第四章:我が家の醸造所
講習会を終えた翌日の日曜日。崇は、まるで遠足の日の子供のように、朝早くから目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光が、新しい一日の始まりを告げている。今日、俺はビールを造る。その事実が、昨日までの退屈な休日とは全く違う意味を、その日一日に与えていた。
まずは、醸造所の設営からだ。ダイニングキッチンの一角を、そのための神聖な場所として定める。買ってきたばかりのスターターキットを床に広げ、一つ一つの道具を丁寧にアルコールで消毒していく。講習会で坂上が「醸造は、殺菌に始まり殺菌に終わる。目に見えない雑菌が、最高のビールを最悪の液体に変えちまうんだ!」と、口を酸っぱくして言っていたのを思い出す。大学の無菌実験室でピペットやシャーレを扱った時の、あの緊張感が蘇る。スプレーボトルで執拗なまでに作業台や道具を清めていった。
すべての準備が整ったところで、原材料キットを開封する。シロップのようにどろりとした濃縮麦汁が入った大きな缶と、乾燥した緑色の塊であるホップの真空パック、そして小さな袋に入った乾燥酵母。これが、あの美味しいビールになるのかと思うと、不思議な気持ちになった。
マニュアルの手順に従い、近くのホームセンターで買ってきた大きな鍋に水とモルトエキス缶の中身を全て投入し、火にかける。甘く、香ばしい香りがキッチンに立ち込めた。焦げ付かないようにゆっくりとかき混ぜながら、60分間煮沸し、タイミングを計ってホップを投入していく。柑橘類を思わせる爽やかで、少し苦味のある香りが、麦汁の甘い香りに混じり合う。それは単なる作業ではなく、素材との対話のようだった。
60分の煮沸が終わったら、次なる関門は冷却だ。熱々の麦汁を、酵母が活動できる温度まで、できるだけ速やかに冷やさなければならない。崇は鍋ごとキッチンのシンクに入れ、大量の氷と水で満たした。氷は職場の工場でお願いしたらあっさりとわけてくれた。
麦汁の温度が22℃まで下がったのを確認し、崇は安堵の息をついた。いよいよ、最後の工程。この醸造というドラマの主役を投入する、生命を吹き込む儀式だ。
消毒したポリタンクに、冷却した麦汁を静かに移す。そして、小さな袋に入った乾燥酵母を、その黄金色の液体の上に振りかけた。
「……頼むぞ」
誰にともなく呟き、ポリタンクの蓋をしっかりと閉め、エアロックを取り付ける。エアロックは、内部で発生した二酸化炭素を外に逃しつつ、外の空気が中に侵入するのを防ぐための弁だ。これで、酵母が活動するための、安全な環境が整った。
最後に、講習会で義務付けられていたCO2センサーを、キッチンの壁に設置する 。これで全ての工程が完了だ。崇は、ずしりと重い発酵タンクをダイニングの隅の、直射日光が当たらない静かな場所へとそっと運んだ。
作業時間は、準備から片付けまで含めて4時間ほどかかった。額には汗が滲み、心地よい疲労感が全身を包んでいる。椅子に腰掛け、自分が造ったばかりの「ビールの素」を眺める。まだ、見た目には何の変化もない。ただの甘い麦の液体だ。
本当に、これがビールになるのだろうか。
半信半疑のまま、崇はしばらくその場を動かずにいた。
数時間が経っただろうか。夕食を終え、再び発酵タンクの様子を見に行った崇は、思わず「おっ」と声を上げた。エアロックの中の水が、かすかに動いている。蓋の隙間に耳を澄ますと、微かに「しゅわしゅわ」という音が聞こえる気がした。
酵母が、目覚めたのだ。
糖を捕食し、アルコールと二酸化炭素を生み出すという、生命活動を始めた証拠だ。
その微かな音と変化が、崇の心の奥深くに、確かな感動と興奮を呼び起こしていた。東京で、モニターに映る無機質な数字の羅列を眺めるだけの日々。そこには、何の感動も、手応えもなかった。しかし、今、目の前で起きているこの静かな変化は、紛れもなく生命の営みそのものだった。
ポコッ……ポコッ……。
やがて、エアロックから、断続的にガスが抜ける音がはっきりと聞こえ始めた。それは、これから始まる発酵のシンフォニーの序曲。これから約2週間、この小さな醸造所で、酵母たちは懸命に働き、崇のためだけの一杯を造り上げてくれる。
湊市に来て、まだ一週間と少し。この街で、自分はうまくやっていけるのだろうかという不安が消えたわけではない。だが、今はもう、孤独ではなかった。共に戦ってくれる、無数の小さな仲間がいる。
崇は、静かな部屋に響く生命の音に耳を澄ませながら、これからの日々に、確かな光が差し込んだのを感じていた。東京では決して見つけることのできなかった、自分だけの楽しみ。その発見が、この何もないと思っていた地方都市を、かけがえのない場所に変えていく。そんな予感に、崇はひとり、静かに微笑んだ。