第六章:潮風の味
二次発酵のために瓶詰めされたビールたちは、沈黙を守っていた。一次発酵の時にダイニングに響き渡っていた「ポコッ…ポコッ…」という、あの心強い生命の鼓動はもう聞こえない。理論上は、ボトルという小さな閉鎖世界の中で、休眠から目覚めた酵母たちが再び活動を始め、プライミングシュガーを糧にして最後の力で炭酸ガスを生み出しているはずだった。しかし、その静かな営みは、外から窺い知ることはできない。
仕事から帰った崇の最初の行動は、ダイニングの隅に並べた17本のペットボトルを点検することだった。ボトルをそっと手に取り、硬さを確かめる。まだ、指で押すと少しへこむ。ボトル内の気圧が十分に高まっていない証拠だ。日に日に硬くなっていくはずだと、テキストには書かれていた。本当に炭酸は生まれているのだろうか。雑菌が混入して、予期せぬ腐敗が進んでいるのではないか。科学的な知識がある分、かえってネガティブな可能性ばかりが頭をよぎる。データもなければ、音というフィードバックもない。ただ信じて待つしかない一週間。それは、崇にとって最初の発酵期間よりも、遥かに長く、そして心を試される時間だった。
部屋でじっとしていても、不安が募るだけだ。崇は、この有り余る時間を使って、自分が住むことになった街をもっと知ることに決めた。先日、国道沿いの大型ホームセンターで、変速ギアも付いていないシンプルな自転車を購入していた。自動車免許は持っているものの、東京の複雑な道路事情の中で運転する機会などなく、今では身分証明書代わりの完全なペーパードライバーだ 。その点、湊市の中心部は驚くほど平坦な道が多く、自転車は最高の相棒だった。
その日の夕方、崇は少し遠出をしてみる気になった。目的地は、湊市の隣村にあるという、この地域一帯の商業の中心「アニオンモール」だ。
ペダルを漕ぐと、ひんやりとした風が頬を撫でる。東京のビル風とは全く違う、湿り気と土の匂いを含んだ風だ。道の両脇には、まだ青々とした田んぼや、古い瓦屋根の立派な家々が並ぶ。その穏やかな風景が、ささくれ立っていた心を少しずつ解きほぐしていくようだった。
30分ほど走ると、広大な駐車場を持つ巨大な建物が見えてきた。地方都市でよく見かける、典型的な郊外型モールだ。しかし、その一角は明らかに異質な空気を放っていた。
「魚市場」と書かれた大きな看板が掲げられたそのモール敷地内の建物は、モールの他のテナントとは一線を画していた。もう夕方の店じまいに近い時間帯で、多くの店がシャッターを下ろし始めていたが、濡れたコンクリートの床から立ち上る、海水と魚介類の生々しい香りが、崇の期待を強く煽った。やはり、日本海側に来たからには、その海の幸を味わわずにはいられない。
ほとんどの鮮魚は売り切れてしまっていたが、一つの店の大きな発泡スチロール箱の中に、ごつごつとした岩のような塊が山積みになっているのが目に入った。岩牡蠣だ。
「お兄ちゃん、これ、うまいよ。最後だから負けとくよ。一つからでも開けてあげるから、そこのテーブルで食べていきなよ」
店番をしていた、日に焼けた威勢のいいおばちゃんが、歯を見せてにっと笑いかける。見ると、店の脇には簡素なテーブルと椅子が置かれた、小さなイートインスペースが設けられていた。生でも全く問題ないという言葉に、崇の喉がごくりと鳴った。
「じゃあ、一つお願いします」
