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美月の詩歌  作者: はるか
8/10

彼の感情、彼女の救済

 わかってはいた。自身のなかに、もうひとり違う人間がいた事実を知らされて。

 彼らが美月を想っていたのは、理解もしよう。しかし、だからといって。詩歌の気持ちはどうなるというのか。

 所詮は子供の抱く泡沫の感情。確かに大層なものではないのかもしれない。しかし、こうまで弄ばれていいものであるわけがない。

 ……美月が悪いわけではないのは、あたりまえだ。彼女はなにもしていないし、なにも知らない。それでも。

 彼女のために何かを為したかった詩歌が、本当の彼ではなかったのだとしたら――。


 かくて向坂詩歌の出口のない思考は眠りに落ちるその瞬間まで、ぐるぐると同じところを回り続けていた。




   1


 世界はその一色で、染め上げられていた。白としろとシロ。

 リノリウム張りの白い床に、しろい天井。窓にはこれもやはり、シロいカーテン。刺激になるものを極力で排したその世界は、結局のところ。ただの病室に過ぎない。

「……おはよう。ようやくのお目覚めかな、お姫さま?」

 その言葉に、今しがたこの世界を取り戻したばかりのみちる兄が、淡く淡く――消えてしまいそうなほどに淡く微笑んだ。

 それを見ればしづき姉がみちる兄のことをお姫さまと呼ぶのも頷ける。

 色白で線の細いみちる兄は、性別に似つかわしくもなく、美しく可憐――それ以上にキレイだった。

「おはよ、姉さん。また、逢えた」

 その言葉に、しづき姉も悲しく微笑んだ。

「あたりまえ。昨日も一昨日も、それどころか毎日だって逢いに来てる。だから、今日も逢えたし、明日だって明後日だって、また逢える」

「……でも、怖いんだ。眠るたびにいつも想う。

 このまま、世界を失ってしまうんじゃないかって。この世界に何一つ遺せないままで」

 その言葉に潜んでいるのは紛れもない恐怖。だからこそ、しづき姉は微笑うのだろう。

「また、難しいことばっかり。そんなんじゃ、疲れるでしょ?」

「でも、やっぱり考えるよ。どうしても。ぼくはきっと、死の間際に想うんだ。

 なんて無意味なんだろう。なんて不幸なんだろう。ぼくは生きることすらできずに死んでいくのか。

 ……そんなふうに、深く深く、悔いながら――」

 しづき姉はやはり、変わらずに微笑んで――いや、哀しさを拭った優しい顔で。

「ころしてあげるよ」

「――え?」

 あまりにも唐突な言葉でほうけたままのみちる兄に、しづき姉は。




 きっとあなたを、ころしてあげる


 あなたが、くいることのないように


 とても、しあわせに


 きっとわたしが、とてもしあわせに、ころしてあげるよ




 だから哀しいことを言わないでと、しづき姉は泣きながら微笑んだ。






   2


 硬い靴音が響く――いつもなら。だが、その日に限っては日常など意識するべくもない。

 氾濫する靴音は喰らいあい、混ざりあう。無音であることにすら等しい雑音の中では、響くことなどありえない。

「…………」

 だから、しづき姉のそれは確信だ。予感だなどと生ぬるいことを思う余裕などない。

 駆ける。ただ、それだけ。白の床を踏み抜くかのような激しさも、彼らの慌しさには届かない。

 見慣れた部屋――あまりの繰り返しについぞ見慣れてしまうほどに通いつめた病室からは、白の人々が入っては出て、出ては入る。

 それら医師や看護師の様子を見れば、中で何が起きているのかは容易に想像がつくだろう。

 部屋を覗く勇気すら失くしたしづき姉は、次第に駆ける速度を衰えさせる。ついには脚が止まってしまうほどに。

 手が届くほどの距離にある、開け放たれたままの扉。

 しづき姉にとり、その距離が如何ほどであったことだろうか。

――――トン

 不意に背を押したそれが、ほんのひとときで、しづき姉の距離を瞬く間にゼロにしてしまったのだとしても。

 偶然。慌てる看護師が、彼女の背に触れる程度にぶつかってしまったのだとして。そこにどれだけの罪があろうか。そんなものはありはしない。――ただ、残酷であるだけ。

 病室のみちる兄。ぐったりと意識のないその様子を見て、しづき姉はただ、一言。

「……ごめんね」

 たった一言だけ、そう告げた。



 その日の遅くまで掛かりきりになって、病院の医師たちに出来たことといえば。

 今日、明日が。

 みちる兄の命日になるだろうという不吉を語ることだけだった。






   3


 ふと夜中に目が覚める。胸に感じるしこりは、得体の知れない不安だろうか。

 遅れて追いついてきた焦燥に、思わず隣りに並んだしづき姉の布団に手を伸ばす。

 手に入るだろう柔らかな感触と温もりに期待して――裏切られる。

「……しづきねぇ?」

 寝惚けた声はフリだけで、凍りついた心臓の跳ねる軋みで、とうに目は冴えてしまっていた。呼びかけてそれでも返らない声と、すでに人肌の温もりを失った布団の意味を、すぐにも理解できる程度には。

「…………」

 しづき姉はいない。なら何処に? ――そんなものは考えるまでもない。

 昼に見た、みちる兄の姿を瞼の裏に幻視する。それできっと、間違いではないだろう。

 そこまでを考えて、あとは落ち着いてなど居られずに、慌てて布団を跳ね飛ばす。その寝姿のままで部屋を抜け出すと、しづき姉もそうしたように、両親に悟られぬよう家を後にした。


 街灯のまるきり足りていない暗闇を、精一杯に駆けていく。運動なんて人並みでしかない私は、すぐにも息が切れて速度を緩める。それでも歩くことなど考えられずに、そのうちまた全力で駆ける。

――――はやくはやく……。

 とうの昔に私を追い抜いていった焦燥は、振り返りもせずにせかしてくる。追いつけない私は必死に走り続けるつもりでいるものの、意図しない緩急に身体は疲れ果て、歩くよりも遅い駆け足ごっこ。

