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1話 出会い

「はあ……もぉ〜! 何なのよあの噂! ほんと意味わかんない……! 大体私はまだ男と付き合ったこともないのに!」


 静寂に沈んでいた空気を切り裂くように、階下から苛立ちの声が響いてきた。


 重い瞼の裏でうとうとしていた意識が、無理矢理現実に引き戻される。


 乱暴に階段を蹴るような足音が、一段ずつ迫ってくる。誰か来るのか……? 嘘だろ……?


 ここは特別教室棟の端だ。普通教室からは歩くには面倒なくらい距離がある。ましてや俺が今いるこの最上階の踊り場なんて、施錠された屋上の扉があるだけで、他には何もない。こんなところにわざわざ来る奴なんて、いるはずがなかった。


 だからこそ俺は、この場所を「昼寝をするためのプライベート空間」として利用してきた。寒い冬場以外は、昼休みにはここで過ごすのが日課だった。


「さっきの超睨んできた奴も何なの? 怖いんだっつの!」


 声の主である女子生徒は、周囲に潜む者が存在するなどとは、露ほども思っていないのだろう。


 だが不運なことにここには俺がいて、内容までばっちり聞こえている。


 出来れば鉢合わせたくはないが、俺がいる場所は最上階だ。あるのは鍵の掛った屋上の扉のみ。逃げ道はない。


 何より、眠気に包まれている体が重く、動く気にもなれない。


「はあ……もう最悪だし……!」


 ここは寝たフリをしておこう。


 右腕を枕にし、冷たい壁に向かって目を閉じる。いかにも眠っている人がいれば、声の主も立ち去ってくれるはずだ。


 足音は数段上り、至近距離でぴたりと止まった。その瞬間、張り詰めたような静寂が空間を包み込んだ。


 背中に突き刺さるような、戸惑いと警戒の視線を感じる。あーあ、絶対俺のこと見つけたわ……


 どうかこのまま立ち去ってくれますように。


…………


…………


 体感で2〜3分くらいは経ったと思う。


 背後からは言葉も、足音も聞こえない。遠くからは生徒たちの声が微かに届くが、この踊り場だけは静かで、時間が止まったみたいだ。


 眠気でうとうとしていたせいで感覚が鈍っている自覚はある。


 女子生徒は静かに立ち去ったのかもしれないが……もし今も後ろにいるのだとしたら、普通に怖い。


 このままだと背後が気になって落ち着かない。さっさと誰も居ないことを確認して、安心して眠りたい。


 俺は意を決して、ゆっくりと首を捻り、背後を窺った。


「……おわっ!?」


 視界いっぱいに、女の子の顔が飛び込んできた。あまりに至近距離だったため、思わず顔を仰け反らせる。彼女の髪の匂いが鼻孔をくすぐった。


 女子生徒は俺の背後に膝をつき、獲物を観察するかのように、こちらを覗き込んでいた。


 セミロングでストレートの黒髪。ぱっちりとした大きな目。鼻筋が通っていて、唇は小さく整っている。めっちゃ美少女だ……


 しかし、この顔には見覚えがある。


 確か、同じクラスの舞岡麗奈だ。男子連中が可愛い、美人だと騒いでいた女子だ。


「やっぱり起きてたのね」


 舞岡はいかにも不機嫌そうに顔を顰める。


「……」


 俺は再び壁に向き直り、右腕を枕にして目を閉じた。優等生の俺なら爽やかに笑顔を向けて挨拶するべきだろうが、今はその気力がない。


「さっきの聞いてた?」


 舞岡は構わず尋ねてきた。物凄く冷たい声音だ。無視していたらどこかへ行ってくれないだろうか。


「ねえ」

「……」

「聞いたの?」

「……」

「ねえってば」

「……」

「起きてるんでしょ?」


 しつこいな! 何で何も答えていないのに何度も話し掛けてくるんだ! ……まあ俺が一度振り向いてしまったからだろうけど。


 面倒だが、これ以上無視を続けるのは難しそうだ。


 俺は彼女に背を向けたまま答える。


「……何のことですか」

「聞いたのね?」


 あれ? おかしいな。とぼけたはずなのに、同じ質問をされたんですけど。逆に確信を得たみたいな感じなんですけど。


「……聞いてないですけど」

「何を聞いたの?」

「だから何も聞いてないですって」

「ここに居たら聞こえるでしょ?」

「不思議と何も聞こえないですけどね」

「正直に言いなさい」

「正直に言ってます!」


 何でもいいから早く納得してどっか行ってくんないかな……眠いから。


「……とにかく知らないです。お休みなさい」


 無理矢理に会話を打ち切り、目を閉じる。


「で、聞いたんでしょ?」

「……」


 駄目だ。舞岡は諦めが悪い上、俺の主張を全く聞き入れる気がなかった。まあ事実聞いたんだけど。


