第八章:百貨店の誘惑
自作ビールの最後の一滴を名残惜しく飲み干した翌日の土曜日、崇の心はすでにかつてないほどの熱量をもって、次なる醸造へと向いていた。昨夜の感動的な一杯と、その直後に飲んだ市販のクラフトビールとの比較で見えた明確な改善点。その二つが、眠っていた探究心に再び火を点けていたのだ。
課題は明確だった。自作ビールにあった、後味に残る「ねっとりとした独特のクセ」。あれは一体何だったのか。大学時代の知識を総動員して記憶の引き出しを漁る。酵母が活動を終えきれずに自己融解を起こしたのか、あるいは麦汁に含まれるタンパク質がうまく凝固せずに残ってしまったのか。いずれにせよ、それはプロの仕事には存在しない、紛れもない「オフフレーバー」だった。この課題を克服し、よりクリーンな味わいを実現したい。そして、あの感動を再び味わうためには、もっと多くのビールを、もっと安定した品質で仕込む必要がある。
講習会で購入したスターターキットには、もう一回分の原材料が付属していたが、それは前回と全く同じペールエールのキットだ。もちろん、もう一度同じものを作って前回の反省点を活かすのも堅実な一手だろう。しかし、崇の心はすでに新しい世界へと向いていた。ホップの苦みと香りがもっと炸裂するような、あのIPAと呼ばれるスタイルに挑戦してみたい。
問題は、どこで材料を手に入れるかだ。講習会の会場での販売は、あの日のための特設だったと坂上講師が言っていたはずだ。崇はスマートフォンの地図アプリを開き、半信半疑で「湊市 自家醸造 材料」と打ち込んでみた。すると、意外な場所が検索結果のトップに、くっきりと表示された。市役所のすぐ近くにある、この街で唯一の大手老舗百貨店の名前だった。その百貨店のワンフロアに、自家醸造の専門店がテナントとして入っているらしい。
「デパートに……?」
その響きは、崇が抱いていた自家醸造のイメージ――どちらかといえば、一部のマニアがガレージの奥で楽しむ、アンダーグラウンドな趣味という先入観――を根底から覆すものだった。この街では、自家醸造が確固たる市民権を得て、堂々とした文化として成立している。その事実が、新参者の自分を歓迎してくれているようで、なんだか無性に嬉しかった。
支度を済ませ、社宅から一番近いバス停へと向かう。やってきたバスに乗り込むと、車内は週末の買い出しに向かうのであろう地元の人々で程よく席が埋まっていた。バスは工場の脇を通り過ぎ、片側二車線の広々とした国道へと合流する。車窓の風景は、工場の煙突や倉庫が並ぶ灰色の工業地帯から、全国チェーンの飲食店や家電量販店が看板を連ねる郊外のロードサイドの景色へと、目まぐるしく変わっていった。
やがてバスは市の中心部へと進み、アーケードのある商店街や地元の銀行の大きな看板が目に入り始める。東京の目まぐるしい風景とは違う、どこか時間の流れが穏やかな街並みだ。
「次は、高鳥デパート前、高鳥デパート前でございます」
市役所前の一つ手前のバス停で降車ボタンを押し、崇はバスを降りた。目の前には、地方都市の「ハレの場」としての風格を漂わせる、落ち着いた佇まいの百貨店が鎮座している。
エスカレーターで目的のフロアに上がると、その一角は明らかに他の売り場とは違う、専門的で、それでいて開放的な空気を放っていた。ガラス張りのモダンな区画に、「MINATO BREWING SUPPLY」という洒落たローマン体のロゴが掲げられている。想像していたよりもずっと広く、明るい照明が心地よい空間だ。休日だからか、店内には崇と同じように自家醸造を楽しむであろう客が10人ほど品定めをしており、静かな熱気が満ちていた。熱心に材料を選ぶ夫婦、カウンターで店員と専門的な議論を交わしているベテラン風の男性、そして、講習会でも見かけたような、アニメのキャラクターTシャツを着た若者グループもいる。彼らの存在は、この文化が多様な人々に支えられていることを物語っていた。
壁一面には、世界各国の様々なモルトエキス缶が、まるで壮大な図書館の書架のように整然と並べられている。イギリス伝統のビター、ベルギーのセゾン、ドイツのヴァイツェン。講習会で手にしたシンプルなキットとは違い、ここにはありとあらゆるビアスタイルのセットが揃っていた。ホップがすでに入っていて、お湯で薄めて酵母を加えるだけで仕込みが完了するという、手軽さを売りにした製品も豊富だ。