――――…………。

 ふいに私を追い立てる声が聴こえなくなる。だからきっと、このときにはもう、私には分かっていた。

 背中も見えなくなった焦燥の代わりにやってきたものは絶望で、それでも私は諦めきれずに暗闇を駆けていく。


 夜の病院はいつものようなシロの世界には程遠く、黒と灰とのモノトーン。ときおり視界を掠める不気味な緑は誘導灯の明かりだろうか。

 不思議と誰と出くわすこともなく、ナースステーションにも人がない。だが、そんなことは些細なことで。

 私はひとり、無人の廊下を踏みしめる。通いなれた道行きには案内の必要もなく、気がつけば目的の病室は、もう目の前だった。

 手に掛かる扉の取っ手は、やけに重たい。――いや、私がそうと感じただけだろうか。だが、それも同じこと。

 いまこの場には私しかなく、この扉のカタチをした隔絶は開けなければならない。錯覚だとして、私に重い扉であることは確かだった。

「…………」

 あれほど乱れていた吐息はすでに穏やかで、とても似つかわしいものに思えた。

――――さあ、絶望を確かめよう。

 あるはずのない声に力などあるわけもない。だから。

 私は自分自身の意志と力で、その重たい扉をこじ開けた。



――――ピー……

 部屋には奇妙な電子音。誰かに何かを伝えたくていつまでも鳴り止まないそれも、すでに予感と呼ぶのもおこがましい確信を得ていた私には煩わしいだけだった。

 ベッドには、横たわるみちる兄。

 その寝顔は安らかで――死んでいることが嘘のよう。

 脇には、立ち尽くすしづき姉。

 感情のごっそりと抜け落ちた顔は悲痛が過ぎて――生きていることが嘘のよう。

 彼女はみちる兄に繋がれていたのであろう幾本ものチューブやコードを手に、ゆっくりと顔を覗かせた。

 顔をこちらに向けたというわけではなく、ただ見えるようになったというだけ。だとしても、口の動きくらいは読み取れる。

 暗闇を駆けてきた私には、不必要なくらいにそれがよく見えた。


 ――ご…め…ん…ね…


 私に宛てた言葉ではありえないその声は、だから私には聞こえなかった。ただ理解できたというだけ。

 そのひとときに。

 暗闇になれた目には痛いくらいの光が差した。瞬間に、世界はシロへと成り代わる。

 そのシロの世界で。

 照らす光の源は、しづき姉の手に握られた包丁だった。

 そのひとときに。私の大好きな彼女は、手首を切り落としていた。


 世界は暗く、世界は赤い。

 勢いよく噴きだした赤は至るところで跳ねて、跳ねた赤は私を塗りつぶしていく。

 いつのまにか。どこか遠くで、騒がしくする人々がイル。

 あレは終わりを迎えたシロの世界のヒとびとだろうか。いまさラなのに。

 ひとリが私の肩を揺さぶった。その拍子に倒れこんだ私に、まタ一段と騒がしくなる。

 目の前には迫るかオ。顔だ、と思う。違うかもシれない。霞がかかったようで、よく見えない。かけラれた声も甲高くて、重厚で――男か女かすらヨくわからない。

 見渡せば誰もカれもが、おなじ眺め。おなジ景色。


「――――ぁ」


