思い出の値段
『あなたの思い出をください』そんな言葉が書かれたテレホンカードを見つけた。思い出につけられた値段、そして、その相手とは。
透明というより、少し曇ったかのような汚れたボックスの中にある、奇抜な緑色の公衆電話。
通学路の途中で毎日見かけていた。使っている人を見たことはなかったけれど。朱音はそこへ目掛け、自転車で走った。
あった!
自転車を止め、ボックスの中に入る。
問題なく使えていた携帯電話が、突然動かなくなった。ショップへ修理依頼に行く前に、バイト先に遅刻の電話を入れなければいけない。高校の公衆電話は故障中だった。
居残り勉強をさせられたせいで! 担当教師の顔を思い浮かべて腹立たしくなるが、自分が悪い、と思いなおして気持ちを落ち着けた。宿題、寝る前にカバンに入れたと思ったのに。バイトで疲れているのだろうか。とにかく、運の悪い一日だ。
バイトの無断遅刻には、減給が待っている。働くって厳しい。
カバンの中から財布を取り出し、中を見て愕然とした。五円玉と一円玉のみ。十円すらはいっておらず、これでは電話がかけられない。
困った朱音は、藁をもすがる思いで小銭が落ちていないか電話の回りを見渡す。緑色の電話の隣に、カードが落ちているのを見つけた。
「なんだろ、このカード」
眺めてみると、『あなたの思い出ください』と、白地にピンク色の文字で書かれたカード。絵本のような彩りのカードには、お菓子のイラストが添えられていた。その裏面は一面銀色。そこに小さな黒い文字で「テレホンカード」と書かれていた。
『今の子は、テレホンカードを知らないんだね』
最近、母に言われた言葉を思い出す。これが、噂のテレホンカード。こんな風に、変な言葉が書いてあるものなの?
表面を眺めてみる。穴が開いているが、使えるだろうか。恐る恐る、差込口にカードを入れてみた。
受話器を肩ではさみながら、カバンの中から、学生証にメモしてあるバイト先の連絡先を探そうとした。
まだ番号を押していないのに、聞きなれた呼び出し音が耳に届いた。どこに電話するかまでわかってしまうのがテレホンカード、じゃないよね。この電話も壊れているのだろうか。
呼び出し音のあと、女性の声の音声テープが流れた。驚き、思わず体を震わせる。
『お電話ありがとうございます。現在、楽しかった旅の思い出を募集しております。発信音の後に、思い出を吹き込んでください。ただし、思い出は永遠に消えてしまいますのであしからず。謝礼は二千円となります』
ぴー、と発信音が鳴って慌てた。
バイト先に電話をしたつもりが、なぜこんなことに。
どうしよう、いきなり楽しかった旅の思い出と言われても。でも、謝礼二千円。今となっては大金だ。
少しの間頭を巡らせ、中学生の頃、家族で行った沖縄旅行の話にしよう、と決めた。記憶が消える、なんてあるわけないだろう。写真もあるし。
うまく話せないながらも、たわいのない思い出を語った。
これでいいのかな。もう話すことはないけれど、どうしたら終われるんだろうか? 沈黙が続くと、受話器から再び音声が聞こえた。
『ありがとうございました』
それだけで、電話は切れてしまった。突き放すような電子音が耳に痛い。思わず受話器を眺めてしまう。
「お金は?」
なーんだ、いたずらだったのかと受話器をフックに戻した。電子音と共に、テレホンカードが戻ってきたので、ひっぱって抜き取り元の場所に戻す。するとそれを待っていたかのように、電話のつり銭受けの所にジャラジャラと音が響いた。
覗き込むと、五百円玉がよっつ。
「本当に二千円だ!」
朱音は五百円玉をかき出した。いったいどういう仕組みなのか。安いのか高いのか、思い出がどう使われるか疑問だが、お金が手に入った。ちゃんと見ても、硬貨は本物に違いないと思われる。しかし。
大切な思い出が消えてしまった。沖縄旅行の話しをしたことは覚えている。しかし、どんな内容だったかぼんやりとしか覚えていない。記憶がおぼろげだ。まるで自分のことではない、他人事のような感覚。完全に消えたというより、距離をおかれた、という方が近いか。
この思い出は、この後どうなるのだろうか。悪用されなければいいけど。
思わず肩をすくめる。胸がきゅうっと、突然冷えた場所に出たかのように縮こまった。
置いておいたカードをじっと眺める。可愛らしいデザイン。『あなたの思い出をください』という文字。どうなっているのだろう。
考えるのも怖い。我に帰って急いで電話ボックスを後にした。振り返る気分にもなれなかった。
家に帰って写真や動画を見ても、それが自分の体験したものだと思える自信がなかった。
***
『思い出を譲りたい方に、次の思い出話をお聞かせください。料金は、電話代金と一緒に引き落とさせていただきます。それでは御準備ください。三、二、一』
カウントダウンを告げる無機質な女性の声。早くも来た、と高揚した智美は、すぐに娘の耳にあてた。不思議そうにこちらを見返してきたが、そのまま電話からの声に耳をすませてくれた。
生まれながらの不治の病。遠出などしたこともない娘。その命は後わずかとなっていた。
生身の人間だと思える、あたたかい声が電話の向こうから聞こえて来た。内容まではわからない。スピーカーにして、一緒に聞けばよかったかな、と思っているうちに、女の子の声が終わる。
耳にあてられた電話を離すと、娘は懐かしむように目を細めた。先ほどまでの戸惑った顔とは違う。充実した笑顔だった。
「お母さん。あの沖縄旅行、楽しかったね」
自宅のベッドで遠くを見ながら、疑う事無く思い出を反芻しているようだ。ベッドに腰掛けた智美は、電話を隠すように手に握りながら、うなずいた。
よく聞こえなかったが、沖縄に行った女の子の話らしい。もう、それを羨ましく思う気持ちすらない。
「うん。楽しかったね」
布団を掛けなおしてやりながら言った。娘は青い海で泳いだことや、水族館の話をしながら、次第に小さな寝息を立て始める。顔にかかった黒く、細い髪をわけてやる。中学生と言うには、あまりに小さな体。
いつまで、この寝顔を見ていられるか。
『電話で聞いた思い出が、自分のものになる』と、病院で知り合った患者家族に聞いた。眉唾だったけれど、娘の死期が近いと医師に告げられ、混乱した智美はすがる思いでその患者家族から、テレホンカードの束を譲り受けた。
「うちはもう、いらないから」
その言葉、智美もまた、違う患者家族に言う日がくるのだろうか。
その思いを振り切るように、二十枚のカードをあらゆる公衆電話の側に置いた。誰もかけてくれなかったら。だって今時、公衆電話なんて。
だが、カードを置いてわずか一日。こうして娘の思い出が増えた。あの不思議なテレホンカードが呼び寄せてくれたのだろうか。
小さな娘の、弱弱しい寝息にじっと聞き入る。
正しいことではないかもしれない。だが、楽しい思い出を胸に天国へ旅立ってくれれば、こんなにいい事はない。目じりに流れる涙を拭い、智美は娘の寝顔をいつまでも見つめていた。
了