エピローグ
その瞬間に、夢を視た。
残るものなど何もなかったのだから、それはきっと夢だった。
〆
「おわかれです」
冗談めかした彼女の言葉には震えが帯びる。そこには確かな理解の色があった。
彼女が告げるままの、終幕の理解。
「……なに、いってんだ?」
理解したくない彼の言葉にも、その彩りはある。意識せずとも、彼にも予感はあったのだ。
揺られる電車で視た夢に、別れの向こう側を口にしたときから。
「…………」
問いかけに返る言葉はない。彼女とて認めたいわけではなく、ただ認めるしかなかったというだけ。
二人の間に沈黙が横たわるのも、当たり前といえば当たり前のことだった。
そんなときに沈黙を破るのは、いつも詩歌のほうだった。少なくとも彼女は、思い出の彼をなぞって、そう思う。
「そういや、聞くの忘れてたけど。
美月の病気って、もう治ったのか?」
「私の障害のこと? ううん、まだ治ってない」
「なら――」
勢いづく彼の、引き止める言葉が出る前に。
「でも、もういいかな――とも思う」
彼女の言葉が彼の意図を受け止めて、そのまま飲み干してしまった。
「私は大切な人を、大切なんだって認識し続けるために必死でいられるの。それって、けっこう素敵なことじゃない?
だって私は、大切な人だけ見てればいい。余裕なんてないから、それだけをするの。
……もしかしなくても、それは怠惰なことだけど。すでに亡いこの身になら、許されてもいいことなんじゃないかって――そう、想う」
ダメ、かな? と自信のない彼女は上目遣いで、だから彼は頷くしかない。
そんなふうに許しをねだられて――甘えられては、拒否も拒絶もありえない。
「美月がそれでいいなら、オレだってそれがいい。
……じゃ、オレのために残れないか。だって、これからじゃないか。二人でなら、まだまだ楽しくやれるじゃないか」
なりふりは構わない。本物の言葉で、本当の心を曝けだす。
「オレは美月が好きで、美月だってオレが好きだ。やっと想いあえたんだ。
……やっぱ未練だろ、そりゃ。自分勝手だけど、美月を縛りつけてでも一緒がいい」
彼女は笑って、否定した。拒絶ではない。彼の嘘が分かっていたから、否定する。
「詩歌には無理。自分がどんなにそうしたいからって、私のことを殺せない。――私の自由を、殺せない。
ふふ、いま思えば。私って見当はずれだ。詩歌の未練が私を縛りつけたなんて、あるわけなかったのに」
「――――っ」
なにかを言葉にしようとして、それでもできない。彼女も〝それ〟には気がついていた。
気がついていたから、残酷にも気がつかないふりを通した。彼にはできずとも、彼女には彼を殺すことができたから。――それが彼のためであるのなら。
「それに、詩歌のそれは未練じゃないよ。未練って言葉は、そんなに幸せな言葉じゃない。
詩歌はね、心残りなの。誰だって胸のなかにたくさん隠してる――そんなありふれた想いのひとつ。かけがえのない想いの、ひとつ」
「……いいのか、それで。おまえだって心残りを感じてる。それくらいは分かってやれる。
――ほんとにこれで、おしまいか?」
ひとつの問いは、最後の問いだ。それが分かるから、彼の言葉は震えている。それでも彼は震えを隠したつもりで、口にする。
それはきっと、彼女の言うとおりだったからに違いない。
「死ぬまでに何もかもが片付いてしまうなら、そんな人生はおもしろくなんてないよ。私はきっと、充実した生を送ったんじゃない?