 とにかく誤魔化すのは無理みたいだ。


 俺は溜め息をつくと、ゆっくりと体を起こした。くそ、何も聞かなかったことにしてやり過ごしたかったのに……


「……だったら何? ここで寝てたら勝手に聞こえてきたんだけど」

「何であんた、こんなところで寝てるのよ?」

「俺の勝手だろが。いつもここで寝てるんだよ」


 ほぼ初対面の相手にも拘らず、言葉の端々にトゲが漏れ出してしまう。


 俺は昨日も遅くまで勉強していた為、眠いのだ。


「もしかしてぼっちってやつ?」

「違いますー。ちゃんと友達いますー。眠いからここで寝てるだけですー」

「ふーん。あれ? ていうか、あんた同じクラスの人じゃない?」

「……」


 ちっ、俺がクラスメイトだと気付きやがった。認識されない方が良いと思ったのだが……まあ時間の問題か。


「……そうだよ」

「名前何だっけ?」

「三島だ。で? 舞岡さんは何でここに?」

「え? えっと……私はちょっと色々あって……1人になれる場所を探しながら歩いてたら、いつの間にかここに辿り着いていたのよ」


 こんなところまで来るなよ……


「……ふーん。俺がいて残念だったな」

「そうよ。残念極まりないわ」


 だったらさっさと帰れ。そして別の誰もいない場所を探せばいいだろ。先客がいたからって不満をぶつけられても困る。


 それにしても、一つ疑問がある。


 教室での彼女はもっとお淑やかで、周囲に笑顔を振りまいている奴じゃなかっただろうか。男子連中が噂してた天使の笑顔はどこへ行ったんだ?


 いや、今日は特別不機嫌なだけかもしれない。ここへ来るまでに愚痴を溢していたんだ。きっと腹に据えかねる何かがあったのだろう。


「何か怒ってたみたいだけど、困ったことでもあったのか?」


 お節介かもしれないが、一応聞いてみた。


 俺に出来ることなんてたかが知れているが、相談くらいなら乗れるかもしれない。場合によっては、出来る範囲で助けてやらないこともない。


「いや、まあ……うん……」


 舞岡は急に言葉を濁した。言いづらいのか、それとも俺がほぼ初対面の他人だから話したくないのか。


 それならそれでいいけどな。無理に踏み込むつもりもないし。正直に言うとそこまで興味もない。


「言いたくないなら言わなくていいよ」

「……うん」

「それと、次からはちゃんと人が居ないか確認してから愚痴りなよ」

「む……やっぱり内容も聞いてたの?」

「だから勝手に聞こえてきたんだよ。もう眠るところだったのに」


 彼女は不満げに顔を顰めるが、不満があるのはこっちの方だ。安眠妨害されたんだからな。


「まあいいわ。それでさ……」


 舞岡はばつが悪そうに視線を逸らしながら、細い指で頬を掻く。


「さっき聞いたことは誰にも言わないで欲しいんだけど……」


 どうやら口止めしたいらしい。


 そもそも、俺の姿を確認した時点で引き返してくれていれば、俺は誰が愚痴を溢していたのか認識せずに済んだんだけど。俺はずっと横になって目を閉じていたんだから。


 まあ彼女からすればそんなことわからないか。階段を上っているときに上から見られている可能性もあったわけだし。


「別に言わないよ、興味ないし。つーか別にバレても大したことなくないか? 嫌なことがあったら愚痴を言うのも当然だろ?」

「そうかもしれないけど……いつもは猫を被ってるってバレちゃうじゃない」

「そうだね」


 普通に猫を被っていることを認めたな……もう俺には取り繕う意味がないということか。


 だけどこいつも苦労してるんだな。要するに、仲良くもないクラスメイトと表面上だけでも友好的に接することで、上手く付き合っていこうとしているんだ。教室での彼女を思い返してみたが、高校生であれだけビジネス笑顔が出来るだなんて立派なものだ。


「偉いぞ。君は社会人の鑑だ。その調子で頑張るんだぞ」

「えっ……うん。高校生だけどね」


 労いのつもりで軽く舞岡の肩をポンポンと叩くと、彼女は戸惑いながらも小さく頷いた。


「ってことで、俺は寝るから」

「……」


 俺は再び体を倒し、腕を枕にして横になる。


 舞岡はまた不満げに顔を顰めた。何かを言い掛けるが、それを飲み込むように溜め息をつく。


「はあ……わかったわよ。さっき言ったこと守ってよね」

「へいへい」


 俺が適当な返事をすると、舞岡は不満げな表情のまま立ち上がり、階段を下りていった。


 彼女が愚痴を溢していたことなど、わざわざ言いふらすわけがない。どうでもいいし、大して面白くもない。


 それに、猫を被るくらい俺もやってるからな。


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