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美月の詩歌  作者: はるか
9/10

彼らの

 帰りの電車は時間帯のせいか、ひどくすいていて。詩歌は悠々と余裕を持って、座席にもたれかかる。その隣りには美月も腰掛ける。

 二人とも無言で。それでも彼らは、互いに互いを充たしている。

 だから二人のものであるのなら、沈黙ですら心地よく。詩歌は電車の揺れに、いつのまにか意識までも揺らしてしまっていた。



   2’


 私の足取りはいつにもまして軽やか。

 昨日を思う。それは幸せを想うということ。

 あのシロの世界で初めて、私はしづき姉とみちる兄と一緒だった。

 しづき姉が私に何かを頼むことが、これまで幾度あっただろうか。それを、病室で。

 驚きは、喜び。すぐにも写真を撮ろうとして――息を呑む。

 レンズの向こう、二人一緒の彼らは満たされていて、とても幸せそうだった。

 それがまるで私に向けられているかのように感じられて。

「しづき姉、今日はたくさん写真しようね」

 なぞる記憶に思わず笑みがこぼれて、慌てて押し込める。それでもすぐにまた、笑みになる。


 写真は、だから。彼ら二人と一緒であるために、どうしても必要だったのだ。



   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇



「……おまえ、まじでかわいいなぁ。あと、お前の姉貴は本気でムカつく。

 オレがあと百年くらい生きて、そんで死ぬことになったら。美月に逢いにいく前に、お前の姉貴を泣かしにいく」

「しづき姉の悪口いうな。いくら詩歌でも、しづき姉を泣かしたら許さない」

 あと私よりも先に、しづき姉に逢いにいくなんて許してやらない――とは口にはできないが。

「おまえ、ほんとかわいい」

(聞こえてるのが分かってて、あんなことを考えたりもする。確信犯)

 ……口に出さなくても伝わるのは、なんというか不便だ。

「ははっ、ふてるなふてるな」

(……ほんと、べんりだなぁ)

 思わず笑ってしまいそうにもなるというもの。

「???」

 いろいろと、分かっていないふうの彼は放っておいた。

 さて――。

(結局、私はどうして幽霊なんだか。詩歌の未練? 私の未練?

 でも、それなら今の私は? まさか好きな人と別れたくないから? そんなバカな。それはただの心残りであって――それくらいで幽霊になるなら、成仏できる人なんているわけない。

 もしかして前提を間違えてる? 死ねば、みんなが幽霊になるの? ――でも、私は自分以外の幽霊なんて見てない。きっと成仏してる人のほうが、ずっと多いはずなんだけど……)

「わかんないなー」

「へ? なにが??」

「なーんでもないよ」

(……わかんない。私には、あとどれくらいの時間が残されてるのかなんて)

 カタチになったばかりの不安は、そっと胸の中でだけ呟いた。

 でもきっと、いつまでも――なんて都合のいいことはないのだろうから、覚悟だけはしておいたほうがいいに違いなかった。



「おかえりー。うまくいったみたいで、なによりなにより」

「あー…、あんたか。すっかり忘れてたぞ、おい。

 んで、心は決まったのか?」

 ??? なんだというのか、この違和感に満ち満ちた会話は。

「ま、ね。……ところで、充は?

 てっきり一緒に帰ってくるのかと思ってたのに」

「え、なに、あいつ公園にいたのか?」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 いい加減に肌寒い風の吹く季節。それなりに巻き上がる木枯らしは、誰にとっても物悲しい。

「……あんな状況じゃね、ちょっと出て行けないかなー。

 これじゃただの出歯亀だよね、じっさい」

 からから、と葉の擦れる音がなくとも、彼は哀愁を背に負ったままだったに違いない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「…………」