 掠れた声は私のもので、それだけはよく分かった。それだけしか分からなかった。

 ただひとつ、私の理解が及ぶものでこの世界を埋め尽くしたくて、



――――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!



 叫びはもしかすると――悲鳴だったのかもしれない。





   4


 夜の暗がりで、ひとり泣く。

 どうして泣いているのかなど、混乱する私にもよくは分からない。

 大切な人たちを亡くしたばかりの私は、彼らのいなくなった夜に。

 色褪せてしまった世界で。

 たったひとりを嘆いて、泣くのだろうか。



   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇



「――――っ」

 一瞬、息の仕方がわからなくなって、ひとつだけ丁寧に息を吸ってから、ゆっくりと吐き出した。

 それの済む頃には、身体の中には怒りが詰め込まれている。まるで吸い込んだもののすべてが、その感情に成り代わってしまったようにすら感じられた。

「――ざっけんなぁぁああああッ!!」

 吐きだしても、尽きることがない。まるきり落ち着かない身体は、巡った怒りが毒であったかのように震えが止まらない。力が抜けない。

(なんだ、いまの夢は。なんなんだ。ゆめ――なわけがない。あれは過去だ。静月が保証してる。じゃあ、なんだ。あれは、美月の――。

 くそ。くそくそくそくそ……)

 ループする思考。延々と途切れることがないそこに差し込まれたのは、

――――とんとん、た、たん

 軽快な足音。これには詩歌も聞き覚えがある。当然だ。

 彼の姉が詩歌の部屋へと訪れる時には、必ずこの音を聞かされるのだから。

 ……身体はまだ、震えていた。

「ちょっと、またぁ?! なに、なんなの??」

 ノックもなしに押し開けられた扉の、その向こう。見知った顔に、ぶち切れた。

 自制は――知ったことではなかった。

――――ずだぁん

――――こ、ひゅ

 襟首を締め上げて、そのまま壁に叩きつける。

 間抜けた音は、叩きつけられた彼女の肺から漏れたものだろうか。

 姉に暴力を叩きつける――その行為には怖れに似た得体のしれない感情がつき纏う。それでも。

(なにやってんだ、オレは。相手は姉貴だぞ。

 …………姉貴? ああ、姉貴ではある。だけど、この中身にはッ)

「……あんた、よくもやってくれたよな。

 なんだあれ? なぁおい何をやらかしてくれたのかを訊いてんだよ!」

「やめ…て。なに? ど、うした……の?」

 目には涙で、顔には苦悶。詩歌のよく知る女性そのままの仕草にも、むしろ怒りが煽られた。

 なにかがちがう。それはわかっている。しかし、それがなんだというのか?

「うるさい! いつまでそうやってんだ。

 さっさとでてこい! ほら、はやくしろよッ!!」

 もういちど、ほとんど全力で壁に叩きつけようとする――その一歩手前。


「やめなさい。あなた、自分のお姉さんを殺すつもりなの?