崇がそう言うと、おばちゃんは慣れた手つきでとりわけ大きな牡蠣を一つ掴み、その分厚い殻の隙間に専用のナイフを差し込んだ。テコの原理を使い、一瞬力を込めると、パキンという小気味良い音と共に殻が開く。現れたのは、乳白色のぷっくりとした大きな身。差し出された殻の上で、海水に濡れてつややかに、そして挑発的に輝いている。備え付けのポン酢を数滴垂らし、覚悟を決めて一気に口の中へと滑り込ませた。
瞬間、暴力的なまでの旨味の津波が、口の中のすべてを支配した。濃厚でクリーミーな味わい。海のミルク、とはよく言ったものだ。東京で時折食べていた小ぶりな真牡蠣とは比べ物にならない、圧倒的な存在感と食べ応え。磯の香りとポン酢の酸味が、その後味を爽やかに引き締めていく。これは、うまい。理屈ではなく、細胞が歓喜しているのが分かった。
もっと何か、と逸る心で辺りを見回すが、併設されていた海鮮丼の店も、ちょうど「準備中」の札をひっくり返したところだった。名残惜しさを感じながらもモールを後にし、再び自転車を走らせる。すると、少し離れた通り沿いに、東京では見たことのない看板を掲げた回転寿司屋が、夜の闇に煌々と明かりを灯しているのを見つけた。
何の気なしに、吸い寄せられるようにふらりと入ってみると、平日の夕食時だというのに、店内は家族連れや仕事帰りのグループで熱気に満ちていた。待ち客リストに名前を書き、待合の椅子に腰を下ろす。これは長丁場になるかと覚悟したが、お一人様の特権だろうか、カウンターの端の席が一つ空いたようで、10分も待たずに案内された。
目の前を様々な寿司が流れていくのを眺めながら、スマートフォンで店の名前を検索してみる。やはり全国チェーンではなく、この地方に根差した地元の会社らしい。俄然、期待が高まる。タッチパネルでメニューを眺め、「本日のおすすめ三貫盛り」という文字を見つけて、迷わずそれを注文した。
程なくして、軽快な音と共にレーンで運ばれてきた皿の上には、大ぶりの寿司が三貫、堂々と鎮座していた。桜鯛、サワラ、アジ。どれもネタがシャリを覆い隠すほど大きく、艶やかで、見るからに鮮度が良さそうだ。
大手チェーンと比べれば一皿の値段はだいぶ高い。しかし、このネタの大きさと鮮度、そして何より満足感を考えれば、むしろ安いくらいだ。人気の理由が、痛いほどよく分かった。まずは「桜鯛」と書かれた白身魚から。春の時期に獲れる極上の真鯛だったか。その美しい名前に違わぬ、淡い桜色の身は、口に運ぶと、しっかりとした歯ごたえの後に、上品な甘みがふわりと広がる。ほんのり温かいシャリの酸味との相性も抜群だ。次はサワラ。皮目が軽く炙られており、香ばしい香りと、じゅわりと溶け出す上質な脂の旨味がたまらない。最後は、光り輝く皮が美しいアジ。添えられた生姜とネギが、新鮮そのものの青魚の風味を一層引き立て、臭みは一切なく、爽やかな旨味だけが舌に残る。
夢中だった。その後も、メニューに「地物」と書かれたノドグロや白いかなどを次々と注文し、その一切れ一切れをじっくりと味わった。気づけば、目の前には皿が高く積み上がり、会計は、まるで高級な酒でも飲んだかのように膨れ上がっていた。
満腹になったお腹をさすりながら、わざと遠回りをするように、ゆっくりと夜道を自転車で走る。ひんやりとした夜風が、火照った顔に心地よかった。この街に来て、まだ2週間余り。会社と社宅を往復するだけになるかもしれないと思っていた生活は、思いがけない発見に満ちていた。潮の香りが染みついたこの街で、自分の五感を使い、自分だけの楽しみを見つけ出す。その確かな手応えと喜びに、崇はひとり、静かに微笑んだ。ボトルの中のビールも、きっとこの海の幸に負けないくらい、美味しくなっているはずだ。そんな確信にも似た予感が、彼の心を温めていた。