「…………」

 ??? どうしたというのか。ふたりとも変な顔をして。いや、それよりいま――。

「……なんかいま、へんなビジョンが」

「いうな。なんか悪いことした気になってくるから」

 ??? いや、そんなことより――。

「いま、詩歌のお姉さん、充って言わなかった?」

「あねきぃ? こいつが? よしてくれよ。いや、まあ、確かに姉貴は姉貴なんだけどさぁ。

 こいつ、いまは静月だぜ。おまえの、姉貴」

 え――。

「や。ひさしぶり――でもないか、昨日も会ったしね」

 言って彼女は、ちょっと照れたように笑ってみせた。

 微笑みは私の記憶に刻みつけられたそれとはまったく違うにもかかわらず、私の心をめちゃくちゃにかき乱していく。それでも、どこか心地いい。

 まるきりわけがわからなくなって、存在しない指先の一つすら思い通りにいかない。そんな私を。

「おちついて、美月。ね、だいじょうぶ。だいじょうぶだから。

 私だよ、静月だよ。私は美月といっしょだよ」

――――ぎゅっ

 音がするくらいに、しっかりと。だきしめて…くれて……。

「――ぅ――んぅ……うっ」

「ごめんね。ずっとずっと、ごめんだったね。

 いままで、よくがんばってたよね。あの頃の美月ががんばってたの、やっとわかってあげられたよ。これまでの美月ががんばってるのも、ずっと見てきたよ。

 だから、泣いてもいいよ。いっぱいいっぱい、泣いてもいいんだよ」

 耳元で囁く、優しい音が。がまんしなくていいんだよ――と、そういってくれたから。

「――ぅわあああああっ!

 し、しづき…ねぇ、わた、しぃ――ふぅう、う、ああああ!!」

 後から思い返してみなくても、みっともないくらいに泣いてしまった。



「……なんか、ずりぃだろ? なんでだ?!

 どーしてオレは美月に触れられないのに、あんたはオーケーなんだよっ!?」

 あいかわらず、はず――

「恥ずかしいヤツよね、あなたも。私じゃなくて、あなたのお姉さんの体質なんだから、仕方ないでしょ。悔しいんだったら、そういうふうに生まれつかなかった自分を悔やみなさい。

 ねー、みつきぃ?」

 すぐ近くから覗き込まれて、照れくさくなってしまう。あいかわらずのしづき姉の温もりに包まれたままで、火照った頬を隠すように彼女の胸に顔をうずめた。

「――っきゃー、かわいい~!

 も、どうしてこんなにかわいいの?! こいつめこいつめ」

 しづき姉の頬が私の頭を撫でるようにして、なんどもなんども行き過ぎる。なんとなく気持ちがよくて、されるがままに任せてしまう。

「ぐあああっ! ふこうへいだぁ、なんだこれぇ」

「……ちょっとなんなの、さっきから。うるさいわよ、あなた。

 触りたい触りたいって――なに? そんなに美月にやらしいこと、したいの?」

 少しだけ、しづき姉の目つきが怖い。詩歌は――彼は彼で、顔を真っ赤にして固まっている。

 ……しづき姉のいうように、そういうことがしたいんだろうか。だとしたら――なんだか申し訳ない。

「――ちっが! ちょっとまて、へんな誤解すんな!!

 オレが言ってるのは健全な、あくまでも健全なスキンシップの話でだな――」

 ……やっぱり、なんだか申し訳ない。

「あ、ごめ――」

 なんて。彼のいう暇もあればよかったのだが。

――――ぱぁんっ

「ひだっ!」

「美月のこと、いじめないでくれない?

 次に傷つけるようなこといったら、祟るわよ」

 詩歌の頬に、痛烈な平手打ち。

(ちょっとからかっただけなのに。詩歌、すぐに態度にだすからなー。

 私の心の声なんて詩歌にしか聞こえないんだから、すましてればいいのに)

 ……それはそれで、おもしろくないか。

 うん。次があるなら私のほうで、気をつけてあげることにしよう。

「それにしても。どういうことなの、これ?

 今回のっていうか、もういろいろと。一連のことが、流れからしてつかめてないんだけど」

 私の言葉に、しづき姉が気遣うような顔をする。

「あー、うん。充が戻ったら、きちんと話そうか。

 たぶんもう、そんなには時間もないと思うし」

 時間――その言葉に、胸を突かれる。もしかして。

 不安に思う私の心が、表情にも出ていたのかもしれない。しづき姉が私を慰めるかのように、ゆっくりと肩をさすってくれていた。

「美月はもう、なんとなく気がついてるのかな。

 ――あ、充。おかえりー」

「うー、まだヒリヒリする。くちんなかも、切れてる気がするし。

 ……よぉ、おそかったな。いやー、さっきは悪かった」

「ん? え、あれ?」

 ??? 彼らの視線を追う。確認。

「いや、誰もいないけど……」

「…………」

「…………」

 沈黙と、なんだかすごく変な顔に迎えられる。……私はなにか、おかしなことでもいっただろうか。この身に覚えることなど、ないというのに。

「ぶっ、くっくっ……」

「あー、んー…。もしかして、そういうことか?」

 憮然とした表情になるのも仕方のないところではないだろうか。どことなく、バカにされている気がする。

「く、ふふ。そーだった。ね、美月?