 ――ぜったいに、後悔するわよ。ほんとうなんだから」


 締め上げられていることを気にするふうでもなく、こともなげに言ってのける声が滑り込んだ。

 姉の喉からでた姉のものではないそれに、冷水を引っ被らされた心地になって手を離す。

 詩歌が一歩二歩と後ずさると、自らの襟元を正した彼女は。


――――ごぃんっ!!


「――っだあ、ぁぁ~つつ……」

 悲鳴が遅れてやってくる。それほどの激痛。詩歌は頭を抱えて痛みに悶えているにもかかわらず、彼の姉の顔をした静月はいましがた振り下ろした拳骨を解くことも、振ってほぐすこともしていない。

 まるきり痛みも苦しみも感じていない様子で、きつく詩歌を睨みつけているだけだ。

「不思議そうな顔、なんて間抜けな。そりゃ痛くないわよ、わ・た・し・はッ! 私の身体じゃないもの、もう死んでるもの、あたりまえでしょ?!

 でも。あなたのお姉さんは苦しかった、痛かった、悲しかった――あたりまえでしょ!

 だって。生きてるのよ、〝あなたの〟お姉さんなのよ!!」

 鼻息も荒くまくしたてて、いまだに解いていない拳骨をもういちど振りかぶり――、

「だ、ちょっ――まて。ごめ、ごめん! ごめんなさい!!」

 詩歌にしても必死だ。それくらい痛かった、ほんとうに痛かった。それよりなにより。

 握られた姉の拳は真っ赤に腫れて、とても痛そうだったのだから。



「む、ごめん」

 手に包帯を巻かれながら、詩歌に対して素直に頭を下げる。

「痛みがないから、気がつかなくって。あなたのお姉さんを、きずものにしちゃったね」

「いや、その言い方はなんか違うから――じゃなくて。

 オレのほうこそ、わるか――」

「謝るなら私じゃなくて、お姉さんにでしょ。あとで、ぜったいに、謝りなさいよ。

 でないと祟ってやるから」

 怒りがぶり返したのか、ふんっと鼻から息を抜いている。それに対しては詩歌も釈然としない面持ちだ。納得できていない。

 確かに彼の振る舞いは自他共に最悪を認めざるを得ないところだが、静月にしたところで人のことを言えた立場でもないだろうに。というのが詩歌の正直な感想だった。

「……くそぅ」

「んー? なんか言った?!」

 小さくぼやいたつもりでいても、耳ざとく怒られた。そうして募る苛立ちこそがきっかけだった。だからといって静月が促した、というわけでもないのだろうが。

「べつに。……そりゃ、ちゃんと謝るさ。そんな睨むなよ。

 それより。ちょっとこっちの話、させてもらってもいいだろ?」

 詩歌とて多少は冷静になったというだけで、怒りを鎮めたというわけではない。

「……なに?」

「……ゆめ、視たぞ。たぶん、美月の」

「そ。まだ視れたんだ」

 話したいことが分かってでもいるのか。彼女の顔に浮かぶ表情は、詩歌には理解できそうもない複雑なものだった。しかしだからといって、そこで矛を収める義理は――あるのかもしれないが、詩歌にはそのつもりがない。

「あんた、さいあくな。よくもあいつに、あそこまでひどいことができたな」

「…………」

「あんたこそ、あいつに謝ったらどうなんだよ」

「…………」

 黙然と押し黙るばかりでも、静月が本当はどうしたいのかくらいは詩歌にも理解できる。先程までの彼女を見ていたのなら、余計に。

「なぁ――」

「あなたは? 私と充を知って。美月を知って。

 それであなたは、どうするの? どうしたいの?」

 どうするのか。どうしたいのかなら、話は簡単だ。考えるまでもないうえ、考えるようなことでもない。ただ実際にどうするのかということになると、それは――。

「好きだから、なんとかしてやりたいと想うんだ。その気持ちは変わってない」

「なら――」

「でも好きだから、なんとかしてやれるって考えたんだ。それも間違いじゃないだろ?

