第九章:お手軽キット缶
百貨店からの帰路、バスの規則的な振動が心地よかった。膝の上に置かれた紙袋には、ずしりとした確かな重みがある。鮮やかな緑色のラベルが目を引くモルトエキス缶と、店員が「優等生」とまで評した高性能酵母。それは、次なる挑戦への招待状のようだった。東京での、ただ帰って寝るだけだった週末とは全く違う。目的を持って街へ出て、新しい知識と道具を手に、期待に胸を膨らせて帰路につく。この感覚が、ひどく新鮮で誇らしかった。
社宅の玄関を開けるやいなや、崇の足はまっすぐにダイニングキッチンへと向かっていた。買ってきたばかりの戦利品をテーブルに並べ、すぐさま醸造の準備に取り掛かる。幸い、昨夜開けたのはあくまで試飲の一本目。冷蔵庫には、記念すべき最初の作品がまだ十数本、静かに出番を待っている。だが、それ故にこそ、間髪入れずに次のバッチを仕込み、醸造のサイクルを途切れさせたくはなかった。
まずは、全ての基本となる洗浄と殺菌からだ。前回使った大きな寸胴鍋や発酵容器を、丁寧にスポンジで磨き上げる。大学時代の実験で叩き込まれた、コンタミネーションへの恐怖にも似た警戒心。そして、品質管理の仕事で培われた、僅かなエラーも見逃さないという執念。その両方が、崇の動きを一層慎重にさせていた。洗剤を完全に洗い流した後、スプレーボトルに入れたアルコールで、道具の内外、コックの細部に至るまで執拗なまでに消毒していく。「醸造は、殺菌に始まり殺菌に終わる」。坂上講師のあの言葉は、今や彼の信条となっていた。
「あまり長く煮込むと、せっかくのホップのアロマが飛んでしまいますから。殺菌できるくらいで十分ですよ」
百貨店の店員からの的確なアドバイスを、頭の中で反芻する。前回はマニュアル通り60分間煮沸したが、今回はその工程を大胆に短縮するのだ。まず、鍋に約5リットルの水を張り、コンロの火を点けた。やがて鍋底から小さな泡が立ち始め、水面が揺らぎだす。沸騰したのを確認すると、甘く、そして僅かに焙煎したような香ばしさを放つモルトエキスを、分厚いシロップのように缶から全て注ぎ入れた。木製の大きなヘラでゆっくりと掻き混ぜると、エキスは見る見るうちに湯の中へ溶けていき、キッチンはパンを焼くときのような幸福な香りで満たされる。エキスが完全に溶け、再びぐらりと力強く沸騰したのを見計らって、崇は迷わず火を止めた。
次なる工程は冷却だ。ここでも前回の反省と新しい知識を存分に活かす。崇は、あらかじめ買っておいた2リットルのペットボトル入りのミネラルウォーターを数本、鍋の中に直接注ぎ込んでいった。80℃を超えていた麦汁が、冷たい水と混ざり合うことで一気に温度を下げ、同時に全体の量が目標の10リットルへと近づいていく。その後、前回と同様に鍋ごとシンクに入れ、大量の氷で満たしてさらに温度を20℃近くまで下げていく。
ウォートが適温まで冷えたことを確認し、消毒済みの発酵容器へと静かに移す。そして、いよいよ今日の主役の登場だ。店員おすすめの乾燥酵母の封を切る。付属の酵母よりも心なしか粒子が細かいように感じられた。それを黄金色の液体の上に、均一になるようサラサラと振りかける。
「よし、次は……エアレーション、だったか」
ネットで得た新しい知識だ。酵母が活動を始める初期段階では、分裂・増殖のために酸素を必要とするらしい。これが不足すると、発酵がスムーズに進まなかったり、不快な香り(オフフレーバー)の原因になったりするという。崇は発酵容器の蓋を、水漏れしないよう固く、念入りに締め付けた。そして、床に膝をつき、容器全体を両腕でしっかりと抱え込むようにして、一心不乱に揺さぶり始めた。中の液体が激しく波立ち、クリーミーな泡が立つ。できるだけ多くの酸素を、この若きビールに溶け込ませるための、重労働だが重要な儀式だ。最後にエアロックを取り付けて、全ての工程は無事に終了した。
