「例えば毎朝のコーヒーのような」byジル
僕の目の前で、彼女はテーブルについた薄い傷を見つめていた。
(どうしてあなたは私を見てくれないの。私がまるで月が雲に隠されたように消えたとしても、あなたはきっと気づかないでしょう)
そう言った彼女の瞳は、やはり僕を見ることもなく、机の上に据えられたままだった。
(何を言っている。初めて僕らが出会ったころのことを忘れたのか。君は僕にとっての太陽だ。君が消えてしまえば、僕は闇に包まれるさ)
そんな言葉を吐き出しながら、僕の目は彼女の背後に張られた、カレンダーを見つめていた。
初めて彼女と出会ったのは、二人がまだ中学に通っていたころだ。それから僕たちは、何時も同じ道を歩いてきた。
出会ってすぐに、僕たちは惹かれあい、同じ高校に進み、同じ大学に学んだ。
初めてキスをしたのは、中学二年、夏祭りの夜。それからもう、14年が過ぎた。 そして、初めて肌を交わしてから、十年が経った。大学を卒業し、別々に就職を決めたときは、僕たちはひとつのベッドを共有していた。それからもう、六年が過ぎた。同じベッドで眠ることがなくなったとき、僕たちは同じ苗字を共有していた。それから二年が経った。
二人の間から、一人の新しい命が芽生え、今、隣の部屋で安らかな寝息を立てている。
もし彼女が太陽だとしても、たとえ絶え間なく僕の目の前にあったとしても。それはまるで極北の白夜のように熱を持たない。
それは、いけないことなのだろうか……
だけど彼女は小さく首を振った。
(僕と出会ったことを後悔しているのか。僕と共にいることを悔やんでいるのか)
(そうじゃない。私は今まであなたとずっと一緒にいた。後悔する暇はなかった。これからもきっと悔やむことはない。でも)
彼女は初めて顔を上げた。そして、すこしだけずれた僕の視線にまるで気づかないように、僕の目を睨みつけた。
(だけど……)
ずれたままの僕の視線の先には、目尻にたまった涙が、そっと、あった。それはわずかに揺らぎながら、しかし彼女の長いまつげにしがみつき、頬を伝おうとはしなかった。
そのとき、夜が壁を通して忍び込んでいるこの部屋に、太陽のように明るい泣き声が響く。
「たいへん」
彼女はそそくさと顔をそらし、隣の部屋に向かう。泣き声に惹かれるように、僕も彼女に続いた。
薄暗いその部屋に置かれたベビーベッドの中で、僕たちの子供が、まるで園児の描く太陽のように顔を赤く染めて泣いていた。
どうしたの。そう声をかけながら、彼女が涙に濡れた赤子の頬をぬぐう。小さな手が、彼女の小指をつかむ。
柔らかな赤子の頬を、この子のものではない涙が落ちて、再び濡らす。それが無性に悔しくて、僕は彼女の肩を抱き、そっと頬を寄せた。
僕の頬も、彼女の涙で濡れる。それはまるで氷のように冷たい。
「僕たちは、出会ったころの僕たちではないのかもしれない。だけどそれはいけないことなのだろうか。出逢ったころの僕たちには、この子はいなかった。だけど、僕たちの未来に、この子はいる」
僕は彼女の頬をなで、こちらを向かせ、そしてキスをした。初めてのキスをしたときとは違い、視線を合わせないまま。
何時しか泣きやんだ子が、つぶらな瞳に涙をたたえたまま、僕たちを見ていた。
「あなたにとって、私はもう毎朝のコーヒーのようなものなのね。無ければさみしい、ただそれだけの存在」
「そうじゃない」
何時以来だろうか、僕は彼女の瞳の中心を見つめた。そこには、初めて逢ったころの僕とは似つかない僕が映っていた。
「例えば毎朝のコーヒーのように、君がいるから明日が始まるんだ。これからこの子は育ち、僕たちが出会ったように誰かと出会い、僕たちが愛し合ったように誰かを愛し、僕たちがそうであるように、誰かと未来を築くだろう。
僕たちは変わったかも知れない。僕たちはこれからも変わるかもしれない。だけど、絶対に変わらないものがある。あの花火の下での約束を、覚えているか」
それは、僕たちが始めてキスをした、二人の未来がひとつに重なった夜。彼女は僕の肩に額を預け、そしてうなずいた。
(ずっと一緒だよ)(ずっと?)(そう、ずっと)
夜が明けると、きっと彼女は僕のためにコーヒーを入れてくれる。それを飲んで、僕は出かける。変わらない毎日は、それでも少しずつ変わってゆく。だけど僕の隣には、いつも彼女がいるだろう。
――そう、ずっと――
(fin)