 オレみたいな嘘の気持ちじゃ、できることなんてない。……できるって信じられない」

 静月は黙って、詩歌を見ている。だから、彼は話し続けるしかない。言い訳をするみたいに。

「だから静月みたいに、本当の気持ちであいつと向き合える奴が、なんとかするべきなんだ。

 ……なんとかしてやって、ほしいんだ」

 それでも。底の浅いことを誤魔化せるわけもなく、言葉はすぐに失くなった。それ以上、何を言えるわけでもなく、何を言うつもりにもなれなかった。

――――はぁ

 聞こえてきたのは、静月の溜め息。その呆れの滲む吐息に、詩歌は訳もなく親しみだか懐かしさだかを感じとる。

「ほんとうに。なにを勘違いしちゃってるのかな、しょうねん?

 嘘だの偽物だの。まさか、私たちに君の気持ちをどうこうできる力があるとでも、思ってるんじゃないでしょうね」

「――え、それはどういう」

「わたしたちが――正確には充が、あなたにしたことはね。そんなにだいそれたことじゃない。

 あなたの視線を、ごくごくたま~に、美月に向けさせたっていう――それだけのことよ?」

 まったく、私たちのことを、なんだと思ってるのかしら――とは静月の言葉だが、そんなところまで聞こえてきてなどいなかった。少なくとも頭のなかで理解されることはなかった。

 そんな瑣末なことよりも、頭のなかで巡る言葉が煩いほどで。


 あなたの視線を、ごくごくたま~に、美月に向けさせたっていう――それだけのこと


「……じゃあ、オレの気持ちは」

 その時の静月の、意地の悪い表情を、詩歌は絶対に忘れないだろう。

「ま~あ~? あなたの気持ちも分からなくはないわよ。美月は可愛いし、美人だし、賢いし、清楚だし、健気だし……ほかにもいろいろ。とーっても魅力的だもの。

 あなたが「みつきー、みつきー」って、あの子のことしか考えられなくなっちゃうのも、仕方のないことなのよ?」

「……………………ちくしょう」

 いまのオレはさぞおもしろい顔色になってるんだろう。詩歌がそうと確信するほど静月は愉しげな様子であったし――それがなくとも火照った感触がなによりも雄弁に物語っている。

「あー…、なんかバカみたいだ、オレ」



 いますぐ一緒に公園に行こうという詩歌の言葉に、返る静月の言葉は要領を得ないものだった。

「私は後でもいいわ。あなたたちの邪魔をするのも悪いし。

 ……あなたは未練って言葉を、軽く考えすぎなのよ。あの子にだって、心残りはあるかもしれない。でも、それだけのこと」

 だから詩歌も、続いた言葉にだけ頷いておく。

「それに。私はまだあなたとちがって、心が決まってないの。……自信がないのよ。

 あの子の涙を受けとめるために。もう少しだけ、時間が欲しい」


 家を後にして、あとは一目散に駆け出した。

 これからどうするつもりなのかは詩歌自身にも分からなかったが、とりあえずを始めてしまえば、あとからでもやらなけらばならないことが分かってくるという確信はあった。


   ◇   ◆   ◇   ◆   ◇


 おなじことの繰り返しは、上手なほうだ。私は持て余した退屈の処し方を知っている。溜まりに溜まったそれを、一息に吐き出してしまえばいい。それだけのこと。

 あいもかわらずのシロのベンチと、木漏れ日の下で。もうひとつ、重たい息を吐き出した。何度目かになるそれは、もう数えるのも面倒になるほど。だから覚えているわけもない。

 ただ、この場所であったことには感謝するべきか。人は来ないし静かなものだ。……あの耳障りな工事の音を除けばの話だが。

 やることもない私が、転がす無為の時間で遊ぶには相応しい場所のように思える。

「そこ、座っても…、いいか?」

 軽く乱れた息で呼びかける声に、驚くことはない。少し前から駆けてくる人影には気がついていた。

 それにしても。

(これはひどい。まるきり、ぜんぜん、なにがなんだか分からない)

 人影を見れば、それはやっぱりただの人影でしかなく。

 異国の人は識別が難しい――などというレベルでは済まされない。これならまだしもマネキンの目鼻立ちを区別するほうが簡単そうだ。なんて軽口もやはり、無聊であること甚だしい。