 私たちの、最初の再会。そのときのこと、覚えてないかな?」

 言われて、記憶を遡る。そう前のことでもないし、私にとって衝撃的だったことは言うまでもない。

 追憶の光景は、手を伸ばせばすぐにも手が届くところにあった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

『なんなんですか、あなた?

 私のこと、知ってるみたいですけど。それに、みちる兄のことも』

 促す私の声は自分でも不穏なものであることが自覚できたが、だからどうだということもない。不躾を隠す必要もないように思えた。

 荒れる気持ちを荒れたままに、言葉として相手に突きつける。次に降りかかる言葉が私の心を押し潰してしまいかねないものであることを、予感していたにもかかわらず。

『あの――あのね、わたし。えと、静月、なんだけど』

 しづき。しづきしづきしづき……。

 ――いま、しづきと。そういったのか、このひとは。

 頭の芯をよくない熱が焦がしていく感触。心の底に冷たい雫が流れ落ちてくる感傷。

『みちる兄は死にました。しづき姉も死にました。

 それで。生きてるあなたが――誰だって言ったんですか?』

 どうしてかその人に見いだせた安らぎはささやかで、なにともしれない感情の奔流を前にしては貪る気にすらなりようがない。

 私はだから、押し流されるだけだ。より確かな欲求に。

『どこの誰でどうして私と話せるのか知らないけど、私をからかっておもしろい?

 私の認識障害も知ってるんだ? それで。そんな下手な嘘に私が飛びつくとでも思ったの?

 ふざけないでっ! どこかいってよ。あなたとなんて、もうこれ以上、一秒だっていたくない!!』

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 さー…と、血の気の引く音が聴こえた気がした。私、なんてこと――。

 まだ謝ってもいなかったなんて。

「ぁ。ごめ、ごめんなさい、私――ひどいこと。

 わけが、わからなくなっちゃって、それで――」

――――ぎゅっ

 あたたかい。その感覚を意識できるくらいの、優しい力で。

「もー、ちがうちがう。そーゆうことじゃなくて。

 それに美月が謝ることなんて、ひとっつもない。ほーら、そんな顔しないで」

 ……ちょっと、不安定すぎる。みっともない。

「いやいや、ほんとに。悪いのは静月だから。

 みっともないことなんかな――ひっ!」

 とりあえず、バカはきつく睨んで黙らせておくとして。――ふむ、すこしは落ち着けたか。

「……でも、ごめんなさい。しづき姉にひどいことを言ったのは確かだし。

 それに一緒にいたくないなんて――そんなこと、絶対にないから」

 わかってるよ、の一言が素直に嬉しかった。

「あー…、おいおい? 取り込み中のところを悪いんだが――」

 しづき姉と私とで睨みつける。だが意外にも、彼は呆れたような顔で宙を指差すだけだ。

「――――?」

「あ。」

 事情の呑み込めない私に対して、しづき姉には伝わったようだった。いかにも気まずい表情。どうしたというんだろうか。

「姉妹水入らずはいいんだけど。さすがにこいつが、かわいそうじゃないか?」

「あー…、そうかもね。うん。

 えーと、美月? 私が言ったことなんだけど――」

 促すしづき姉に、不意に脳裏を言葉がよぎっていく。

『自分が幽霊になっても、霊感がからきしなんて。

 充。あなた、美月には見えてないみたいよ?』

「…………」

 ……ぇ? もしかして、そういうことなんだろうか。

「あの、もしかして私って。

 自分が幽霊になってるのに幽霊が見えないくらいの、霊感のない子?」

 霊感音痴――とでもいえばいいのか。

「うん、それ。たぶんどうしようもないくらいの、霊感の無さね」

「えー、と。もしかしてそこに?」

 みちる兄がいたりするわけなのか。

「ああ、さっきからずっとそこにいる。あ、おい。いじけるなって。

 美月にお前は見えないんだ、しょうがないだろ? とにかく見えないもんは見えないんだよ」

「わ、わ?! ごめん、ごめんね?

