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第七章:初めての一杯

二次発酵のために設けられた一週間は、一次発酵の時とはまた違う、静かな緊張感に満ちていた。ダイニングの隅に並べられた17本のペットボトルは、もはや「ポコッ…」という生命の鼓動を聞かせてはくれない。その沈黙は、水面下で進む未知の変化を想像させ、崇の心をじりじりと焦らした。会社から社宅へ帰ると、まずそのボトルたちの元へ向かい、一本一本を手に取って硬さを確かめるのが、この一週間の新しい日課となっていた。東京での、ただ帰って寝るだけだった生活とは大違いだ。

そして、待ちに待った金曜日の夜が訪れた。崇は期待を胸に、いつものようにボトルを手に取り、その変化に思わず「よし…!」と声をもらした。昨日までとは明らかに違う。指が全く入らないほど、カチカチに硬化している。それは、ボトルという閉鎖世界の中で、眠りから覚めた酵母たちが最後の仕事をやり遂げ、十分な圧力の炭酸ガスを生み出してくれたことの、何より雄弁な証だった。

いよいよ、自分の手で「生み出した」ビールを味わう時が来たのだ。崇は逸る気持ちを必死に抑え、まずは試飲として一本だけを冷蔵庫にそっと滑り込ませた。しかし、一度点火した好奇心と食欲は、そう簡単には収まらない。数時間、ただ待つという行為が、これほどもどかしく感じられたことはなかった。何か、もっと早く冷やす方法はないか。キッチンで腕を組み、崇は思考を巡らせる。彼の頭脳は、品質管理の仕事で培われた問題解決の思考回路をなぞり始めた。

最も効率が良いのは、氷水を入れたボウルの中でボトルを高速回転させることだろう。だが、それはできない。絶対にだ。そんなことをすれば、この一週間の静置によってボトルの底に美しく沈殿したであろう酵母のおりが、ビール全体に激しく舞い上がってしまう。それでは、せっかくの上澄みが台無しだ。製品の品質を損なうような手段は、本末転倒である。

ふと、大学の実験室での記憶が閃光のように蘇った。気化熱を利用したサンプルの急速冷却法だ。これなら、ボトルを揺らすことなく冷却できる。崇はすぐさま行動に移った。キッチンペーパーを手に取り、冷蔵庫から出したばかりのボトルにぴったりと巻き付け、消毒用に使っていたアルコールスプレーを、躊躇なく全体に吹きかける。アルコールが蒸発する際に周囲の熱を奪う気化熱の原理。ささやかな科学の応用が、今は何よりも頼もしく感じられた。崇はそのボトルを、まるで貴重なサンプルを扱うかのように、冷凍庫の隅へとそっと収めた。

長く感じられる冷却時間。崇は、この記念すべき日のための晩酌の準備をすることで、その空白を埋めることにした。この日、彼は仕事を終えると、お気に入りの自転車を走らせて隣村の商業施設「アニオンモール」まで遠出していたのだ。目的は二つ。一つは、魚市場の威勢のいいおばちゃんに頼んで、あの暴力的なまでに美味い岩牡蠣をいくつか殻付きのまま譲ってもらうこと。そしてもう一つは、モール内の大きなスーパーで、初めてのビールに合いそうな惣菜を調達することだった。

崇が選んだのは、出汁がじゅわりと香る厚焼き玉子と、さっぱりとした味わいの細巻き寿司の盛り合わせ。ビールの味を邪魔しない、優しい味わいのラインナップだ。そして、万が一、万が一自作のビールが致命的な失敗作だった場合に備え、保険も忘れてはいない。普段はあまり手に取らないが、比較的安価で、それでいて評価の高い長野の有名なクラフトビールの缶を数本、買い物カゴに入れていた。

一時間ほど経っただろうか。冷凍庫を覗くと、ボトルはひんやりと、心地よい冷気を放っている。崇は神聖な儀式に臨むかのように、ボトルをそっと取り出した。並べられた皿、開けるのを待つばかりの岩牡蠣、そして輝くグラス。役者は揃った。

ゆっくりと、息を止めてキャップをひねる。

プシュッ!