 人はただ黒いヒトガタとしてそこにあるだけだし、声の調子もリズムもわからない。内容だけが伝わってくる。気持ちが悪い、と思う気持ちもあればよかったのだが。白状すれば興味も持てない代物が判別できなくとも、なんら支障がないかのように思えてしまう。――それこそが気持ちの悪いことこのうえなかった。

 これでは、そのままあの日にまで戻ってしまったようなものだ。大切な人たちを亡くした、あの瞬間まで。

「…………」

 いま来たばかりのそいつは、ただ黙って私の許しを待っているようだった。

 実のところ、そいつが誰なのかの見当はついている。幽霊の私が見える人はそう多くはないだろうし、話し方からして昨日の彼女でもないだろう。

 この距離感――十中八九でアイツだろう。確証はないが。

「そこまでわかってるんなら、座ってもいいよな」

 どうやら当たりらしい。考えていることを垂れ流しにしていた甲斐があったというところか。

 どっかりと座り込むコイツと私は、ちょうど別れる前の焼き写しのようだ――と思う。あのときと今とでは私の認識の幅に違いがあるから、あまり自信は持てないが。

「話をしにきた、と思う。いや、言いたいことがあってきた――のか?

 くそ、自分でもよくわかんねぇ」

 考えが纏まらないようで、それなら私はただ待つだけだ。なにしろ特にすることも、できることもないのだから。

「でも、たぶん。逢いたかったんだ」

 美月に、すごく――とは恥ずかしいことを。上擦った声で私の名前を少し照れながら呼ぶところも、コイツを恥ずかしい奴だと思わせる要因か。

「るっさいよ。あー、もう。オレの気持ち、お前にはわかんねーよ。

 ……ちっとは理解してほしいとこなんだけどな。んでもって。その理解した気持ちと同じものを、オレに対して向けてくれればパーフェクトだ」

 ……きしょく、わるい。

「るっさいっての、ったく」

 苦虫を噛み潰したような顔をして、それから何が可笑しかったものか。くつくつと、抑えた声で笑い出す。

 その笑顔に思わず私も釣られそうになって――ん?

「……あれ、もどってる?」

「ん、どうかしたか?」

 いや、思わず私も恥ずかしいベタを踏むところだったもので。

「……なんつーか。おまえ絶好調だな、意外と」

 ふむ。などと冗談をやっている場合でもなくて。

「んー、アンタの表情が分かる――だけでもないんだけど、いつのまにかいろいろと感覚がもとに戻ったみたいで。もちろん、障害が治ったわけじゃないけど。ちょっとだけ、最悪のところから改善されたというか。……まあ、私が長年付き合ってきた、いつもどおりの私?」

「そっか」

「む、リアクションがうすい。アンタにとってどうだったかは知らないけど、……私にとっては一大事だったんだけど?」

「いやー、オレとしては、そっちはもうどうでもいいというか」

 む。そこはかとなく腹立たしい言いまわしだ。そもそもコイツのせいなのに。

「なんでだよ? お前の姉貴のせいだろが」

「……アンタが。そういうふうに無神経に、私の事情に首を突っ込んでくるからでしょうが。

 あと。なんでアンタが知ったふうな口を利くのかしらないけど、しづき姉のせいみたいにいうな。次に言ったら承知しないから」

「ちっ、かわいいやつめ。どこまでおねえちゃん子なんだ」

「――なっ?!」

 言うに事欠いて。自分だって、私とそうは変わらないくせに。

「誰がだッ!?」

「アンタが。どう見てもお姉さんにべっっったりでしょ。

 私達くらいの年じゃ、珍しいくらいじゃない?」

 ……お互いに、言葉もない。まあ、否定したところで仕方がないことも、お互い様といったところ。

「んーで、話を戻すと!