そして、もう一方の壁には、醸造道具がずらりと並んでいた。ポリタンクだけでなく、より洗浄しやすいガラスカーボイや、温度管理が容易なステンレス製の発酵容器。大小様々な寸胴鍋。そして、崇が今一番気になっている瓶詰めの道具たち。お手軽なものから、プロが使うような本格的なものまで、その圧倒的な品揃えは、崇の心を鷲掴みにした。
やはり、ペットボトルでの代用は今回限りで卒業すべきだ。崇は固く決意した。見た目の問題だけではない。耐久性、そして何より再利用時の衛生管理の難しさを考えれば、初期投資を惜しむべきではない。ガラス瓶のコーナーへ向かうと、定番の茶色い瓶が24本入りの箱単位で売られている。これなら、繰り返し洗浄・消毒して使えるし、完成したビールを並べた時の満足感も段違いだろう。問題は打栓機だが、一番安い手持ちタイプのものなら3000円程度で手に入ることが分かった。彼は、新品の王冠が一袋入ったバスケットと打栓機、そして瓶一箱をえいっとカートに入れる。さすがにこの瓶の箱を抱えてバスで帰るわけにはいかない。店の奥にある配送カウンターで手続きを済ませ、社宅への郵送をお願いすることにした。
身も心も軽くなったところで、改めて今日の主目的である原材料選びに戻る。棚を端から端までじっくりと眺めていると、「IPA STYLE」と書かれた、ひときわ目を引く鮮やかな緑色のラベルのデザイン缶を見つけた。IPA――インディア・ペールエール。前回作ったペールエールの、あの華やかな柑橘系の香りが忘れられない崇にとって、その「ホップを大量に使った」という謳い文句は、抗いがたい魅力を持っていた。
その缶を大事に抱え、レジに向かうと、人の良さそうなエプロン姿の店員がにこやかに話しかけてきた。
「IPAに挑戦ですか、いいですね!これ、うちでも一番人気のキットなんですよ」
「はい、前回作ったペールエールのホップの香りがすごく気に入ったので。手軽に試せるかなと」
「ええ、煮沸時間も短くて済みますしね。ただ……もしよろしければ、酵母だけは別のものを使ってみませんか?」
店員が指さしたのは、エキス缶の蓋にテープで貼り付けられている、小さな乾燥酵母の袋だった。
「付属の酵母も決して悪くはないんですが、少しだけクセが強いというか、酵母由来の香りが出やすいんです。お客様、前回のビールで気になった点はありましたか?」
「あ、はい。少し後味に、ねっとりした感じというか、独特のクセが残ったのが気になってて……」
崇の言葉に、店員は「でしたら、なおさらです」と深く頷いた。彼はレジ横のショーケースから一つのパッケージを取り出した。そこには「American Ale Yeast」と書かれている。
「この酵母は、とにかく”優等生”なんです。余計な香りをほとんど出さず、ニュートラルで非常にクリーンな仕上がりになるのが特徴で。前回感じられたという『ねっとりとしたクセ』のような、酵母由来のオフフレーバーを抑えるには最適ですよ。凝集性はそこそこなので瓶の底に酵母は少し舞うかもしれませんが、それ以上に、このIPAキットが持つホップの華やかな香りを、何にも邪魔されずに、まっすぐ引き出してくれます。まさに主役を立てる、名脇役といったところですね」
専門家からの具体的で、科学的な根拠のあるアドバイス。それは、独学で手探りをしていた崇の知的好気心を強くくすぐった。
「分かりました。すごく勉強になります。じゃあ、それでお願いします」
会計を済ませ、打栓機と王冠、そして新しい酵母が入った紙袋を受け取る。ずしりとした重みが、新しい挑戦への確かな手応えとなって腕に伝わってきた。
百貨店を出て、再びバスに乗り込む。ホクホクとした、これ以上ないほどの満足感に包まれながら、崇は車窓を流れる見慣れた街並みを眺めていた。ガラス瓶が届けば、我が家のダイニングに構えた醸造所はまた一つ、新たなステージへと進化する。次はどんな発見が待っているだろうか。あの小さな生命の営みが、どんな極上の一杯を造り出してくれるのだろうか。帰路の時間は、次なる仕込みへの期待に満ちた、甘美で輝かしいプロローグとなった。