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第五章:瓶詰めの唄

湊市での新しい職場、生産管理課での日々は、まだ研修という名のウォーミングアップ期間だった。広大な工場内をヘルメットを被って歩き、巨大な機械が轟音を立てて紙や素材を加工していくのを眺める。品質管理部門でモニター上の数字の羅列だけを追いかけていた日々とは、何もかもが違った。一つ一つの機械が、あの無機質な数字の源泉なのだと思うと、奇妙な感慨があった。まだ業務の核心に触れているわけではない。先輩社員の後ろについて回り、生産ラインの概要説明を受けたり、過去のトラブル事例を分厚いファイルで学んだりする毎日。しかし、それは精神をすり減らすプレッシャーとは無縁で、何よりありがたいことに、工場の終業を告げるチャイムと共に、定時で帰路につくことができた。


陽がまだ空に高く残っている時間に、がらんとした社宅に帰る 。その生活は、崇に有り余るほどの時間と、新しい趣味に没頭するための心の余裕を与えてくれた。彼の意識は、東京でのキャリアパスや将来への漠然とした不安から解放され、今やダイニングの隅に鎮座する発酵タンクへと、そのすべてが注がれていた。


「ポコッ…ポコッ…」


仕込みから最初の三日間、発酵容器のエアロックから響くその音は、生命の力強い鼓動そのものだった。それは、酵母たちが麦汁の糖を貪欲に捕食し、アルコールと二酸化炭素を懸命に生み出している証 。大学で生命科学を専攻していた崇にとって 、その規則的な音と、タンクの表面から微かに伝わる熱は、かつて顕微鏡の向こうに見たミクロの世界の営みを彷彿とさせ、忘れかけていた知的な興奮を呼び覚ました。


しかし、その活発な生命活動にも、やがて終わりが訪れる。四日目、五日目と経つうちに、あれほど規則的だった音の間隔は徐々に長くなり、まるで疲れた心臓のように、時折、思い出したように鳴るだけになった。そして六日目の朝、ついにその音は完全に沈黙した。タンクの中の小さな仲間たちが、与えられた糖を食べ尽くし、その輝かしい役目を終えたのだ。発酵の第一段階が、終わった。


次の工程は、瓶詰めと、炭酸を生み出すための二次発酵だ。講習会のテキストを改めて読み返すと、煮沸消毒が可能なガラス瓶の使用が推奨されていた。だが、そのページの下には「強くは推奨されないものの、耐久性の高い炭酸飲料用のペットボトルで代用することも可能」という一文が添えられていた。初めての挑戦で、高価な打栓機や大量のガラス瓶を揃えるのは気が引ける。まずはこの手軽な方法で、醸造の一連の流れを身体で覚えるのが賢明だろう。崇は、迷わずペットボトルでの代用を選択した。


仕込んだビールの素は10リットル。底に溜まるであろう酵母のおりを考慮しても、500mlのペットボトルで20本は用意しておく必要がある。その日から、崇の静かな挑戦が始まった。仕事帰りにスーパーやコンビニに立ち寄り、棚に並ぶ炭酸水やコーラを買い物カゴに入れる。帰宅してはそれを飲み干し、空のボトルを丁寧に洗浄して乾かす。来る日も来る日も炭酸でお腹を膨らませる日々は、傍から見れば滑稽だったかもしれないが、崇にとっては目的のための重要な儀式だった。一週間後、彼の足元には、目標通り20本ほどの空のペットボトルが並んでいた。社宅のゴミ箱は、それらのラベルで溢れかえった。


そして、最初の仕込みからちょうど一週間が過ぎた土曜日。崇は、この日を神聖なる瓶詰作業の日と定めた。


前日の金曜の夜、彼はその準備に万全を期した。風呂場に集めた大量のペットボトルとキャップを、家庭用の塩素系漂白剤を溶かした水に一晩つけ置きする 。ツンとした塩素の匂いが、大学の実験室の記憶を呼び覚ます。「醸造は、殺菌に始まり殺菌に終わる」 。坂上講師のあの言葉が、頭の中で何度も反響していた。ほんの僅かな雑菌の侵入が、ここまでの努力を水泡に帰す。その恐怖が、崇の作業を一層慎重にさせていた。


土曜日の朝。窓から差し込む光が、部屋の埃をキラキラと照らしている。崇はまず、漂白剤の匂いを完全に消し去るため、ペットボトルとキャップを執拗なまでに水ですすぎ洗いした。そして仕上げに、近所のスーパーで買ってきた2リットルのミネラルウォーターを使い、一本一本の内部を丁寧に共洗いする。水道水に含まれる僅かな成分すら、ビールの風味を損なうかもしれない。それは彼の真面目な性格からくる、少し過剰なこだわりだった 。清潔なタオルの上に逆さにして並べられたペットボトル群は、まるで実験器具のように整然としていた。


次に用意するのは、二次発酵で炭酸を生み出すための起爆剤、「プライミングシュガー」だ。休眠状態に入った酵母に最後の仕事として、密閉された容器の中で少量の糖分を分解させ、ビールにきめ細やかな泡を溶け込ませるのだ。崇はネットで調べた計算通り、一本あたり約3グラムの糖分が適量だと判断し、コーヒースティックシュガーを一本ずつ開封して、乾いたペットボトルの中にサラサラと流し込んでいった。


全ての準備が整った。いよいよ充填の時だ。発酵容器のコックにチューブを繋ぎ、その先端をペットボトルの底に静かに入れる。崇はゆっくりとコックをひねった。黄金色の液体が、チューブを伝ってボトルの中を満たしていく。それはもう、仕込みの日の甘い麦汁ではない。アルコール度数はまだ低いだろうが、酵母の働きによって確かに生まれ変わった、若きビールだ。そのフルーティーな香りが、部屋にふわりと広がった。容器の底に眠る分厚い澱を吸い上げないよう、決して容器を傾けず、神経を集中させて作業を進める。


一本、また一本と、ビールが満たされていく。最後のボトルを締め終えた時、額にはうっすらと汗が滲んでいた。仕込み量は10リットルだったが、発酵容器の底には、想像以上に分厚いクリーム色の酵母の澱が溜まっていた。それは生命の活動の、あまりにも雄弁な残骸だった。結局、瓶詰めできたのは500mlのペットボトル17本、合計8.5リットル。1.5リットルものロスが出た計算になるが、不思議と悔しさはなかった。むしろ、それほどの酵母たちが、このビールのために懸命に働いてくれたのだという事実に、一種の感動すら覚えていた。


ダイニングテーブルの上にずらりと並んだ17本のペットボトル。それは、東京のデスクで数字を眺めていただけでは決して得られなかった、確かな手応えのある成果物だった 。これからさらに一週間、このボトルの中で小さな仲間たちが最後の奇跡を起こしてくれる。崇は、その輝かしい完成の瞬間を想像し、待ち遠しさに胸を焦がしながら、静かに微笑んだ。

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