 オレとしては、そっちはもうどうでもいいというか」

 また強引な。

「しるか――あー…と。それでな。

 そっちはたぶん、オレがやることでもないんだよ」

 そっちもなにも、私のことでコイツがどうにかしたりすることなんて、最初からどこにもありはしないだろう。

「ん、まー、そうなんだろうな。だから、正確にはオレのこと。

 こいつをきちんと片付けちまうのが、オレのしなきゃならないことだろ? なにせ、自分のことだし」

 やけに迂遠な言い回しに、どことなく既視感を覚えるような。デジャビュ。

「あー…つまり、だ。なんだかんだで、アレはうやむやになったわけで」

「あれ?」

 なにをいいたいのか、コイツは。あー、なんとなく久しぶりの頭が痛い感覚を思い出してきたかもしれない。

「ん。それであとは――なんかなあなあになっちまったし。いや、ほんとに。

 惰性って怖いよな。あんな状態で恥ずかしげもなく生きてこれたんだから」

 ふむ、ついに生きることに恥じらいを覚えるようになったか。すこし見ない間に、ずいぶんと成長したのかもしれない。

「なんでだッ?!――じゃ、ねえ。きけ、まぢで。頼むから」

 ならさっさと話せばいい。ぐねぐねそわそわと、きもちわるい――というか居心地が悪い。

「む、失礼な。つーかさりげに男の沽券に関わってたりしないか、これ?

 よし、びしっといこう。そうしよう」

 などと宣ってより、数十秒。いいかげんに私が焦れ始めた頃に、コイツはバカのつく真面目さで私と向きあった。

「オレは美月のことが、ほんとうに好きだ」

「……………………」

 思わず在りもしない肩がこけた。……なんというか、それはいまさら過ぎはしないだろうか。まあ、確かに告白されてより、ずっとうやむやだったような気も――いや、私は死ぬ前に一度、きちんと断っていたかもしれない。やっぱり、いまさらだ。

「じょーだん。アレは断ったうちには入らないだろ。

 オレの名前を知らないなんて、態のいい言い訳じゃないか。好き嫌いに障害の話なんて、持ち込まれて堪るか。

 実際に、名前を覚えられないのはともかく〝オレ〟のこと、きちんと知ってるじゃないか。もう知ったじゃないか」

 まあ、ぺらぺらと。よく舌のまわることだ――なんて。

 そんな皮肉に怯むような奴でもないか。

 確かに私はそれが分かる程度にはコイツのことを知っている。コイツだって、私がこの程度のことは言ってのける女だと分かっている。

「まあ、ちょっと――どこじゃなく迷ったりしたけど。きっかけじたいは、しょうもないもんだったけど。

 オレは心の底から、美月のことが好きなんだ」

――――ふぅ

 息を吸って。

 軽くついた息は――


「私もあなたのことが好きだよ、詩歌」


 ――もう、言葉になっていた。私の意図するものよりも、ずっとはやくに。

 まるで言葉そのものが、待ちきれなかったみたいに。

「おまえ、オレの名前?」

 ……なんだ、私の告白よりもそっちの驚きのほうが強いのか。少し、寂しさを覚える。

「いッ!? あ、いや――でも!」

「名前なんて記号で括るみたいだから。私には、そんなふうにしか感じられないものだから。どうしても、口にしたくなんてなかった。

 でも。ほんとうは呼びたかったに、きまってるよ?」

 震える声はみっともなくて、だから私は俯いた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 きっと詩歌は知らないだろう。

 退屈な私の日常を喰い破って、私のとキミのと。

 一緒の日常を築き始めてくれていたキミに、私が惹かれていたことを。


 きっと詩歌は知らないだろう。

 キミに〝私〟という歪を晒すことに怯えていた私が。

 キミと向きあうことから逃げ出してしまうほどの、臆病者であったことを。


 きっと詩歌は知らないだろう。

 キミというカタチを失ってしまった、あのとき。

 私がどれほど取り乱し、どれほど深く絶望していたのかということを。


 きっと詩歌は知らないだろう。

 いまこうしてまた、キミのカタチを取り戻し。キミの心に触れて。

 私がどれほど嬉しいのかなんて――。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 俯く私を。彼がその胸に抱く。

 でも。抱きしめるようにまわす腕に触れる身体がないせいで、あたりまえのように落ち着きどころなんてない。詩歌は仕方がないといった風情で、できるかぎりに私と寄り添ってくれた。



 ……おかしな話。幽霊の身の上を、このときほど恨めしく思ったことはない。


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