想像していたよりも力強く、小気味の良い炭酸の抜ける音が、静かなダイニングに響いた。成功を確信するのに十分な、最高の音だ。崇の心臓が、期待に大きく脈打つ。ボトルの底に眠るクリーム色の澱を揺り起こさないよう、細心の注意を払いながら、グラスを限界まで傾けて黄金色の液体をそっと注いでいく。市販のラガービールのような完璧な透明度ではない。しかし、決して不快な濁りではなく、まるで無濾過のジュースのように、微細な粒子が光を柔らかく反射させる、霞みがかった美しい黄金色をしていた。

崇はゴクリと喉を鳴らし、まずは香りを確かめるべく、グラスを鼻に近づけた。瞬間、鮮烈で華やかな柑橘系の香りが、鼻腔を突き抜けるように広がった。これだ。スターターキットに入っていた「カスケード」というアメリカンホップ。講習会で坂上講師が「柑橘系の爽やかな香りが特徴なんだ」と熱弁していた、あの香りだ。

そして、意を決してグラスを傾け、その液体を口に含んだ。 舌の上で弾ける、きめ細やかでしっかりとした炭酸の刺激。そのすぐ後を、ホップ由来のフルーティーな風味が追いかけてくる。苦みは穏やかで、尖ったところがない。うまい。理屈抜きに、細胞が喜ぶ味がした。ただ、後味に少しだけ、舌の上にまとわりつくような、ねっとりとした独特のクセが残る。これが、休眠しきれなかった酵母の味なのか、それともタンパク質か。上面発酵のエールビールとは、こういうものなのだろうか。初めてにしては、いや、初めてだからこそ、この手作り感溢れる味わいが愛おしくすらあった。

何より、このビールは、アニオンモールで買ってきた海の幸と最高の相性を示した。岩牡蠣を口に含み、その濃厚なミネラル感と海の塩味が消えやらぬうちにビールを流し込む。ビールの持つ柑橘系の香りが、牡蠣の磯臭さを爽やかに洗い流し、後に豊かな旨味の余韻だけを残していく。夢中だった。気づけば、500mlのボトルはあっという間に空になっていた。

「ああ……もっと冷やしておけばよかった……!」

崇は心から天を仰いだ。一本と言わず、二本、いや三本は冷凍庫で冷やしておくべきだったのだ。この感動的な一杯の後に、すぐに次が飲めない。このもどかしさ。彼は慌てて、残りのボトル全てを冷蔵庫の空きスペースへと、パズルのように詰め込んだ。明日からの晩酌が、今や人生最大の楽しみになった。

名残惜しさのあまり、保険で買っておいた缶のクラフトビールも開けてみる。グラスに注ぐと、その完璧な透明度にまず驚かされた。一口飲む。プロの仕事だと、すぐに分かった。雑味が一切なく、クリーンで洗練された飲み口。自作のビールにあった、あの「ねっとりとした感覚」はどこにもない。やはり、あれは改善すべき「オフフレーバー」の一種だったのだろう。

だが、不思議と落胆はなかった。むしろ、明確な課題が見つかったことで、崇の心には新たな炎が灯っていた。品質管理の仕事で、規格外の数値を見つけた時の感覚とは全く違う。これは、もっと良くできる、もっと美味しくできるという、ポジティブな探求心だ。自分の知識と経験を総動員すれば、この味は超えられるはずだ。

「よし、明日、また新しい材料を買いに行こう」

次はどんなスタイルのビールを造ろうか。ホップは?酵母は?湊市に来て初めて見つけた、自分だけの楽しみ。その無限の可能性に、崇は胸を躍らせる。空になった二つのグラスを眺めながら、彼は静かに、しかし力強く、次なる挑戦への決意を固めるのだった。

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