道具を片付け、汗を拭っていると、ダイニングの隅に鎮座した発酵タンクのエアロックから、早くも「ポコッ…」という、ごく小さな音が聞こえた気がした。耳を澄ますと、それは幻聴ではなかった。確かに、規則的な生命の音が始まっている。エアレーションをしっかりと行ったおかげか、酵母が目覚めるまでの時間が前回よりも明らかに早いようだ。その力強い反応に、崇は安堵の笑みを浮かべた。「優等生は、仕事が早いな」
さて、と崇は冷蔵庫へと向かう。扉を開けると、先日瓶詰めしたばかりの、記念すべき自作ペールエールがずらりと並んでいる。その光景だけで、胸にじんわりと達成感が広がった。その中から一本を取り出すと同時に、夕飯を兼ねたおつまみも手に取った。近所のスーパーで見つけた、黒いプラスチックトレーに無造作に詰め込まれた惣菜セットだ。小ぶりのフライドチキン、皮付きのフライドポテト、そして焼き目のついた数本のソーセージ。いかにも若者向けといった、少しジャンクな組み合わせだ。
まずはビールをグラスに注ぐ。霞みがかった黄金色の液体が、きめ細やかな泡を立てる。そして、おつまみセットのフィルムに数カ所フォークで穴を開け、電子レンジに放り込んだ。無機質な駆動音の後、チン、と軽薄な電子音が調理の終わりを告げる。フィルムを剥がすと、湯気と共に、チキンのスパイスとポテトの油、ソーセージの燻製香が混じり合った、食欲をそそる香りが立ち上った。
手間暇かけて造り上げたクラフトビールと、電子レンジで温めただけのインスタントな肴。そのアンバランスさが、なんだか今の自分らしい気がして、崇は小さく笑った。フォークで熱々のソーセージを一つ突き刺し、口に放り込む。パリッとした皮の中から、肉汁がじゅわりと溢れた。すかさず、ビールを流し込む。ホップの爽やかな柑橘香と穏やかな苦味が、ソーセージの脂っぽさを綺麗に洗い流し、口の中をさっぱりとさせてくれる。驚くほど、相性が良かった。油分が多く味の濃いものと合わせているからか、昨日ほどねっとりとしたオフフレーバーは気にならなかったのも新たな発見だ。
手元のグラスの中で、愛おしい我が子が輝きを放っている。この一杯を味わいながら、崇はこれからの醸造計画に思いを巡らせた。
今回のIPAキットが狙い通りの美味しさになってくれれば、当面はこの手軽な缶詰キットを主軸に、様々なスタイルに挑戦していくのが良さそうだ。だが、それよりも喫緊の課題がある。これから夏本番を迎えるにあたっての、発酵温度の安定化だ。エール酵母は比較的高い温度を好むとはいえ、25℃を超えてくると不快な香りや雑味を生み出す原因になるらしい。湊市の夏がどれほどの暑さになるのか、まだ肌感覚では分からないが、対策は必須だろう。
発酵専用の小さな保冷庫のようなものを買うのが現実的だろうか。あるいは、大きな衣装ケースに水を張り、凍らせたペットボトルを浮かべて温度を管理するという、先人たちの知恵を借りるか。先日訪れた「MINATO BREVING SUPPLY」には、冷却機構を備えたプロ仕様の立派なステンレスタンクもディスプレイされていたが、高価な上に最低でも50リットルというサイズは、この社宅のダイニングにはあまりにも巨大すぎる。
この一杯を守り、さらに高みへと導くために、自分にできることは何か。新しい街で始まった新しい趣味は、崇に次から次へと、心地よくも悩ましい課題を与え続けてくれるのだった。