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「猫の帰る所」byジル


 吾輩は猫である。などとどうやら有名らしい猫のまねをしてはみたが、もちろん名前はある。すこし暗めの茶トラの毛皮なのにもかかわらず、ミケという名前にはすこし言いたいこともあるが。当然自分のことを、我輩などと称したりもしない。

 俺が住処に定めたこの家には、俺のほかに三人の人間が住んでいる。父さんと、母さんと、美樹だ。俺の明晰な記憶によれば、姿は同じ人間のようでも、父さん母さんの二人と美樹は、おそらく別の生き物なのだろうと思う。

 なぜなら、俺にとってねこじゃらしが何よりも魅力的な獲物だったころから、美樹だけが倍ほどの大きさに成長しているからだ。もう幾度か季節がめぐれば、この家は美樹が住むには狭くなりすぎるのではないか。

 そういえば、父さん母さんは美樹に向かって、何時まで家にいるのか、誰かいい人はいないのかとことあるごとに口にする。つまり、この家の屋根を破るほど大きくなる前に出て行ってほしいと、そういうことなのだろう。

 もちろん俺も、せっかく居心地のよいこの家が壊れてしまうのは非常に困ることなのではあるが、それでも、階段を上がって右側の、美樹が家にいるときに大半をそこで過ごす部屋の、ちゃぶ台の上に置かれたパソコンとか言う箱の前にある座布団の上に座る美樹のひざの上は、俺がいちばんくつろげる場所であるのだから、俺は神様とやらにこれ以上美樹の体が大きくならぬよう、いつも祈っていた。それが天に通じたのかどうかは知らないが、それでも美樹はもうずいぶん長い間大きくなっておらぬようだ。だが、父さん母さんと美樹との言い争いがいまだ続いているのをみると、油断はできぬ。俺も朝夕昼寝三食前後の祈りは続けなければなるまい。

 どうも世間では、猫は猫好きの人間には近づかぬというのが定説のようだ。しかしそれは、世に言う猫好きどもが、俺たち猫のことを解っておらぬせいなのだ。猫好きを称する人間どもは、猫は孤独を好むからいいなどと口では言いながら、べたべたとのどの下を掻きたがる。俺たちは別にいつも一匹でいることが好きなのではないし、かゆくもないのどを掻かれたからといって、いつものどをぐるぐると鳴らさねばならない義理もない。俺たちはいたい場所にいて、かゆいときにのどを掻く、それだけなのだ。それを美樹はちゃんとわかっている。俺が暖かい美樹のひざの上で眠りたいときに、そっとひざを開いてくれ、耳の裏を掻いて欲しいときに掻いてくれる。あたしはタチだから、ネコの気持ちがわかるのよね、などと言いながら背中をなでてくれるときは、後ろ足の間がむずむずするほどだ。誤解の無いように言っておくが、俺は去勢されているとはいえ、れっきとしたオスである。レズビアンだの百合だのという趣味は理解しがたい。それでも、美樹の手の気持ちよさが、彼女の嗜好のおかげなのであれば、それもまあ、悪くはないかなと思う。母さんのように化粧とかいうものの匂いをぷんとさせていないのもいい。できるなれば、このままずっとこの家に置いといてやりたいくらいである。しかしそれではこの家が……まあいい。明日のことに思い煩うのは、猫らしくない。

 だが、明日とは、今日を生き抜いたものだけに与えられる特典であるのだ。それはもちろん俺の前に現れては消えていく、数多の野良たちを見ていればよくわかる。しかし、人間たちもそうであるとは、そのときまで俺には思いもよらないことだったのだ。


 ある日、美樹から嫌な匂いがした。いや、匂いとは違うかもしれない。ひげのつけ根を冷たく凍らせるような、そんな気配。

 そのとき俺は、ベッドの上の美樹の足元で眠っていた。美樹は父さんや母さんとは違って寝相がいいから、コタツの中が暗くなり、そして冷たくなると、俺は必ず美樹のベッドにもぐりこみ、そのまま朝まで眠るのが常だった。そして、美樹よりも先に置きだして、朝の散歩に出かけるのだが。

