らないって思ってたことがじわじわ頭の中に湧き出してきて。消そうと思っても、追い払おうと思っても、脳みそから染み出してくるものだからどうしようもなくて。あーあ、自分って何なんだろうなんて、結局悩んでしまうわけで。
そこには答えなんてなくて、見つからず苦しむのが辛いから、みんな前を向いて、コツコツコツコツ、規律よく足音を鳴らしていくんだーとか、勝手に想像してしまう。
狭い滑り台の天辺。ちょっぴり伸びをしてみるあたしは野良猫になりたくて。自由な黒猫。好きな時に好きなこてをして、のんびり毎日を過ごしたりして。誰も縛らない。誰にも縛られない。そんな気楽で強い生活を、あたしは夢見ていたのに。
……何だか不安になる。社会から飛び出したはずなのに、社会から切り放されてしまったように感じる。そのことが、何だかとっても心細くて。ひとり憂鬱になる真昼の太陽の下。所詮あたしは何の力もない一個人に過ぎないんだろうな、なんてよく分からない思考の末に、妙に納得していたりするのです。
見上げた青空には雲ひとつなくて。こんなあたしの悩みを馬鹿にしているかのように清々しくて。
本当に退屈だった。
だからだろうか。その鳴き声が聞え始めた時に、ちょっぴりわくわくした。退屈を紛らわすのに一番効果的なのは、何かしらの出来事に巻き込まれることなのだ。
周りを見渡して、少し離れた場所に泣いている白い仔猫を見つける。鳴いているんじゃなくて、泣いている仔猫。何となくあたしには分かる。母親とはぐれてしまったのかもしれない。座り込んだまま、仔猫は泣き続ける。あーあー、よしよし。仕方がないなぁ。あたしが側にいてやろう。
思い立って颯爽と滑り降りる。両足で砂場に踏ん張り、両手高く、体操選手のように綺麗に起立する。滑り台の女王と呼ばれていた過去の栄光は伊達じゃない。
さてさて、行きましょうか。ぴんと張った両手を下げ、仔猫のもとへ。あたしが面倒を見てあげましょう。あら? いつの間にか声がしなくなっている。
目を向けると、そこには母親らしき白猫の足元で歩き回る仔猫の姿があった。どこか笑っているように見える仔猫。さっきまで座り込んで泣いてたのに。母親が来た途端、もう飛び回ったりしてる。あの不安はもうどこにもなかった。
何だよ。つまんない。折角あたしが構ってあげようと思ってたのに。ちょっと腹が立った。
瞬間、足元の興奮冷めやらない子どもの安否を確かめるように、熱心にその身体を舐めていた母猫の視線があたしを射抜いた。人に対する怒りとか、不信とか、威嚇とか、恐怖とか、そんな感情が微塵も感じられない透明な眼差し。あたしという存在を、ありのまま包んでしまうような眼差し。きっと聖人が宿す瞳には、こういった透明さが必ず秘められているんだろうなと思わされてしまう。その眼差しは、辺りを次第に母猫とあたしだけの空間にしてしまう。滑り台も、砂場も、青空も、太陽も、みんな切り取られてしまう。こいつはとてつもない奴だ。ようやくあたしはそのことに気づいた。
「私たちにだって帰る所があるから、こうしていられるのよ」
それは一体誰の声だったのか、対峙するあたしと猫、唐突に響いた声には、とても大切なことが含まれているような気がした。なぜなら、その言葉は何の抵抗もなくあたしの中の深い所に染み込んでいったから。あたしは自然とその声を、噛み締めるように呟いていた。猫がちょっぴり微笑んだ気がした。
やがて、母猫はあたしから視線を外すと、のんびり公園から出ていってしまった。仔猫はその後を忙しなく追って行った。あたしは呆然と親子の後ろ姿を眺めているだけだった。
そしてあたしは、またわけもなく滑り台の上にいる。いつかは簡単に入ることが出来た頂上も、今はもう窮屈で仕方がない。あたしはそこで体操座りをする。小さな頂上に何とか身体を納めて空を見る。
あたしは猫だ。自由と言う名の、幻の缶詰を探しに旅に出た黒猫。何ものにも縛られることのない野良猫。そんな夢を見て、ついには果たすことが出来たと思っていた。
まあでも、結局はなりそこないの猫でしかなかったってことなんだろうな。
天頂から太陽は照りつけているのに、やっぱり寒い。猛烈に母さんの味噌汁が食べたくなった。