 えーと、みちる兄? そこにいるの??」

 それは慌てもする。とはいえ、慌てたところで見えないものが見えるようになるわけもなく。

「ちがうって。ちょい右、いや行きすぎ――おいおい重なっちまってるぞ?」

 傍から混乱を煽られれば、余計にどうしたものだか分からなくなる。

 ただただみちる兄に申し訳がなくて、なかば本気で泣きそうになっ――。

――――びしぃっ

――――びしぃっ

「っくぅ~おおぉッ?!」

 しづき姉の親指に拘束された、それぞれの中指。それが凄まじいまでの勢いで解放されて、詩歌の額と――何もない中空に、確かにヒットした。

「美月いじめ、さいてー。覚悟しなさいよ、あなたたち」

 ぐっぐっ、とどこか不吉な音が、しづき姉の手元から聴こえてきた。なんとなく見てはいけないもののような気がして、音のするほうからは目を逸らす。

「し、しづき姉? 私は気にしてないし、それに悪いのは私だし――」

「んー? さっきも言ったよ、美月に悪いところなんてないんだから。

 ちょーっと待っててね。すぐにすむから」

「あぅ……。でも、ね。なんていったらいいか、わからないんだけど」

 私に認識されないということは、単純に申し訳がないという以上に。

 諸事情により、みちる兄が――こう、すごく可哀想な感じになるということでもあって。

「なのに。その…そんな仕打ちは――」

――――ずびしぃッ

――――ずびしぃッ

「「ひぎゃぁああああッ!!?」」

 聞こえるはずのない悲鳴までもが聞こえた気がして、私は思わず、ないはずの耳を塞いでしまっていた。


「なぁ、おい。お前もそう思うだろ? 納得いかないよな?

 いくらなんでも過保護すぎるよなぁ?」

 詩歌が独り言――ではなく、たぶんみちる兄と話しているのだろう。みちる兄がなんて言ってるのかは、やはり私には分からなかったが。

「そこ、うるさい!」

「あ、しづき姉?! もういいよ、みちる兄が可哀想」

「んー、美月は優しいねぇ。でも、気にしなくていいの。充は昔、さんざん甘やかしてあるから。

 いまは美月のことを、い~っぱい甘やかしてあげるって、そう決めてるの」

 ……なんというか相変わらずで、開いた口も塞がらない。昔から私たち家族の芯に据えられていたのが、しづき姉であったことを思い出した。確かにみちる兄を中心としてまわる生活ではあったが、それとてしづき姉が全身で行動指針を示していたからだ。

 しづき姉は、やっぱりすごい。私の自慢の、大好きな姉さんのままだ。

「……なんで結論がそこに着地したんだ、いまっ?!

 どおーぅ考えてもおかしいだろが! それは宗教かっ。アレはお前の神様なのかっ!!」

「人様を指差して、〝あれ〟呼ばわりとは――いい度胸ね、しょうねん?」

「ひぃぃぃ!?」

 詩歌は全力で、部屋の隅まで後退していった。ふむ。

(けっこー、おもしろいかも)

 とは言わないほうがいいかもしれない。口元でだけ、こっそりと笑っておく。

「まったく――みつき? ほら、おいで」

 なんとなくどうしてくれるのかは分かっていたから、私は照れ照れしつつも素直に従った。

――――ぎゅっ

「ふふ。じゃ、話の続きをしよっか。

 でも、どうせ美月には見えないんだから、充を待つ意味もなかったかもね」

 あ、それはちょっと。しゅん――とした気配が伝わってきた気がした。

「よせよせ、まともに相手するなよ。お前も付き合い長いんだから、わかるだろ?

 あれは酔っ払いみたいなもんだ。気にかけるだけ損だぞ」

 充は損な性分なんだよ、などとは馴れ馴れしい。男同士で妙な連帯感でもあるんだろうか。……わからなくもないが。

 それにしても。あいかわらずの学習できないひとだ、詩歌は。

 またしづき姉の手元から、不穏な音が聴こえてきている。両の手であることを考えれば、みちる兄も何かを言ったのだろうか。

(……ふぅ、世話の焼ける。しかたないなぁ、もう)

 諌めるつもりで、きゅっ、としづき姉の袖を掴んでみる。おそるおそるではあったが、すり抜けるなどということはなかった。安心して、思わず頬が緩んでしまう。

「――――っ」

 じゃなくて――などと首を振っていたら、こちらへと向けられている視線を感じた。探るまでもなく、しづき姉のものだ。

(みられてたっ?!)