だって、こんなにも――心残りなんだから」
綺麗に微笑む彼女はあまりにも美しく、彼はだから指先のひとつも動かせない。
彼女はそんな彼を見て、やはりおかしそうに笑う。笑ってそっと、身を寄せる。
――――ふ
気がつけば彼女の微かな息が、彼の唇に触れている。
そこには温もりがあって、――優しい気持ちが唇を撫でていった。
触れるか触れないかの、幻のようなくちづけ。それはふたりの、最初で最後のくちづけだ。
だが、それも当たり前のこと。ファーストキスはいつだって、最初で最後には違いないのだから。
恥らい微笑う彼女はやはり綺麗で、――流れる涙は美しかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ゆっくりと瞼を開いて、それから何度も瞬きをする。美月が静月を抱き返した瞬間に、淡い光を見た気がした。詩歌はその優しい光に、なぜか目を開けていることができなくて。眩んだ視界に、意識までも持っていかれた。
それは一瞬のことであったに違いなく、いまこうして目を開けてみた彼からすれば、浦島の翁にでもなった気分だった。
「……みつき?」
だけではない。充も、それにおそらくは静月も。床に倒れる姉を抱き起こして、詩歌は確信する。
みんなが、いなくなったことを。
「……ん…んぅ。――いった!? なにこれ、包帯?
あれ、詩歌? どうしたの、あんた??」
意識の戻った彼女は手に巻かれた包帯を気にしていたが、何に気がついたものか詩歌の頬に手を伸ばす。その途中。
「え、ちょっと、中指の爪が欠けてるっ! しかも、りょうほうッ!?」
(あー…、よっぽど強烈だったんだな、あれ。……そりゃ、ばかみたいに痛いはずだよ)
感慨は胸の中にだけおとしたつもりでも、急におかしくなって思いがけず笑い出す。それも大声で。
「……どうかした、詩歌?」
「ははっ、あー、ひ、ひぃ…。んー、な、なにが?」
いまだに治まらない笑いを引きずって、問い返す。
「なんか、つらそう」
――彼女の短い一言に、ぜんぶの感情が詩歌の胸に押し寄せた。
それはそうだ――夢を想う。そんなふうだから、あのときのことを思い出してしまったに違いない。あの公園で、美月を傷つけたときのことを。
もしかして、なんて意味のない言葉だ。それこそ未練でしかないのだろう、あの瞬間への。それでも考えずにはいられない。
美月は「詩歌には自分を縛れるわけがなかった」と、そう言った。しかし、そんなものは嘘だ。
なにしろ詩歌は――あの瞬間まで確かに、美月を縛りつけていたのだから。
それなのに、美月を傷つけてしまったことに動揺して、すべてを放り投げて。
躊躇いもなく美月を手放した。みっともなく逃げ出してしまった。だから。
あのとき、美月を放さずにいたのなら――あいつはいまもまだ、オレの隣りで笑っていたんだろうか。
――そう考えずには、いられない。
波のようにうねる感情に。
それでも泣いてしまうのはなにかが違う気がして、頬に残っていた名残ごと拭い去る。
「初恋はうまくいかないって、よくいうだろ?」
「…………うん」
唐突な問いかけも、ゆっくりと促してくれる彼女に。
ほんとうに彼女が自分の姉でいてくれてよかったと、心の底から感謝した。
「あれさ、嘘だったよ。とんでもないデマだ。
――でなきゃオレの初めての恋が、こんなに幸せだったわけがないじゃないか」
「そうだね」と囁く彼女にこれもまた心底からの笑みを返して、ようやくのひとことで「ごめん」とだけ囁いた。
日常を喰らうことに厭いてはいたが――、
だからとて溜めおいた息を吐き出すに、不足することなどありえない。
――――あぁ。もっと、一緒にいたかったのに。
最後までお付き合いいただけた――のかな? そうだとしたらとても嬉しいのです。これが処女作というわけではないにしても、こうして誰かの目に触れさせるということは初めてで。胸の鼓動がうるさいくらいで、なんとも落ち着かない気持ちです。ここまで読んでくださった皆様に、ほんの僅かなりとも楽しいと思う気持ちがプレゼントできていれば――そう、願わずにはいられません。