 深い夢に遊んでいた俺をたたき起こしたのは、苦しげにもがく美樹の足とうめき声、そして、真夏の、雨上がりの後の直射日光のような、じめりとした熱気だった。

 何が起きているのかわけもわからぬまま、思わずまるで子猫のころのようにみゃうみゃうと鳴く俺に、美樹はうっすらと目を開き、そしてゆっくりと手を伸ばしかけて、大丈夫だよというように微笑を浮かべようとし、そして、その手で布団を握り締めて再び苦しみ始める。その尋常でない様子に、俺はようやくこの家にいるほかの人間のことを思い出し、無我夢中で部屋を飛び出して階段を駆け下りた。

 父さん母さんが眠っている部屋のドアにつめを立て、声を振り絞って、にゃあにゃあと鳴き叫ぶ。ドアの向こうからもぞもぞと布団から這い出す気配がしてやっとのことでドアが開く。のぞいた母さんの足に頭突きをひとつかましてから、踵を返し階段を駆け上る。もう一度早く来いと一声鳴いてから、美樹の部屋へと駆け戻る。そこでようやく様子がおかしいのに気がついたのか、母さんの足音が急にせわしくなり、俺に続いて部屋へと入る。

 美樹の名を呼ぶ声、父さんを呼ぶ声。その後どうなったのか、俺は知らない。しばらくして、家の外にうるさい音を立てる何かがやってきて、知らない人間が家の中に進入してきたから、俺は心を残しながらも外へと逃げ出していたのだ。

 そして、その日を境に、美樹がいなくなった。

 その日を境に、家の中が急に寒々しくなった。窓の外は秋から冬へと移ろうその間際で、冬毛に生え変わった俺の毛皮を通して、冷たい空気が染み入ってくる、そんな季節ではあったのだけれども。

 あれほど、美樹が家を出て行くことを願っていたはずの父さんが、美樹がいなくなったことを喜ぶでもなく、ため息をつく日が続いた。いつも家にいた母さんが、一日中家を空けるようになった。それまで忘れられたことがない俺の食い物も、催促をしなければ出してくれなくなった。いつも明るく暖かだった台所のコタツにも、火が入れられることがなくなった。冬はますます厳しさを増し、隣近所の家の窓には、色とりどりの電飾が飾られ、だけどこの家だけは、そんな世界からただ一軒だけが取り残され……

 この冬初めての、ごみのような雪がゆらゆらと降るそんな日に、美樹は帰ってきた。

 一階のいちばん広い部屋の、白い布団に寝かされた美樹からは、あの日感じた匂いが、むせ返るほどに漂っていた。父さんと母さんが美樹のそばを離れたとき、俺は恐る恐る美樹に近づいた。硬く目を閉じたままの顔に鼻面を寄せ、彼女の頬にそっと押し当ててみた。それは冷たく、そして硬かった。

 ああ、そのとき、俺には解ってしまった。美樹の指がもう俺ののどを掻いてくれることはないと。美樹の手が、俺の背をなでてくれることはないと。美樹のひざが、俺を乗せて緩やかに揺れることは、もう、ないと……

 俺はその場を離れて、階段を上る。そして、美樹がいつもいた部屋へと入る。そこは、母さんの手で毎日掃除をされてはいたけれど、それでも、美樹がいた頃のまま、そこにあった。美樹がいつも眠っていたベッド。美樹がいつも座っていた、ちゃぶ台の前の座布団。

 いつの間にか、雪が止んでいた。雲の隙間から、冬の日差しが座布団の上に、小さな陽だまりを作っていた。俺は暖かなその中に入り、そして身体を丸めた。座布団からは、まだ、美樹の匂いがした。太陽の光が、まるで美樹の手のように、俺の背中をなでてくれていた。

 俺は夢の中で、美樹のひざの上で、やっぱり眠っていた。

 猫は人につかずに家につくと、人間たちはいう。それは違う。大好きな人がいる家だから、俺はこの家に帰ってくる。たとえその人に、夢の中でしか会えなくなったとしても。



(fin)


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