 自分の行動を思い浮かべてみる。――私の頬が恥ずかしさのあまりに熱くなったのは、言うまでもないこと。

――――ぎゅ~~~~っ

 ……すごく抱きしめられた。ちょっとくるしい。

「……だめ、なにこれ。なんか溢れそう。

 美月は小さい頃から可愛かったけど――こんなメチャクチャだったっけ?!」

 可愛い可愛いって――こんなのばっかりだ。嬉しいような恥ずかしいような。

「……なんかイケナイ方向にシフトしてきてないか、おまえら。

 見ててこっちがやるせない気持ちになるくらいに、ちょいエロいんだが」

 詩歌がよく分からないことを言うから、なんだか彼にいまの私の顔を見られるのが恥ずかしくなる。

 だから、ぎゅっとかたく目を閉じて、しがみつくように額をしづき姉の肩口に押しつける。すこしでも隠せれば、それでいいと思って。――そんな私が傍から見てどんなふうなのかは、とりあえず考えないことにした。


 ようやく気を落ち着けて瞼を開けてみれば、しづき姉と詩歌が二人で妙な仕草をしている。上向いて鼻を摘み、うなじの辺りをトントンと叩く。

 なんとなく意味の理解できそうな――なんだったか。まあ、あまり思い出したくないような。

「えー…と、しづき姉? 話の続きは?」

「あ、ああ、うん。そうね、続きね」

 ……どことなく濁った声音は、鼻が詰まっているのか何なのか。あまり気にしないことにしよう。深く考えると、また話が逸れる予感があった。むしろ確信といってもいい。

「とは言っても、どう話せばいいのか――それが問題かな?

 んー…」

 考えながらも、その手は私のほうへとさまよってくる。

――――ぎゅーっ

 ……少しばかりホールド具合がこれまでよりも、がっちりとしたものになったかもしれない。まあ、まったくもってイヤではないので構わないのだが。

「私たち――私と充は、ずっと美月を見守ってきた。

 今回のことだって、ちょっと大袈裟ではあるけど、それだけなの。けっきょくは」

 それから、しづき姉はしばらく中空と向き合ったまま。みちる兄と話しているのだろうことは、すぐに理解できた。

「うん、うん――そう、そうよね。説明すると、そんな感じか。

 ――っていうことなんだけど。わかった、美月?」

「ぇ、……え?! なに、ごめん。ぜんぜんわからない」

 いや、私にはみちる兄の声は聞こえていないわけで。理解できるわけもなかった。

「あ、そっか――もう! ややこしいのよ、充。

 あなた、今後は一切の発言を禁止するから。そのつもりで」

 ……それは控えめにもひどい話だ。それでもどこからも反論が出ないのは、いいかげんにみんなも疲れてきているのかもしれなかった。

 いつまでもバカをやっていられるほど子供のふりができるわけもなく、まったく進展の見られない話し合いほど精神を消耗するものも、そうはない。ひたすらに、私達みんなの責任だ。

 まあ久しぶりの再会なのだから、少しばかりはしゃぎすぎたからといって咎められるものでもない。それにしたところで疲れはする――それだけのこと。

「だから、んー…。私たちは、美月にずっと申し訳なく思ってて。後悔したままで。

 それはもう、未練の塊みたいなもので。美月には私たちがひどいことをしたぶんを取り返すくらいに、幸せになってほしいっていう執念じみた願いがカタチをとったみたいな」

 しづき姉のいうところに、反駁したい気持ちは確かにあった。だが、それをしたところで積み重なった時間と気持ちとが、まるごと否定されてしまうというだけにすぎない。

 それは彼らを冒涜することのように思えた。そのことについては、なにも口にするべきではないだろう。

「だから――あなたの死を認められるわけがなかった。許せるわけがなかった。

 だってあのときのあなたには、去り逝く人が当たり前のように抱えていく、心残りの一つもないようにみえたんだもの。絶対に、幸せなんかじゃ、なかったもの」

「………………………………」

 あぁ、そうか。そういうこと、だったのか。

 私をこの世に縛りつける未練は、詩歌のものなんかではなく――。

「諦めきれない私の、わがままだったの」

 告げる彼女の表情は、その胸に強く抱かれる私にはよくわからなかった。

 それでも彼女の声が穏やかであることに、胸で安堵の鼓動を刻む。とくん――とひとつ、ゆっくりと。

「充は、それでもいいって言うんだけど。あなたが遺すところなく、この世を去るのなら、それもひとつの結果だろうって。

 けど、私はいやだった。このまま私たちが未練に縛られて、さまよい続けるぶんには構わない――自業自得だもの。でも、じゃあ、美月は?

 哀しみも淋しさも拭うことを知らず、喜びと充足とを喪ったままで――美月を終えてしまうのかって、そう考えたら、もう…ね」

 私を包み込んでくれるしづき姉にそっと力を込めて、喜びの半分を返してあげる。私の抱き返すことで、この心に灯る温もりが少しでも伝わればいいのだけれど。

「……ありがとう」

 だから、それはきっと二人の言葉だ。私達、二人の。


 いまはない私の身体。それでもまだ確かにある私の心――その奥底で、なにかの解ける優しい音が、聴こえた気がした。

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