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「ジャックの贈り物」byジル




 彼女は、とても不幸せだった。もし彼女が、私は不幸だと言えば、ほとんどの者が頷くだろう。

 彼女より幸せな者たちは、そういう彼女を哀れんで、己の幸せをかみ締め、そして彼女と同じ境遇の女たちは、自分も不幸だと思っているから、彼女が幸せであるとは認めない。

 そんな彼女にも、この数週間、すこしだけ幸せが訪れていた。

――あ、すいません。大丈夫ですか?

 「仕事」に向かう途中、細い路地から通りに出たとき、出会い頭にぶつかった一人の男。

 夫という名の寄生虫に殴られた顔をぱさぱさのとうもろこし色の髪で隠しながら、彼女は首を振る。そして、あわてて飛び散らかった化粧道具や煙草を拾い集める。

 ちびたリップに伸ばした手が、暖かい男のそれと触れた。

――あ

――本当にごめん。

――大丈夫ですから。

 男の、謝意を絶妙に混ぜ込んだ微笑を間近に見て、あわてて手を引く。十月もなかば、肌寒い空を恨めしく思っていたことも忘れ、早い日暮れに感謝する。

 夫とは、いや、自分たちとは明らかに別の世界に住む男。身だしなみを清潔に整えて、微笑んだ口元には白い歯が光る。こんな人に、殴られた痣なんか見られたくない。

 大急ぎで小物を拾い集め、口を開けっ放しにしていたまがい物のコーチのバッグに放り込み、そそくさとその場を立ち去った。

 まるで少女マンガのような出会いが、まさか自分のような人間に訪れるはずがない。それでもそんなことをちらりと思う自分に、すこしほほを染めながら。


 だけど、それで終わりではなかった。

 彼女は、毎日同じ時間に古いアパートを出る。男も、同じ時間に帰途につくのだろうか。あの日ぶつかったあの曲がり角で、二人は毎日顔を合わせるようになった。

 いつもうつむいて歩く彼女に気がつくのはいつも男のほう。決してどこかに寄るわけでもなく、長話をするわけでもない。ほんの二言三言を交わすだけ。ただそれだけを、彼女は何時しか楽しみに思うようになっていた。

 彼がどんな仕事をし、どんな生活を送っているのか、彼女にはわからない。それでもよかった。彼は、彼女のヘドロのような毎日におとずれた、ほんの小さな灯火。それでよかった。

 だけど。

――どうしたんだ、その傷は?

 彼のクツを視界に納めたその瞬間走り出した彼女の手を、彼の形のいい手が掴み取る。

――なんでもないの。お願い。離して。

 誰から聞いたのか、それとも自分の目で見たのか。昨夜遅く、いや、今日の明け方、仕事を終えて帰った彼女を待ち受けていたのは、夫の詰問と、いつもよりも酷い折檻だった。

(あの男はなんだ)(いつからだ)(金にならねぇ男となにいちゃついてやがる)(お前は俺に金を持ってくることだけを考えてろ)

 もう、自分はここから抜け出せない。夫に何もかも吸い尽くされ、クスリでぼろぼろになった身体で、それでも地虫のように生きるしかない。

 男とのわずかなふれあいに見た明るい世界は、しょせん儚い夢に過ぎない。

――もうすぐハロウィンだな。知ってるかい?ジャック・オ・ランタン。

 そんな彼女の思いを知ってか、男は彼女にそう聞く。

――知ってる。かぼちゃのお化け。

――ジャック・オ・ランタン。別名、ウィル・オ・ウィスプ。卑劣な悪人ウィルの魂が、地獄の門さえもくぐらせてもらえずに、地獄の種火だけを携えてさ迷っていると言われている。

 彼女の戸惑いを置き去りにして、男は話を続ける。

――君を悲しませる男は、ウィルのように報いを受けるさ。天国の門をくぐるべき君とは違う。

――あなたは、クリスチャンなの?

――敬虔な信者ってわけではないけどね。ハロウィンの夜を楽しみにしててくれ。きっと、小さな贈り物が君へと届く。



 駅裏のホテル街。その周辺のうらぶれた小路。そこが彼女の仕事場だった。晩秋の寒空に、大きく肩を見せたドレスを着て、道行く男の袖を引く。

 だけど、彼女は今日、植え込みの端に身体を預けて、声もかけずに煙草を喫っていた。

 あの日から、彼は姿を見せなくなった。もう会わない。そう決心したはずなのに、何時しか足はあの曲がり角に向かい、彼を探すためだけに上げた顔を淋しく伏せて、この場へと向かう。

 そして今日、十月三十一日。ハロウィン。今日も男は姿を現さなかった。

 深いため息の形に煙を吐き出した彼女は、まだ長い煙草をアスファルトに落とし、ぼんやりとしたオレンジの火を、やはりぼんやりと見つめる。

 自分は何を期待していたのだろう。それがどんなささやかなものであっても、必ず裏切られる。それは、これまでの人生で嫌というほど思い知っていたはずなのに。

 長い髪を一度揺らして男の面影を振り切り、客を探そうと身体を起こす。そのとき。

――トリック、オア、トリート。

――え?

 振り向いた彼女の目の前に、あの男が笑顔を浮かべて立っていた。

 彼女は哀れなほどに狼狽する。こんな、道端で男を誘っているような自分の姿を見られたくなかった。

――どうしてこんなところに……

――言ったじゃないか。ハロウィンの夜、贈り物を上げるって。

――何よ、哀れみをくれるって言うの?それともあたしを買ってくれる!?

――そうじゃない。僕は、君に幸せになって欲しいんだ。

 男の冷たい手が、裸の肩に触れる。火箸を押し付けられたように、彼女がびくりと身体を震わせる。

――さあ、おいで。

 肩を抱かれたまま、半ば放心したままの彼女は、男の言うがまま歩く。薄暗いこのあたりの、さらに暗い細い路地。

 だけど、彼女にはそれが都合よかった。涙で崩れた化粧を、男に見られることがないから。

 そしてたどり着いたのは、ネオンの明かりも、街灯もない、街中にっぽっかりと開いた穴のような、闇の片隅。

――君が売春をしているのは知っていた。

――そんな。

 男の言葉は、女を絶望へと追いやる。しかし、次の言葉を聞いて、涙に濡れたままの顔に、希望があふれる。

――だけど、僕は君の心が清らかであることも知っている。主は決して、君のような人をお見捨てにならない。君はウィルとは違う。必ず天国の門をくぐることができる。

 ああ。そう女は歎声をもらした。それは、彼女が求めていた言葉だったのかもしれない。この地獄のような暮らしから救ってくれる、わずかな希望。

――さあ、約束の贈り物だよ。

 男の右手の中で、何かがほんのわずかな光をはじいて煌めいた。

――君の魂が、穢れた体から解き放たれ、主の御許で清められんことを。

 そう、その瞬間、彼女は確かに幸せだったのだ。



『切り裂きジャック、二十一世紀の日本でよみがえる』

 新聞の紙面をそんな見出しが飾ったのは、その二日後のことだった。




(fin)

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