第三章:醸造への第一歩
週末は、驚くほどあっという間にやってきた。市役所から帰ったその日のうちに、崇はチラシに書かれていた連絡先に電話をかけ、土日開催の自家醸造講習会に申し込んだ。幸いにもまだ空きがあり、崇は安堵の息を漏らした。
土曜日の朝。崇は少しだけ高揚した気分で目を覚ました。講習会の会場は、市の中心部にあるコミュニティセンターだ。先日と同じように、バスに揺られて向かう。
会場の会議室に入ると、すでに20人ほどの参加者が集まっていた。崇のような若い単身者から、夫婦と思しきカップル、年配の男性まで、年齢層も雰囲気も様々だ。その中に、アニメのキャラクターがプリントされたTシャツを着た若い男女のグループがいるのが目に入った。彼らは興奮した様子で小声で何かを話している。
やがて、講師らしき恰幅のいい中年男性が前に立った。
「はい、皆さんこんにちはー!本日は湊市自家醸造講習会へようこそ!講師を務めます、坂上と申します。ここの近くで小さな造り酒屋をやってます。よろしくどうぞ!」
気さくな口調で始まった講習は、まず湊市が特区になった経緯からだった。
「もともとアメリカ帰りの市長が、向こうのホームブルーイング文化を日本でも、って夢を持っててね。でも、法律の壁は厚くてなかなか進まなかった。そしたら、あの神アニメですよ!『湊醸造デイズ!』この街を舞台にしたあの作品のおかげで、一気に風向きが変わってね。国も『やってみろ』って言ってくれて。今じゃ聖地巡礼で来てくれる若い子も多くて、そのまま移住して醸造仲間になるケースも少なくないんだよ。そこの君たちもそうかな?」
坂上がTシャツのグループに話を振ると、彼らははにかみながら頷いた。「あのシーンの再現をしたくて……」という声が聞こえてくる。
講習は、自家醸造の基本的なルール説明へと移った。そして、一番時間を割かれたのが安全管理だ。「発酵の過程では二酸化炭素が発生します。酸欠事故を防ぐため、皆さんにはこのスターターキットに含まれているCO2センサーを、醸造を行う部屋に必ず設置していただきます。これは法律で定められた義務です」
休憩を挟んだ午後の講習で、坂上は言った。
「自家醸造と一言で言っても色々ありますが、我々がまず初心者の方に推奨しているのが、ビール造りです。比較的道具も少なく、手順も確立されているので、初めての方でも失敗が少ないんですよ」
解説は、濃縮された麦汁エキスを使ったビール造りの方法が中心だった。その科学的で、しかしどこか有機的なプロセスに、崇は大学時代の探求心をくすぐられるのを感じていた。
二日間の講習が終わり、出口でスターターキットが販売されていた。崇は迷わず、一番基本的なセットを一つ購入した。ずしりと重い段ボール箱を抱える。中には、発酵容器となる5ガロン(約19リットル)の食品グレードポリタンク、エアロック、温度計、比重計、そして例のCO2センサーが入っている。それとは別に、初心者向けのビール原材料キットも購入した。
帰り道、腕に食い込む箱の重さが、これから始まる新しい挑戦の重さのように感じられた。社宅が見えてくる。今までは手持ち無沙汰な広い空間だったが、今はもう違う。あそこは、自分だけの醸造所になるのだ。東京での日々とは違う、確かな手応えのある毎日が、ここから始まる。そんな予感がしていた。